« 名胡桃事件の地「名胡桃城」へ! | トップページ | 小田原城御用米曲輪 「総見」2014.3.8 »

2014年5月 7日 (水)

吾妻の「中山城」と北条氏邦のこと

5
~花粉症の諸君、見よ、この↑杉の木々を!北条氏邦の改修。中山城(の一部分)の遠景。~


前回の復活一発目のブログ記事「名胡桃、推・参!」の続き、中山城見聞録でござる。

が、その前に・・・
帰りの新幹線でつらつら考えたことがあります。それは、名胡桃の発端となったともいえる「天正壬午の乱」の後始末のこと。

以前から、この数年の間のことは実は名胡桃事件より興味がありました。でも、関東だけではなく上方の情勢も随分と関わってきて、これはなお一層よく知らないので、考え始めると脳がグシャグシャになってしまい、うまく妄想がまとまらないまま現在に至る なのでござります。


とはいえ、名胡桃から帰ってからこのかた歴友達と盛り上がるのは、やはり名胡桃事件の話。

ある歴友殿は、北條征伐は太閤と言うより景勝の意向が働いていると思うと。景勝にも、関東管領家として関東を統治したい野望はあったと思うって。

私は、上杉の川中島との領地替え云々の話はなんだかよく分からない口実だと思っていたのですが、そういう視点から考えると、な~るへそ~と納得するものもありました。


また、ある北条友曰く、名胡桃城だけを飛び地として真田領にするとは考えられないと。それは、補給が出来ないから。それならば水上は真田領にして(吾妻郡の東は北条領)、岩櫃城→中之条→須川宿(水上)→名胡桃のルートを確保すれば補給は可能になり、越後からの援軍(三国峠から)も呼ぶ事も出来るし、もし名胡桃城が北条側であれば、水上も北条領であったかもしれんかもかもって。

面白いねえ。みなさん色々考えているのねえ


2
~中山城の碑と説明板~

さてっと。

そんなこんなで、名胡桃&沼田に行ったら是非訪ねたいと思っていたのが「中山城」です。お英の方様(前回の記事にも登場していただいた、歴史ガイドさん)に申し上げたところ、それはオススメの城でござる とのことで、再び御方様の鉄馬を駆り、いざ北条直営の城へ!


天正10年。魔王昇天による信濃・甲斐の領地争奪戦は、北条軍団総動員で侵攻したにもかかわらず芳しいとは言えない結果となり、徳川と和睦を結ぶことになります。いったん小田原へ帰陣した後、軍団は再び上野に出陣。その頃、この中山城の城主中山は北条に付いているのです。

替わって、兄上様の要請により中山城に入ったのが我らが弟くんの北条氏邦です。氏邦は中山城を大リフォーム、ビフォーアー&アフター。中山城は、一時は、真田の沼田←→岩櫃間を断ち切る、北条にとっての重要な拠点となりました。


ここで疑問。

中山って、例の氏直の返書にある「城主とされる中山」の中山殿のことだろうか?

北条友が何かで読んだところによると、元々の中山(古)城は中山宿の北側の山城だったそうですね。ここの城主が中山安芸守で、天正10年、その子の右衛門尉は佃城攻めで討死し、弟九兵衛は姉婿を頼って名胡桃へ落ちたと伝わる話もあるそうです。


城の歴史や縄張りについては、「関東の名城を歩く」を是非再読してくだされませ。

Photo

主郭に到着し、こんなもんかと思いながら土塁に上ったら・・

3

凄い深い堀!周りを横堀、横堀、その向こうも横堀。凄い凄い。こんなの吾妻には、まず、ないと。

4_2

オーホッホッ。そりゃあ、我らが氏邦さんですからねえ。


北条氏邦と言えば・・・。
この春に出た歴史探訪「北条五代戦記」にとても気になる箇所がありました。

それは、第7部「氏照・氏邦」の、氏邦を書いたところです。


・・・小田原征伐のきっかけは、私戦を禁じた秀吉の惣無事令を無視・・・(略)・・・その名胡桃城事変の当事者は氏邦の重臣・猪俣邦憲である。・・・
ときた、そのあとの、

「北条家を滅亡に導いたのが、お家の版図拡大に貢献した氏邦という皮肉・・・。」

と書かれている箇所です。


これでは氏邦さんがあまりに可哀想。続いて書かれた氏照のところでも

…兄・氏照も弟同様に、徹底交戦を主張する…

とありますが、お兄ちゃんはそうかもしれないけれど、弟くんは、昨今の研究によると後半は徹底抗戦派ではなく、どちらかというと恭順派でしたよね。「弟同様」ではない。
(お兄ちゃんのことも、江戸時代の軍記物に植え付けられた先入観かもしれなくて最後の頃の氏照の気持ちは分からない。)


北条研究が進んでいる今でも、北条をフューチャーする雑誌でさえ未だにこういうことが書かれている現状に驚きました。

それと同時に、後北条の認知とはそんなものなのかと、なんだかガックリ してしまいましたよ。(他にも気になる箇所はあったのですが、まあ、アミューズ的な雑誌のようなので、これ以上は文句は書きませぬが。)


鉢形城の無血開城のあと、氏邦は「敵味方の者が、前代未聞の比興者といっている」って榊原に言われてしまっていますが、助命嘆願は自分自身だけのことではないと思うのですよ。私は、氏規さんなどよりはずっと宗家に対する誠実さを感じるのです。

いえ、別に氏規さんが嫌いなわけではないですよ。


氏邦は北国に向けての一番最前線にいましたよね。天正10年には滝川のところへも挨拶に行ったりもしています。子供の頃を今川家で暮らし、天正時代の京都を訪問し、ある程度は西に馴染み西を見ていた弟の氏規さんとは違います。

北条氏邦は、小田原から遠く離れたアウェイな場所で、西方の勢力情勢に影響されてゆく北関東や北国を肌で感じた人です。


「武闘派→投降→加賀おあずけ」という単純な図式ではなく、その裏で、変わってゆく天正後期の北条氏邦の複雑な思いを、もう少し深く思いやってみたい・・・。

最前線エリアの中山城で、尚一層そんな思いを強くした旅にござりました。


氏邦について書いた以前の記事の一部。
「鉢形城籠城中、なう」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2013/06/post-36e7.html


by 萩真尼 こと マリコ・ポーロ←出家しました。


画像は全てマリコ・ポーロが撮影しました。コメント欄をもうけております。公開させていただいてはおりませぬが、ご感想なりいただければ嬉しいです

にほんブログ村 歴史ブログへ

|

« 名胡桃事件の地「名胡桃城」へ! | トップページ | 小田原城御用米曲輪 「総見」2014.3.8 »

05.その他ゆかりの地」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 吾妻の「中山城」と北条氏邦のこと:

« 名胡桃事件の地「名胡桃城」へ! | トップページ | 小田原城御用米曲輪 「総見」2014.3.8 »