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2013年9月18日 (水)

太田道灌vs豊島一族の「江古田原古戦場」

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~道灌「招き猫伝説」が伝わる自性院のスッゴイ存在感の大きな猫~

道灌伝説の猫は黒猫だし、室町時代に小判はにゃい…とショッパナから百言居士のマリコ・ポーロですが、さて!


536年前の江古田原へタイムトリップし古戦場をめぐるということは、つまり、現代の大江戸線・落合長崎駅~西武新宿線・沼袋駅間の練馬区・中野区の住宅密集地を、北へ↑西へ←南へ↓東へ→と歩き回りまくるということでございます。

5月に日比谷図書文化館で催された「豊島一族と太田道灌」についての講演を拝聴しとても興味が出たので、こたびは現地ガイドツアーに参加いたしました。講師は講演会と同じく、中世(前半)史がご専門の葛城明彦氏です。


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~江古田原古戦場の碑(江古田公園内)。この辺は当時は湿地だったのでここでは合戦は行われていない。住宅密集地のため碑を建てるによい場所が他になかったらしい。~


練馬・江古田あたりは、明治時代の古地図などにもあるように少し前までは江古田川と妙正寺川とその支流が広がる湿地帯だったそうです。

合戦が繰り広げられたエリアはかなり広域です。ただ歩いているとあまり分かりませんが、川や沼地や小台地が複雑に入り組んでいた名残りで、宅地化された現代でもアップダウンが激しいです。

そして、案内板がないところも多く(あっても文字が消えてしまったノッペラボウ看板)、地図も出回ってないため普通に行っても分かりません。


葛城氏、曰く
「何もないところでは、土地の高低差を見てください。そこから色々分かる。何もないところで、想像するのが楽しい。」
って。

修行が足りず私には土地の高低さから色々は分かりまへん。でも、何もないところから想像するのが楽しいっつうのは、非常に!よっく!分かります。まあ、私の場合は想像というよりは妄想ですが… (^_^;)


江古田原の戦いは、上杉(扇谷)の家宰・太田道灌が長尾景春の乱のドサクサ紛れに豊島氏の領地をゲットするべく行った合戦です(←先日の講演会で始めて知った)。我らが後北条はまだ伊勢新九郎さん(早雲)の時代ですな。

かつては東京の北部から北西部を有した豊島氏もその頃はすでに勢力が衰えつつあり、江古田原から石神井城へと続く戦いで惨敗の後、平塚城で再決起すれど戦わず背走。ついに終わりをむかえることとなるのです。


その後、豊島一族の足取りは途絶え、桓武平氏の一流として平安末期から約400年間続いた この豊島一族は歴史から忽然と消えてしまったのだそうです。

滅びた名門と聞くと俄然燃える(萌える)マリコ・ポーロとしては、豊島一族に興味が沸々

戦わずに配下に与すことはしなかったのかと伺ったところ、道灌も当初はそのように働きかけたようですが、豊島氏にとっては今が勢力回復の最後のチャンス。また、名族としてのプライドもあって反対勢力の景春方についたのだろうとのことでした。


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~開戦の地と推定される交差点。縦が江戸道、横が鎌倉街道中ツ道。当時も交差点だった。向こうから道灌勢、左から豊島勢が!~


この交差点は、哲学堂のあるセブンイレブンの交差点です。ここには「四つ塚」という「豊島塚」のひとつ(四つだが)がありました。兜・刀・人骨・馬の骨などが多数出土しているそうです。

「豊島塚」とは合戦の戦死者を葬ったとされるものです。分かっただけでも10もあり、中には個人宅の敷地内にそれとは知られず祀られているものもありました。

江古田原古戦場の範囲 は「豊島塚」のある場所から推定されたそうです。それらの塚跡からは、「四つ塚」と同様に武具やおびただしい人骨が出てきています。


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~こちらも塚のひとつ「丸山塚」。沼袋の商店街のど真ん中。隅っこの角に江古田原合戦戦没者の供養碑と祠がある(見えるかにゃ?)~


「豊島塚」は「塚」なのですが、四つ塚のように道路拡張時に全て地中に埋められてしまったり(哲学堂側の盛り上がりは豊島塚ではない)、丸山塚のように公園として平らになってしまった所もあります。

これらの塚を丹念に調査して、また、知られていなかった塚を発見した葛城氏の探究心からは、氏の豊島氏への思い入れが伝わってきました。


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~道灌が陣を張ったとされる「沼袋氷川神社」。当時は古戦場を見渡せる高台にあり、いかにも本陣・・というか城跡のような立地。~


あたり一帯には道灌がこの合戦までに築いたと伝わるたくさんの社寺が点在し、古戦場と推定されるエリアはバッチリとこれらに囲まれていました。葛城氏曰く、「江古田原は、囲める場所。包囲攻撃の出来る場所」。

豊島一族は、道灌得意の城から誘い出し戦法で、まんまと相手方の有利な場所におびき寄せられてしまったということになりますな。


この日のルートは、

自性院→葛ヶ原御霊神社→四つ塚(豊島塚)→江古田公園の古戦場碑→中野区立歴史民族資料館(道灌状の写しを見る。北条氏直の虎朱印状もあった)→お経塚→江古田氷川神社→江古田寺跡(遠望)→古塚(豊島塚)→金塚(豊島塚)→丸山塚(豊島塚)→沼袋氷川神社

で、約4時間。


実は、太田家18代当主の太田資暁氏もご一緒にお話しながら廻ったんですよ。古戦場碑の前でツーショットで写真も撮ってくださいました。「このあたりでは太田は侵略者なんですよ~」とおっしゃりながら、各神社でお参りしてらしたピキッとした後姿が印象的でした。

まあ、その後をまた小田原北条が侵略していったわけで、あい済みません・・・


豊島一族や道灌や古戦場のことをもっと詳しく知りたい方は、葛城明彦氏の「決戦~豊島一族と太田道灌の戦い」をご覧くださいまし。

両者の戦いは江古田原のあと石神井城へ移るわけですが、それについても講演会と現地ツアーがあります。まだ空きがあるかどうかは分かりませんが、以下のHPに載っています。


▲ HP「太田道灌」by 太田道灌公墓前祭実行委員会
http://doukan.jp/
↑ツアーガイドの詳細は、こちらの「道灌びいき」をクリックすると出てきます。
「江戸城天守を再建する会」
http://npo-edojo.org/

▲ お友達武将殿のブログ「相模新戦記」より。大磯城山公園での道灌vs小磯城の甲冑劇の記事。
http://ameblo.jp/tukuijou/entry-11542156818.html

▲ 以下はマリコ・ポーロの関連ブログ記事なり
「太田道灌て、よく知らなかった」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2013/05/post-ec38.html
「岩付城の続編・城は今日落ちた」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2013/05/post-79a2.html


ほにゃ。

コメント欄をもうけております。公開させていただいてはおりませぬが、ご感想なりいただければ嬉しいです。写真は全てマリコ・ポーロが撮ったものです。

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