檜原の残影、横地監物と武田の松姫
~天正18年陰暦7月、桧原(檜原)の谷の濃い緑の中に、武者たちの姿が消えていった日がしのばれる~
甲冑武具研究保存会の齊藤慎一氏(青梅)が書かれた、「檜原村出土の甲冑~戦国時代の具足 多摩のあゆみ (1991)」の中のこの一文に惹かれ、その落城月の、その檜原の濃い緑の中に我が身を置いてみたく檜原へ行ってきました。
檜原は、東京では島部を除いて唯一の村です。昔、何かのコマーシャル(なんだったかな?木を切っていた…)で有名になりましたの覚えてます?
山々に深く囲まれ、温泉や宿泊施設、川魚や山家料理を出すお料理屋さんなども充実した地なので、奥多摩方面へのドライブや登山、秋川渓谷での日帰りキャンプや釣りなどで東京の西や南部の人達(神奈川や山梨の人達もかな?)は、特に子供の頃は何度も行った所だと思います。 横地監物(けんもつ)吉信
檜原では、横地吉信のことを妄想してみたいと思っていました。横地は氏照の家臣のなかでも中山や金子たちとは違い本城小田原の馬廻り衆で、我らが氏照どのが大石のもとへ養子に入った時に布施殿などと共に小田原からやってきました。
横地は照どのが少年の頃からの股肱の臣であり、腹心であり、そして、照どのを一人前・・・いや、それ以上の武人に育て上げた父のような存在だったのではないのかなと思います。
天正18年の八王子城戦の時、横地はもちろん城代として城内にいました。八王子城跡の碑には、「監物(横地)、遁走して土人に殺される」 とあります(土人とは野伏のようなものか)。
北条氏照や八王子城のファンでしたら、今はそれをそのまま信じている人はいないとは思います。それでも一般的には、横地は戦の途中で城を逃れ、檜原城で再起を図るも檜原も落ち奥多摩の小河内に向かい、そこで自刃したと思われているのではないでしょうか。
~檜原まわりの地図。通説では横地は右端下の八王子城→左端上の小河内(ダム)へと辿ったことになる。(五日市駅前の地図より)~
横地については、他にも様々伝わっています。
▲ 八王子城で討ち死にし、檜原に逃れたのは中山である
とか、
▲ 八王子城から落ち檜原から小河内へ越える途中の谷合いで自刃し、そこで埋葬された
とか、
▲ 檜原城落城後、生きながらえ剃髪し余生を送った
とかとかとか。
現代の八王子衆御大に、横地に非常に心を寄せているYさんという方がいらっしゃいます。Y氏は、他の家臣たちはあっぱれと顕彰されているのに、横地だけ「遁走して土人に殺される」とあまり良くない言葉で記されているのはどういうことだろうかとかねがね思ってらしたそうです。
ちなみに、この八王子城の碑文の撰文は中山殿の家です……ごにょ。
Y氏が、我ら「八王子城を守る会」の会長である峰岸(純夫)先生に伺ったところ、先生は、
「(遁走して土人に殺されるという表現が、当時のなんらかの史料にもとづいて書かれているとすると)、中世では遁走という言葉は近代におけるように屈辱的な用語ではなく、単に退去したということを表現しているにすぎず、武士道とかが強調された時代とは意味が異なっている。降参もよく、退却もよく、城を枕にもよく、それぞれ選択があって不当に責められるものではなく、家名を継承するための当然の措置と考えられていた・・・(一部略)」
と。
~役場にある「カフェ せせらぎ」。檜原の谷の濃い緑の中という絶好のロケーションで、名水仕込みのコーヒーや自家製のコーヒーゼリーがいただける。~
横地の退却経路(一応退却という)として、八王子城を守る会重鎮(?)から、重鎮の更に一世代前の八王子城山会メンバーである椚國男先生や小松氏、原氏方が歩かれたという横地道(仮称)の資料をいただきました。
それによると、横地は、「詰めの城」より八王子城を脱出します。
↓ 狐塚→醍醐→市道山→小坂志川→と通り、翌24日の夜に檜原に着きます。
↓
7月12日、檜原は落城。城主・平山氏重は千足で自刃。横地は氏重の息子の氏久と共に城を落ちます。
↓ 檜原城→時坂→浅間嶺→茗荷谷→藤倉(沢又)。
檜原から小河内への道は、八王子城から檜原までより遥かに難儀そうです。
↓
氏久は途中の藤倉で自刃。横地は尚も先へ先へと進みます。そして、小河内峠を越えたところで横地の生涯は終わるのです。
以上のルートの出どころは残念ながら資料にはありませんでしたので分かりませんが、檜原の山内には横地が残した足跡がいくつか伝わっています。
▲ 茗荷谷では遠藤弥五左兵衛門の家に隠れた。
▲ 城山会が横地道を行った頃は、藤倉の山中には「監物血洗の井戸」が残っていた。
▲ 横地終焉の地である蛇沢で横地を埋葬したのは、横地を案内してきた旧武田家臣の田草川新三郎である。
▲ 横地は小河内の杉田入道重長を訪ねようとした。杉田は北条の家臣だが、かつては小河内の土豪で辛垣の三田の家臣である。
これら横地の逃走を助けた人達の御子孫は、今もその地に暮らしてらっしゃる家もあり、もう他出した家もありますが、旧武田家臣というのは天正10年に甲斐から逃れてきて氏照が引き取った家なのでしょう。氏照は武田遺臣の2割をかかえたそうなのですよ。
郷土資料館で檜原のジオラマを見ながら私は考えます。
たとえば八王子城を退却し檜原に行ったとして、この期に及んでよもや檜原で態勢を立て直せると考えたわけもなく、また、死に場所を求めるなら八王子城で果てればよかったわけで、いったい何が横地に起こっていたのでしょうか。
照どのの子を守るために連れて落ちたという言い伝えもありますが、照どのの腹心だったからこそ、八王子城の責任者であったからこその、そういう使命があったのでしょうか。
それとも、戦の最中、敵味方関係なくその有り様を見て突然なにかを悟ってしまったのでしょうか。
もし横地が本当に八王子城を逃れたのなら、横地の最終目的地はどこだったのでしょう。
諸説あるように実際には横地が本当に八王子城を落ちたのかも分かっていないですし、もし落ちたとしてもそれが檜原かどうかも分からない。もし檜原としても、その後に小河内で自刃したのか野伏に殺されたのか、はたまた生きながらえたのか私には分かりません。
それでも、檜原に行ってみたかったのです。
そして、檜原にて天正18年の横地殿を妄想していたら・・・なんと、天正10年の松姫様に出会ってしまったのです。
檜原の郷土資料館に上記の齊藤氏が書かれた甲冑の残欠を見に寄りましたところ、そこに松姫様が甲斐より落ちてくる途中、休息した檜原の藤倉の倉掛の民家に謝礼代わりに置いていったと伝わっている手鏡があったのです。
それは20cmほどの鋳物の合わせ鏡で、本体に普通の?武田菱と花(牡丹かな?)、もう一方には網代に花菱が彫られていました。本体には「銘・天下一 作 藤原」、もう一方には「出雲守」。う~む。それって江戸時代の刀鍛冶???
~ほうとう~♪熱くて食べられん~
さて、帰りがけにやっとお昼です。お昼は、ほうとう です!
行きに ほうとう屋さんの看板を見て檜原で ほうとう は珍しいなと思い、帰りに寄ろうとお腹がすいてもここまで我慢しました。お店に入ると大きな能書がありました。なんでも、天正10年に松姫様が甲斐から逃れてくるのに付き従った一行の一部が檜原まわりに残り定住したので、ほうとう が伝わったそうです。
ここでも松姫様が・・・。
松姫様のことは以前も随分書きましたのでここで重ねて書くことは致しませぬけれど、信玄の娘である松姫様が甲斐から我らが八王子城に落ちてきた経路も様々言われていますよね。
倉掛の民家に残っていた手鏡の真偽は私には分かりません。とはいえ、ほうとう も伝わってきていることですし可能性はまったく無いとはいえません。
ほうとうと奥多摩の地酒<喜正>をいただきながら地図を広げます。もしそれが本当なら、松姫様は和田峠を越えて陣場街道(案下道)を来たのではなく、西原峠とか風張峠を越え浅間尾根か倉掛尾根を来たのでしょうか。
それは、天正18年に横地が小河内へ落ちる道を反対に辿ってきたということになるのでしょうか。
深手を追い、祈りにも似た思いに取り憑かれたかの形相で山道を登る横地と、深い悲しみと新たな決意を込めた眼差しを前に向け、しっかりとした足取りで尾根を下ってゆく美しき松姫様がすれ違う残影を、檜原の谷の濃い緑の中に見たような、そんな気がした一日になりました。
くだんの甲冑のことは次回。
「武田遺臣のマドンナ、松姫さま」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2009/11/post-fab5.html
「今日、八王子城落ちる」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2010/06/post-0e49.html
ほにゃ。
コメント欄をもうけております。公開させていただいてはおりませぬが、ご感想なりいただければ嬉しいです。写真は全てマリコ・ポーロが撮ったものです。
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