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2013年7月 2日 (火)

「未完の多摩共和国~新選組と民権の郷」

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~佐藤文明 著(凱風社)~


鶴ヶ城の「北出丸」からレオ様(蒲生氏郷)時代の石垣の一部が発見されましたね。

当時は「北馬出」でしたが、震災で崩れた加藤氏時代の石垣を修復中、その最下部から見つかったそうです。


「八重の桜」もいよいよクライマックス(すでにか?)の籠城戦となりました。

少々過剰なほど会津を悲劇的に描いている感がなくもないですが、これはドラマであるし、今年の大河は東北応援の意味もあるし、西の人達には人気がないし、などなど色々思えど、やっぱり泣いちゃう・・・


そうそう、これは東京の人しか知らないかな?

先々週は東京都都議会選挙だったのですよ。もう分かりました?そうなんです。大河の途中で次々とテロップで流される開票速報。それも、画面の上部に2行で出るので役者さんがアップになると顔が見えにゃい。白虎隊が道に迷い、さあ、どうする!のところでも見事に隊士君の顔に被さりました


「龍馬伝」の時、ドラマ一年の集大成であった龍馬暗殺のまさに龍馬さんが切られたまさにその瞬間も、龍馬さんの顔にどこかの選挙速報がかぶり大バッシングとなったのに、まったくその教訓が生かされていませんな。

ドラマが終わってからのニュースでも間に合うのにね。こりゃあ、クレームの電話バシバシいっちょるだろうな~とも思いましたが、そんなにいかないですかね。東京だけですものね。次の参院選の時は、放映時間が変更になるでしょうから大丈夫だわね


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さてさて、我らが北条も、八王子城落城→韮山城開城→津久井城開城で、ただいま本城小田原城が籠城中です。

北条ファンにとってそんな切羽詰った時になんですが、ここのところ「未完の多摩共和国」という本を読んでおります。北条&鎌倉公方&合戦観戦歴友から教えていただきました。


面白い!


後北条時代から続く、幕末から維新そして明治初期に至るまでの多摩の様々な出来事が、多摩に生きる様々な人達の活動や闘いを通して書かれています。特に、佐藤彦五郎氏をはじめとする新選組をバックアップした多摩の名士達、幕末の英傑・江川担庵、千人同心などの活動が少し小説風に、しかし事細かに書かれているのが興味深いです。

もちろん、近藤さん、土方さん、井上源さん達と新選組の辿った道も時系列で完結されています。


「多摩」は八王子城や滝山城がある我らが北条氏照どのの本拠地。そして、その300年後に多摩に颯爽と現れた土方歳三は氏照どのの生まれ変わりです(←しつこい?)。我らが新九郎さんこと北条早雲の韮山は江川家の本拠地。江川家は新九郎さんの重臣でした。

江川家の気風は、新九郎さんが育てた韮山の風土から生まれたものかなあ。な~んて思ってしまいました。


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新選組の近藤さん、土方さん、井上源さんなどについてよく「武士になりたい」「多摩の百姓が武士に出世した」が強調されますが、実はそうではなく、

多摩は元来、戦う百姓の郷、もののふの郷である。ふだんは鍬を握り、他国に侵されようとするときは一致して剣に持ち替えた。しかも多摩は、中心部もリーダーも持たずに、ネットワークとしてこの団結を維持した。日本の歴史の中でもきわめて貴重な自主と自治の郷なのである。・・・新選組とは、そうした流れの中で産み落とされた確かな傍流に他ならない。・・・ (抜粋)」


な~るへそ。

あまりにたくさんのことがこの本には書かれてあってここには書ききれないのですが、多摩は藩ではなく御天領です。藩主はいませんしお城もないですし城下町もありません(江戸時代は)。大阪などもそうですが(城はあるが)、そういう土地って武士に対しての畏敬の念が少ないし、身分の上下関係意識も強くない面がありますよね。

多摩は豊かで、学問や風流ごとも盛んで、刀や銃も持ち、幕末は外国人も出入りしていたそうです。


そうなのかもしれないなぁ。これを読んでその視点で考えてみれば、はたして当時の多摩の人間が武士に憧れるものかなぁとも思いました。

私は知人に多摩の人達が多いですが、この本を読んで彼らが多摩を誇りに思う気持ちがよく分かりましたし、多摩のために闘うという気骨がいまだ残っているのだなとも感じました。また、そういう土地に生まれ暮らしてらっしゃることが羨ましいくもなりましたよ。


この本を教えてくださった歴友が、つい先日、土方さん・源さん・佐藤彦五郎氏のご子孫方の3回連続講座に参加されました。その時、

多摩には飢えた百姓はいませんでした!
だから徳川様命だったんです!」

と、おっしゃったそうです。


かつて北条や武田の旧臣達が多かった多摩の地。三百年の間に、徳川さんよくぞ手なずけ・・・ちゃうちゃうというか、これは江川殿の力なのかな。


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ビビビッときたのは、
徳川家光が、「日光全山を山城として設計した・・・」というところ。

「八重の桜」でも日光のことには少し触れられていましたが、日光に立て篭もっていた幕軍は、老中の板倉が「神君の廟を戦禍にさらすな」ということで退却させられました。


著者は、これは的外れな指示で本来は神君の霊の守護を受け反撃すべき拠点だった・・・と書いてらっしゃる。

そういわれてみればそうですよねえ。だって、それに、幕軍が撤退したあと、徳川の象徴だからこそ東征軍によって火でも放たれケチョンケチョンに壊されてしまう恐れだってありましたよねえ。

板垣退助でよかったですよ。


結局は会津まで行っちゃって白河口の攻防となったわけですが、ひとつ知りたいのが、その「日光全山を山城とした」ということの出所です。何に書かれているのかな?縄張り図とかあるのかしら?

関東人ゆえ日光は何度も行っておりますが、山城として見たことはありませんでした。そういう史料があったら是非その視点で日光を歩いてみたいなんし。


あ、もうひとつ!
板垣退助が、甲斐のあの「い~た~がき~ (by 信玄)」の子孫てホント?!


面白い本を教えてくださり、ありがとうなんし~♪。ほにゃ。
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画像はマリコ・ポーロが撮影したものです。

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