檜原衆の甲冑・・・の残欠
~檜原城~
前回は檜原の谷の濃い緑の中に、我らが北条氏照の腹心横地監物と武田の松姫様の残影を見たなぞとお話ししました。暑いからなあ、マリコ・ポーロ大丈夫か?とご心配くださった方がいらっしゃいましたが、大丈夫ですよん。たぶん・・・。
さて、天正10年と18年の檜原へのタイムトリップの当初の目的は、檜原郷土資料館に展示されている天正時代のものと考えられている 甲冑の残欠 を見ることでした。
前回の記事にも書きましたが、この甲冑(の残欠)を見に行くことになったキッカケは、齊藤慎一氏(青梅・甲冑武具研究会)の「桧原村出土の甲冑~戦国時代の具足」を読んだことです。
なんでもこの甲冑(の残欠)は、寛永年間(1624-1644)に、檜原村千足にある長泉寺の境内から掘り出されたものだそうです(新編武蔵風土記稿)。
千足といえば、天正18年、檜原城主である平山氏重が小田原合戦時に自刃した場所ですね。寛永年間といえば、落城から30-40年後ということになります。
長泉寺はその後、江戸の中頃に火災にあい古い記録は全て消失したそうですが、この甲冑(の残欠)が残ったのはすでにどこか・・例えば御霊神社などに奉納されていたのでしょうか。
また、長泉寺には氏重殿のお墓がありましたが、資料館の方に伺ったところ、今は長泉寺は檜原城にある吉祥寺に全て移されているそうです。廃寺というものも好きなので長泉寺跡にも行ってみたかったのですが、細い山道の奥で夏は草ボウボウとのこと。こたびはやめておきました。
↑ ↓ これが、その甲冑の残欠
残欠は、兜のシコロ、後胴部、左脇胴部、左脇胴の後引合部、草摺の板35枚でした。齊藤氏の書かれたものによると、
▲ 兜
出土当時はほぼ全体が残っていて、鉢は62間の後勝山形だとったと記録にあるそうです。鉢は、少し前までは子供達がかぶって遊んでいたとの話もあるのですって。どこへいっちゃたんでしょうねえ。
シコロは紺糸威の6段とありますが、畳んであるしちょっと暗くて色合いも分かりませんでした。伺ったところ、もう触れないそうです。嗚呼、ボロボロリーノ・・・ 。
▲ 甲
胴は5枚胴の桶側胴。草摺は11間(または13間か?)、全て鉄板製。
そして、この兜と甲はセットとして制作されたものではないことは明らかだそうです。ということは、何かの事情でコーディネートはイマイチだがやむを得ず着用したのでしょうか。それとも、それぞれ別の武者のものなのでしょうか。
とにもかくにも(←甲冑はよく分からないので流す) この甲冑の残欠は、甲冑の歴史の上で、戦国時代の形成期の具足から当世具足への過渡期の変化の様子を示す遺物として非常に注目すべき存在だそうです。
齊藤氏のくだんの書き物は、この檜原の甲冑について16ページに渡り詳し~~く分析されていますので、興味のある方は是非ともそちらをご覧くださりませ。
~「一石十兵の檜原城」by松下紀久雄。役場のロビーにかかっていた合戦の絵。檜原の必殺石落としは十人の兵に値するといわれたと説明板にあった。~
天正16年、迫り来る豊臣秀吉との合戦にむけて我らが北条軍団軍団長である北条氏照は、ますます臨戦態勢を固めていきます。檜原城に隣接する戸倉城がある西戸蔵(戸倉)にも氏照どの朱印状が出されます。
檜原城主平山に従い檜原城へ入ること!
他所へ逃げたりしたら、親族まで死罪に処すぞ!
檜原城の普請もしっかりいたすように。
氏照は、天正8年の檜原の才原(西原)峠における対武田戦の時の平山殿配下の土屋殿や、同じく9年の譲原での合戦時の戸倉の来住野殿などに感状を与えています。
檜原衆は、氏照軍団の重要な要員のひとつだったのでしょう。
永禄11年の信玄の来襲時には竹槍を持ち兜に立物もない武者が多かったらしき(by 氏照朱印状) 野の雰囲気漂う檜原衆も、天正の頃には ひらひら武者めく統制がとれた軍団になっていたのですね。
~平山氏の居館跡といわれる檜原城の麓にある吉祥寺。屋根や蔵や照明にまで三つ鱗。~
江戸時代初期に出土したくだんの甲冑(の残欠)は平山氏重やその子息氏久のものかどうかは分からないようです。
しかし、檜原衆のそれなりの地位の武将が、北条氏下の最後の合戦に着用したのものであることは確かだそうです。
齊藤氏は最後に書かれています。
~黒漆の鉄の銅、紺糸の素掛威、赤銅の覆輪という色彩は、重々しく、菱縫の赤糸が更に配色よろしく、なかなかの出立ちである。袖は籠手に一体となって付属する仕付籠手で、機能性にとんだ姿である。
指物は、背に真っ直ぐにとりつけられ、桧原衆の合印が紺色の地に白あざやかに染めぬかれていたのである。~
そして、私を檜原へ向かわせたあの言葉が続くのです。
~天正18年陰暦7月、桧原の谷の濃い緑の中に、武者たちの姿が消えていった日がしのばれるのである。~
ほにゃ。 コメント欄をもうけております。公開させていただいてはおりませぬが、ご感想なりいただければ嬉しいです。写真は全てマリコ・ポーロが撮ったものです。
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