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2013年3月 6日 (水)

北条氏照の存在が抹殺された?「星谷陣屋」

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~鈴鹿明神~


前回のブログ記事の妄想シリーズのところで「由井の源三」と書いていて、以前に歴史ブログ友が教えてくださった妄想スポットを思い出しました。

それは、
座間(ざま)・・・ざます。

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「座間」と聞いて浮かぶのは米陸軍の座間キャンプ、旧日本陸軍の相武台と猛々しいですが、約400年前の戦国時代も猛々しゅうございました。我らが北条氏照どの御用達の「陣屋」があったのです。というか、あったようなのです。

座間は、我らが北条が大石殿から奪い取った由井領であり、位置関係は小田原と八王子の中間となります。小田原や玉縄などから北関東に出張って行くにも、集合場所の陣屋としてはいい位置にありますね。


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~鈴鹿明神の説明板。徳川幕府下である関東の神社仏閣には珍しく、後北條のことが書いてある。藤菊丸君のこともちゃんとあった。~


座間の鈴鹿明神は1500年以上前に創建された歴史の古~い神社だそうです。そこに、「北條藤菊丸」が神社再建の大旦那として掲げた棟札が現存しています。

藤菊丸君とは言わずもがな、弱冠16歳(位)の青年武将揺れるハート我らが北条氏照どのにござります。


これらのことから、藤菊丸くんは、小田原から滝山(または浄福寺城)に入る前にこのあたりに居住していた可能性もあると、随分前ですが、氏照研究の先生は書かれてらっしゃったのを拝読したことがあります。

鈴鹿明神の棟札は非公開ゆえ、お参りだけして星谷寺(しょうこくじ)へ向かいます。

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鈴鹿明神を背に、白井なにがしの屋敷跡だったと地元では伝わっている谷から、だらだらと続く観音坂を上がると、向こうに見える城跡のような小山が「陣屋」のようですな。

その手前左に星谷寺があります。


星谷寺の観音様は元は「陣屋」だったといわれている山の上にありましたが、江戸は元禄時代に山下の星谷寺に御移座されたそうです。つまり、氏照どのの頃は山の上にあったということです。


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星谷寺の説明板ですが、徳川幕府下の関東の神社仏閣の常、源頼朝→徳川と、ちゃんと?北条がスルーされています。


私は、分厚い北条氏照文書集を保持しとりやす。パラパラめくっているだけでも座間の星谷寺や鍛冶職人に照どのが発給した印判状がたくさん目に入ってきます。

例えば元亀4年、照どのは星谷寺に千部経の読経を依頼しています。


また例えば、天正8年。
「星谷寺観音堂 屋形様毎度のご陣たるの間・・・うんたらかんたら」
と、たびたびたび、照どのが星谷寺に戦勝祈願をしておるとあります。

なぜ、北条をスルーする?
わっからんのう??


話はずれますが、この天正8年に戦勝祈願をしている戦とは、西原峠(檜原村)での武田軍との戦ですよねえ。

八王子(滝山城)から檜原方面へ行く途中に座間の星谷で戦勝祈願したとすると、いったん南にググッと下ってまた北へググッと上がるという順路です。それとも、自身は星谷へ行かないで祈願だけしたのかな?


いや、行って直接祈願したわよねえ。照どの、滝山あたりではなく小田原にいたのかしら?

わっからんのう??


話を戻し・・・

ま、私には分からんですが、北条軍団軍団長の我らが氏照どのが戦勝祈願をしていたお寺です。わらわも、きちんとお参りいたしましょうぞ。


説明板にも書かれていますが、星谷寺も縁起の古いお寺のようですね。頼朝の御家人、佐々木信綱寄進の梵鐘なんてえのもありやしたよ。

さてっと、いよいよ「陣屋」に登りましょうかの。



「陣屋」だったといわれているところは、今は県立谷戸山公園となっています。入口はいくつかあるようですが、メインの入口には何故だか立派な新築?の長屋門がありました。

せっかく戦国時代にタイムトリップしたいのに長屋門なんぞから入るのはイヤじゃと思いまして、周りをウロチョロして、↓を見つけました!

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~これって、城か古街道じゃないの?~

ここから入り、鬱蒼とした森中の道をジョギングする人や写真を撮る人やバードウォッチングの人達とすれ違いながら、森林浴~♪とばかりに登ったり下ったりしていたら、

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いきなり視界が開け平坦地に出たので、びっくり~。

広い広い。滝山城の中の丸(千畳敷)か山の神曲輪みたいに広いです。これなら、たくさんの村人・・・paperちゃうちゃう、兵馬を収容させられますね。

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本陣だったといわれている丘に登っていく途中振り返ると、眼下の池や平坦地を‘コの字’に山が囲んでいて(そうか、谷戸ですものね)、その向こうが上の写真のとこになります。

まあ、広い広い。

いったい、ここは、陣屋となる前はなんだったのだ?(陣屋だったとして)


小田原から街道を通って出て行く途上になりますよね。氏照どのがただの山を一から切り開きこの陣屋を築いたとも思えませんし、白井氏館はもう少し下の方らしいですし。

本陣だったといわれている場所は「本堂山」とよばれていて、繰り返しになりますが観音様が元禄時代までおわした観音堂があったのでしょ。

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と見ると、大きな説明板がありました!ここに何か書いてあるだろうと見たところ・・・

しょえ~
戦国時代、そして、後北条がこのあたりを支配していた時代のことは、空白!でした。

どういうこっちゃねん。


星谷陣屋のことは、きちんとは分かってないのかなぁ。城跡(星谷城)だったという人もいますよねえ。

座間市のHPにも谷戸山公園については、陣屋のことも氏照のことも触れられていませんでした。

わっからんのう~??


周辺には縄文時代の遺跡もあり、谷戸山公園も広大で、池もあり自然豊か。平日でもたくさん人が楽しそうに過ごしていて、縄文遺跡や自然や里山の暮らしに関する説明板もとても充実していました。

でもね、城跡はおろか戦国史についての説明は、私はまったく見つけられなかったんですよ。

長屋門(新築)はなんなのかしら?
江戸時代に武家屋敷でもあったのかしら?

わっからんのう~??


本堂山の中腹には、五輪塔が十数基、大事に低い塀に囲われてありました。これらの五輪塔もどなた様のものかは分かりませんでした。白井氏、かしら?

もう、わっからん!angry

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日差しが強すぎて写ってないですが、本堂山からは箱根の駒ケ岳や二子山まで見渡せました。

もしここが陣屋だったのなら、各支城衆が続々と集結してくるのがよう見えるのう。


本堂山の説明板に、NHK「未知への遺産」の言葉が書かれていました。

「黙して語らない遺跡の声を聞くには、絶対必要なものがある。それは想像力である」

ふ~ん
妄想力じゃあないのか。


あまりに分からないことが多いので(わらわには)、心地良い空間ではあれど妄想に浸れないスポット ざました。。。


ほにゃ。

cat コメント欄をもうけております。公開させていただいてはおりませぬが、ご感想なりいただければ嬉しいです。画像は全てマリコ・ポーロが撮影したものです。

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