戦国時代の「城館」とは?の講演会 at 葛西
~「葛飾区郷土と天文の博物館」の後北条と葛西城関連の常設展示。葛西城の本丸の表側近くの堀から発掘された戦国時代の若い女性の斬首された首級(ホンモノ)も展示されている。2度殴打され、2度目が致命傷。彼女は誰?彼女に何があった?妄想は広がる。~
ジオラマは、葛西城跡の発掘現場。上下の青色部分は現在は公園や民家となっている所で、真ん中の茶色部分が発掘のメインだった所です。細かく発掘状況がポイントされています。
茶色の部分は、今は環状七号線の真下です。
葛西城は、戦国時代の城郭史や坂東の戦国史にとって非常に悲しいかな環7に埋もれてしまった・・・といわれていますが、環七の着工があったからこそ葛西城や坂東の歴史のひとつが明らかになったともいえると思うのです。ここに環七が敷かれなければ、葛西城の重要性は歴史に埋もれてしまっていたかもしれません。
果てしない妄想を広げられるのも、ある意味、環七のおかげ様です。とは思えどもったいないことではありますが、現在でも考古学ボランティアの方達による発掘が細々と?続けられているのはありがたいですねえ。
葛西城については、「後北条一族の陰謀 公方の御座所葛西城」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2013/01/post-fdbc.html
で、少し詳しく妄想しておりますゆえご覧くださると助かります。
さて、
サル3月24日、先に当ブログでもご紹介しましたが、その続けられている発掘調査の第3次報告会と講演が「葛飾区郷土と天文の博物館」で催されました。
午前中の報告会には残念ながら行けなかったのですが、午後の講演で遭遇した八王子衆の話だと、報告会では公方の権威をゲットするブラック北条の話も出たそうです。
ガーーーン
大好物 の話。
ヤボ用を秒速ですませて頑張って行けばいかった~。
何度も書いちょりますが、私は後北条信者ではなく後北条ファンなので、北条のブラック話も大好き。ちょうど先日↑の「後北条一族の陰謀 公方の御座所葛西城」でそのことを書いたばかりで、マリコ・ポーロ的には旬な妄想ネタだったのにぃ~。
発掘報告なのでそういう「人的」な話は出ないと思っておりました。やっぱりどうせ行くなら全部参加しないとアカンですなあ。今度はその演題での講演を是非お願い申しまする。
報告会はとても興味深かったそうですよ。
~一乗谷朝倉館復元図(レジュメより)~
午後の講演は、「戦国時代の考古学 - 城館への視点」 by 小野正敏氏です。小野氏は、朝倉一乗谷の発掘に長年たずさわってらっしゃる方です。
なぜ私がこの講演を拝聴しに参ったかと申しますと、戦国時代の当主クラスの館や庭園が当時どんなものだったかを知りたかったからです。
だってね、前にも書きましたがね、小田原の「私の(←せやからアンタのやあらへんて)御用米曲輪」の発掘現場に何度も行って思うのは、北条の当主クラスの館や庭園の礎石や石組みや石敷き「遺構」は見られど、それはそれで興奮するのですが、それらの館や庭園がどんなものだったかを妄想する時に脳内でいまひとつ具現化できないんですもん。
もちろん本などに載っている想像絵図面や映画やドラマなどで見ることは出来ますが、最新の考察を直接専門家から伺ってみたいと思ったのです。
これまで中世の城については、「縄張り」研究が主流でした。それはそれで現在も非常に重要な研究ですし、私のような稚拙な山城好きにとってもエキサイティングでスペクタクルで楽しいものではあります。
しかし昨今は、「縄張り」研究 →(または+プラス) 城や城下町での「生活や政治」の研究も重要視されてきているそうです。
そのキッカケとなったのが、坂東では環七着工のための 葛西城 の発掘であるとのこと。西ではやはり、白いお父さん犬の故郷?一乗谷なのでしょうかね。
う~ん、好みだわ。
いや、白いお父さん犬が好みなのではなく、城や城下町での生活や政治や個人情報的ゴシップ&スキャンダルの研究が好み。
かつて私は自分が「山城」が好きだと思っておりました。最初、当ブログのタイトルも「マリコ・ポーロの山城見聞録」でした。山城が好きで(だと思って)アチコチの山城を歩いていました。
だんだん後北条に興味を持ち始めたある時、ふと気が付きました。どうも後北条関係の山城、それも北条直営関係でないと、歩いていて自然の中で気分は良いのですがいまひとつ萌えない。
考えてみれば、もともと脳内が「理数系」ではなく「ミーハー妄想系」。
城を歩いていて縄張りがどうこうより、ここで誰それがどうこうした、どんな気持ちで守ったのか、攻めてきた方はどういう気持ちだったのか、どういう背景があって戦になったのかの方が興味ありましたものね。
それはさておき、講演でビビッときたのは・・・
一乗谷の朝倉館や大内氏館や大友館などの発掘調査を元にした、主殿・会所・庭園などの館空間のレイアウトのこと。
上の写真(朝倉館復元図)や下の細川管領邸の絵図(洛中洛外図)のような感じなんですねえ。どちらも、どこかで何度も見ているのにあらためて提示されないと分からないマリコ・ポーロ。
な~るへそ。
そうか。主殿や会所や庭園はだいたいそういう配置で置かれていたのか。
ということは、小田原の御用米曲輪も出てきた遺構からすると、ああなっててこうなってて~~~妄想中~~~。
蔵らしきものや、台所らしきものが(最初の礎石が出てきた細長い建物はわらわは台所とふんでおるのだが)、主殿や会所にくっついてあるものかな?と思っていたが、これらの絵図面によるとあってもおかしくはないのだな。
ちなみに細川邸は、我らが新九郎さんこと北条早雲も足しげく出入りしていた所ですよねえ。元々後北条一族は京の都のど真ん中で活動していたDNAを持ってはるんやわ。
~洛中洛外図の細川管領邸(レジュメより)~ 将軍足利義昭の朝倉館への御成りプログラムから見た、それぞれの空間の機能のこと。
主殿と会所はほぼ必ずセットで存在し、主殿では儀式が、会所では宴が行われた。そして、会所には必ず庭園があった。
いつの世も同じですが、主殿で正式な盃事が行われたあとに、会所に席を移し飲めや歌えやの無礼講の大宴会となるわけですな。無礼講とはいえ、ほんとうに無礼を働いたら追って処分されるのも現代と同じだったのかな。
な~るへそ。
そうか。小田原御用米曲輪でも、庭園跡が出てきたことでこの庭園を眺める位置にあったのは主殿ではなく会所ということですな。
庭園は、権威と文化の象徴だったそうですよ。小田原北条家でも、造園プロデューサーは当時文化人といわれた北条幻庵殿でしたものねえ。
台所はアノあたりだったとして、主殿や会所に隣接して茶室もあったはず。茶室に面して必ず小さめの庭もあったはず。ふふふふ。だんだん絵図面が脳内で描けてきましたのう。
会所と主殿はセットで存在ということは、次に御用米曲輪から出てくるのは、御主殿ですな! 同じく御成りプログラムから見た、それぞれの空間の室礼(しつらい)のこと
主殿は和様(made in Japan)、会所は唐様(インポート ブランド物)だったそうです。
これは存じませなんだ。当主クラスの山城や屋敷跡から出土する唐物の威信財はこういうシチュエーションで会所にディスプレーされていた物だったのかもしれませんね。
義昭の御成りプログラムは当時の基本だそうで、だいたいの当時の同様の儀式はこの式次第で進められたであろうとのことです。
そういえば、先のブログで触れた葛西城での関東公方・義氏や晴氏の元服式や就任式も、こういう段取りでしたよねえ。
な~るへそ。
そうか。公方・義氏が小田原城へ御成りした時も、あの御用米曲輪で、あのへんにあった主殿で盃事をし、そのあと、あのへんにあった会所であの庭を眺めながら、氏康殿や氏照どのや氏政さん達とあんなことやこんなことをしたのだろうな~~~妄想中~~~。
氏康殿も、インポートブランドの青磁の壺や香炉や花生を棚に飾り、唐物で茶を点て、京都に発注している<白ウズマキかわらけ>をふんだんに使い~~
と、ここで思い出した。
余談ですが、大和の歴友サユリンが先日、筒井城の発掘見学会に行かれた時の<かわらけ溜まり>の写真を見ました。
かわらけ溜まりは見慣れているはずなのに、なんとなく見慣れない感がありました。なんじゃろうこの感覚は・・・と思いマジマジと写真を見たら、そうなんですよ。白い!んですよ。
お父さん犬じゃあらへんで。<白かわらけ>なんやな。私達、坂東人が見慣れている<かわらけ溜まり>は赤茶色じゃん。さすが将軍家お膝元。上品ですのう。
当時、西から坂東に下向されたお公家さんやお坊さんや連歌師や武将さん達は最初驚いたのではないですかねえ。
「なんや、こりゃ(lll゚Д゚)。これ、キレイなんかいな?こないなもんで、ご飯よう食べられへんわ~」
なんてね
話を戻し。
なに話してたんでしたっけ?
↑
ほんとに忘れた
戦国時代、槍や鉄砲だけでは「城」は守れなかった。文化や宗教も大事だったとおっしゃってらっしゃいました。
まあ、とにもかくにも、その文化や宗教の力を検証するのに、短い期間とはいえ公方の御座所だった葛西城は素晴らしい遺産となるはずでしたが、今は環七の下。全容は分かりません。
残されたのは、そうです!小田原城御用米曲輪しかないですね!しかも本城ですもの。不足はないですよねえ。
全容は無理としても葛西城はとても興味深い面白い城だと思います。坂東の戦国ファンは、是非ぜひ、環七に立って権威の象徴だった葛西城に思いを馳せてみてくだされ。
あ、それと、葛飾区郷土と天文の博物館は、とても立派な博物館でした。素晴らしいプラネタリウムもあり、展示エリアも凝っています。虎さん埴輪もあるでよ。
ほにゃ。。 コメント欄をもうけております。公開させていただいてはおりませぬが、ご感想なりいただければ嬉しいです。画像は全てマリコ・ポーロが撮影したものです。
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