「小机」は まづ妄想の初めなり・・
~「小机城」のど真ん中に突入するJR横浜線。向こうのあの白い橋のようなのは第三京浜。~
皆様、明けましておめでとうござりまする。
こたびのタイトルは太田道灌(の和歌といわれている?) 「小机は まづ手習いのはじめなり・・」 のパクリにて、城跡妄想族、年の初めの妄想は後北条の武蔵南部の拠点「小机城」と北条幻庵にござ候。
~降臨!なんの合成処理もしておらぬ。降臨してくださったのはどなた様?小机城のスッバラシイ堀のスッバラシイ竹林(これだけは以前に撮った写真)~
小机城と小机衆は、私の為さま北条為昌のものでありました。その後、これまでさんざん書いてまいりましたとおり為さまが不慮の謎の死をとげた(←マリコ・ポーロ私感)のちは、為さまにとっては叔父である北条幻庵の管轄となりました。
北条幻庵は、我らが殿、氏照どの達兄弟の大叔父上です。つまり、パパ氏康殿の叔父上、ジジ氏綱公の弟君、ヒイジジ伊勢新九郎さん(早雲)の息子であります。
大変な長生きをされた大叔父上様は、後北条百年の歴史をほぼ全て見て、ほぼ全てに関与し、当主5人全員と会っていて、そして、小田原北条が滅びる前の天正11年(頃)に亡くなりました。後北条の上昇期だけに生きた方ですね。
~西郭(本丸)と細長曲輪あたりのスッバラシイ堀と土塁。土塁をよじ登ろうとしている‘紫テン’はわらわ。土塁や櫓台の上から覗くとなお一層スゴイ!~
▲ 「家督」の方の継承
幻庵大叔父上様はとても幸運な方のように思えますが、実は大叔父上は後継ぎに恵まれませんでした。
① 嫡男の三郎くんは、家督を継いで5-6年で早世。
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② 次男の氏信(新三郎)さんは家督を継いだものの、vs 武田信玄の戦(いくさ)で討ち死に。戦(いくさ)というのは、これもさんざん書いております例の永禄11-12年の武田信玄の駿河侵攻です。
氏信さんは、今川義元の息子である氏真を助けるため(今川の領地をゲットするため?)のこの戦で、三男の融深くん(箱根権現の僧)と共に亡くなってしまうのです。二人とも享年は定かではありませんが、たぶん30才そこそこだったでしょう。
↓
③ 息子全てを失った大叔父上様は、甥の氏康殿のところから三郎さん(後の景虎さん)を婿養子にむかえます。
嗚呼しかし、婿に迎えてたった3ヶ月。景虎さんは、幻庵殿の娘と離縁し、遥か越後の謙信くんが元へ お嫁 にいくことに……ちゃうちゃう証人(人質)としてゆくことと相成りました。
↓
④ ただひとつの救いは、次男の氏信さんに息子クンがいたことでした。つまり、幻庵殿の孫ですね。小さい時にパパを失くした彦太郎(氏隆)クンは、幻庵おじいちゃまに養育されていたのでしょうかねえ。
氏隆クン、運命の天正18年はちゃんと小田原城に籠城して、みんなと一緒に高野山で蟄居しています。
その後は、丸亀(讃岐)の生駒殿という城主に仕えて、慶長年間に亡くなったとのことです。生駒殿という方は、おサルの配下にいた人ですか?後北条の御一家衆も随分とランクが下がっちゃいましたのう。
↓
氏隆クンには子供が無く、ここに、北条五代を生き抜き北条一の長寿を誇った(たぶん)幻庵の一族は終わるのでござります。
~大好物な‘土橋♪’橋の上にいらっしゃるのは知らない人~
▲ 「小机城主」の方の継承
玉縄の北条綱成のところなどでも触れましたが、私にとってややこしいのは、「城主」が=イコール「当主」ではないところなんですよ。
上に書き連ねたのは、幻庵さんちの「当主」の継承です。もちろん彼らは=イコール 「小机城主」でもありますが、「城主」としては、彼らの間にもう二人はいります。
まずは、嫡男の三郎さん② を亡くした後に、氏康の弟である甥の 氏堯(うじたか) を「小机城主」として置き、幻庵殿はその後見となります。(幻庵殿は氏堯の他にも様々な北条&北条関係者の後見となっていますが、それはまた追々。)
氏堯殿は、つまり為さまの弟です。小机領は元々は為さまのものでしたから、ワンクッションあけて弟が継いだというわけですな。
しかし氏堯殿は、40才になるかならないかのうちに亡くなったようです。その後に、成人した幻庵殿の次男・氏信さん③ が小机領を継承します。
~西郭(本丸)と東郭(二の丸)の間の細長曲輪。これ、曲輪ではなくて土塁じゃないのかな?~
もう一人の城主は、景虎さん④ が越後に嫁に行った後にやってきますです。
話がチビッとそれますが、上にも書いたように、景虎さんが幻庵家の婿&小机城主だったのはたった3ヶ月。
景虎さんは小机には居なかったのではないかな。一応は城主で小机衆を束ねる立場ですから一回くらいは来たかもしれませんが、婿入りということもあり、小田原本城傍の幻庵殿の広大な屋敷がある久野あたりにいたのではないですかね。
もしかしたら、3ヶ月後にそんなことになるとは思いもせず、幻庵殿がカワイイ娘夫婦のためにと屋敷を新築してあげたかもしれません。
それに、そもそも小机城には笠原殿という「城代」が置かれてましたので、その後も「城代」がいたのでしょう。ちょっと私しらべていません。
~東郭(二の丸)から西郭(本丸)へ細長曲輪を通って向かう土橋。本丸虎口になるのかな。~
話を小机城主に戻し・・・
そんなこんなのドタバタがありましたが、幻庵大叔父上様が新築した屋敷?は無駄にはなりませんでした(知らないけど)。景虎さんの弟の氏光さんが、景虎さんの一瞬の妻であった幻庵殿の娘の後婿となり、小机城主にもなりますのです。
氏光さんは、パパ氏康の息子ではなく、氏堯殿の息子だそうですね。少年の頃にパパ氏堯を失くした氏光クンを、伯父である氏康殿が養子として引き取ったようです。
つまり・・・つまり、ばかりの今回ですが・・・、③・④の後に②の息子が来たというわけです。(←何を言っちょるのかわけ分かんない???)
つまり、小机領は為さま系(氏堯系)と幻庵系で繋いでいるのですな。というか、幻庵殿は為さま系の後見でした、という方があっているかもしれません。
天正18年7月に小田原が滅びた後は、氏光さんも高野山へ行きますが9月に亡くなってしまいます。病でしょうか。何があったのでしょうか、何を思ったのでしょうか・・・。
~鶴見川に面した方向(右岸のこんもりしたのが小机城)。横浜線の車内から撮影。当時、城の東西は湿地だったそう。~
太田道灌の歌(といわれている)からもわかるように、もう少し古い関東の争乱期の上杉禅秀や長尾景春の乱時代にも主要な舞台であった歴史の古い城であり、そんなこんなで繋いできた小机城。
後北条運命の天正18年の小田原攻めの時は、周辺の村々にはすでに4月に(落城は7月)、おサルの禁制が立てられまくりました。
ということは、北条の最後までは使われなかったということだね。
~小机駅構内から小机城を望む。駅から城に向かってまっすぐに♪線路は続くよ~
小机駅はその周辺の駅に比べるとのどかに畑が広がる土地ですが、住宅地であり、日産スタジアムもあり、よくぞここにここまで残ったなと関心し感謝もしたい城跡です。
これだけの素晴らしい堀が残っているのに、革靴やパンプスでも行けるくらい(汚れますが)、整備もされています。
小机城で代々の城主達に思いを馳せながら、今年もまたこうして後北条で燃え(萌え)させていただけますように願うお正月でした。
そして、皆様がこの妄想だらけのブログで少しでも楽しいひと時を過ごしてくださったら嬉しゅうござります。
今年もよろしくお願い申し上げまする。
注) 幻庵殿にはまったく詳しくないため、下山治久氏著「後北条氏家臣団人名事典」、黒田基樹氏著「北条早雲とその一族」「戦国北条氏五代」などなどを参考とさせていただいております。まあ、いつも参考にさせていただいておりますが、今回は特に。
別件)
先のブログ記事「会津の言い分」で、会津藩最後の当主は容保公と書いておりましたが、最後の当主は容保公ではなく‘喜徳’殿とのご指摘をいただきました。喜徳殿は、水戸徳川からの養子のようです。
ご指摘まことにありがとうございました。勉強不足でしかも再読もせず過去の記事をリンク貼ってしまいまして恥じ入る次第です。加筆修正いたしました。ご返信させていただいたのですが送信できませんでしたので、この場にて御礼申し上げます。
「北条幻庵の箱根」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2010/01/post-87c7.html
続き
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2010/01/post-21af.html
「八王子城-落城忌2 幻庵の一節切はこんな音色?
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2010/08/post-3914.html
以上の他にも、幻庵殿は、幻庵殿が後見をなさった崎姫一家の記事にもチョクチョク登場。ご興味あらば、カテゴリー「後北条のヒロイン達」をご覧くださりまし。
ほにゃ。 コメント欄をもうけております。公開させていただいてはおりませぬがご感想なりいただければ嬉しいです。画像は全てマリコ・ポーロが撮影したものです。
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