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2013年11月 7日 (木)

葛西城を歩くツアーに参加しました

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~中川から上流を眺める。その先は古河♪。~


徳川初期の鷹狩り御殿、戦争、宅地化、青砥藤綱の誤伝承、環七縦断……400年余りの間に葛西城には数々の問題が起こったけれど、それでも 内堀が道となって現代に残り、グルリと一周歩けました

これは凄いことだと思いました。


上の写真ですが、当時は向こう岸の白い建物の方の小さな森みたいなところに「新宿」があり、後北条時代は橋が架けられていて(有事には落とす)、葛西は川の両側で機能していたそうです。

前に、「当時は、今の関宿の博物館あたりから見るような景色だったのかな~」と書いたことがありますが、説明してくださった葛飾のインディー・ジョーンス氏もそうおっしゃっていました。現代の葛西で城址公園よりも妄想できる場所です。


小田原城だって小机城だって興国時城だって城は鉄道に分断されています。八王子城だってド真ん中を圏央道が貫いています。「日本列島改造」後の日本、そんな城は全国にあまたあります。

だから環七によって本丸が城址公園と御殿山公園に分けられてしまった葛西城は、歴史ファンや運良く全体像が残っている城郭の研究者や、そして葛西城で生きた当時の人達に引け目を感じたり恐縮したりする必要なんて全然ないと思います。


環七だって一方的に悪者にされたら可哀想。環七が引かれることになったからこそ、葛西城の政治的重要性が判明したのだもの。

6号線を越える陸橋をそのままの高さで葛西城の上に通せないかと、当時の発掘を担当していたインディー・ジョーンズさん達は願い出たそうですが、「今を生活する人が優先」と却下だったそうです。 価値観も経済情勢も変わった平成の今の時代だったなら、もしかしたらそれは可能だったかもしれないですねえ。

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~内堀の跡はグルリ全てこういう感じ。 教えてもらわないと分からないね。~

堀の水は中川から引いていたから満ち引きがあったと葛西のインディー・ジョーンズ氏。そうか~、そうですよね~。小田原のように海水を引いているところなんてもっとということですよね。これは、引潮の時を狙って攻めねばならぬの!


参加したツアーは、葛飾区の郷土と天文の博物館が「東京都文化財ウィーク」の関連企画として主催した、「古河公方足利義氏と葛西城~東京下町に眠る戦国の城を歩く」です。

コースは、青砥駅→中川&当時の城下町→区の集会場での古河公方や小田原北条や葛西城などについてのレクチャー→城の想定エリア歩きなど。午前中だけでしたが、葛西城スキー&北条&古河公方スキーにとっては大変中身の濃いものでした。(山城スキーにはちょっと違ったかな?)


horse 青砥藤綱の誤伝承

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~葛西城址に建つ「青砥藤綱城跡」の大きな碑~

先日、鎌倉の古河公方邸跡あたりをウロチョロしておりましたら、「青砥藤綱邸跡」の碑があったので少々驚きました。

それは、鎌倉の青砥にあったことに驚いたのではなく、葛飾区葛西にもあることを思い出して、そのことに驚いたということでござりまする。


青砥藤綱とは徳川の江戸時代に芝居などで人気者になった、鎌倉時代の大岡越前みたいな武士・・・なのですか?

古さでは誰にも負けないと異名をとる?私も、さすがにまったく存じませんです。


なんでも川に誰かさんが落とした小額のお金を探すのに、たくさんの人に賃金を与え探させ、それは無駄ではないと経済の仕組みを実戦しながら説いた人とかなんとか。(←なんじゃ、この書き方sweat01詳しくはWebで!)

昭和になってからも道徳(修身)の授業などで使われたそうで、このツアーに参加された方の中で少々ご年配の方達はこのエピソードをご存知でした。太田道灌の、菜の花伝説と同じですねえ。


こういうお話を子供達に読み聞かせるということは今でも、いや、今こそ必要だと私は思うのですが、それと史跡の碑とは別物。

この青砥藤綱という御仁はこの葛飾の青戸に居住していたということはまったくなく、ましてや、実在もよく分からないようですね。青戸に碑があるのは、江戸時代に人気があったため、同じ「あおと」ということでこじつけられたようです。

しかも「青砥藤綱 」とは。何十年も前の観光地ならいざ知らず、今は、
いかんぜよ~bearing

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~葛西城 縄張り想定図(博物館史料)。東(右)はすぐ中川。薄いグレーのマーカーのところが確認された堀跡。●は、想定される堀跡。~


葛西城に環七を通してしまったことを今更どうこう言っても仕方ないと思います。郊外の自然あふれるところにある山城と違って都心の交通の要所になってしまった城跡は・・・

あ、そういえば、戦国期もここは交通(水運・陸運)の要所ですね!

・・・というか、その、そういう城跡に限らず高度成長期にはこういうことは日本中で起こってしまったことで、私はバブルの頃その恩恵を十分享受してしまっていました。

今、歴史ファンとして私が思うのは、いっときは関東公方の御座所として政治の中心となった都史跡でもある葛西城址を、児童公園ではなく、なんというかもう少し、ごにょ、つまり、早い話が・・・どうにかしてくれい!ということです。


博物館も立派でいいですが、その元となる城址公園を整備する方が先だと思ったりするのです。

葛飾区や東京都(都史跡だから)の偉い方達様、あんなシガラミやこんな事情があって大変だとは存じますが、まずは青砥藤綱の城跡の碑や、信憑性のない縄張図を撤去することをお願いしますぅ。


そして、例えば上の画像みたいな縄張り図(想定でもいいから限りなく信憑性のある)や、中川や新宿や古河(←古河は公方ファンの個人的希望sweat01)もあわせた説明板を設置してくれたら嬉しいですよねえ。

小さくていいから、ボランティアさんが詰める資料館もそこにあればな~。出土品などを、ここから電車に乗ってバスに乗って「郷土と天文の博物館」まで見に行くのは面倒です。


とは申すものの、偉い方達はどなたもこんなブログは読んでらっしゃらないと思うのでここで吠えてても意味無いですが。

二つに分かれてしまった城跡を、環七をあっちへ渡ったりこっちへ戻ったり中川に出たりしながら、どこに立っても一連の歴史の集合体として楽しめるようになったら素敵だね~confident


以下は、これまでの妄想の一部でござる。
「後北条一族の陰謀~公方の御座所 葛西城」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2013/01/post-fdbc.html
「北関東の侵略者、北条氏照の祇園城」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2012/11/post-3056.html
「女公方は後北条と古河公方のハーフ」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2012/12/post-a63d.html


ほにゃ。

cat コメント欄をもうけております。公開させていただいてはおりませぬが、ご感想なりいただければ嬉しいです。写真は全てマリコ・ポーロが撮ったものです。

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