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2014年5月21日 (水)

ついに分かった!北条氏照ご正室の最後と、氏綱正室の出自

今年もそろそろ「後北条落城・開城 強化月間」に入ってまいりました。

「後北条見聞録」を再開し、名胡桃城、中山城、小田原城御用米曲輪に続くは、我らが北条氏照どのの女性関係についての調査ですbleah


以下、今回も長いのでゆっくりご覧いただければ嬉しいです。

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~これらは皆様すでにゲットされていることと存ずるが、真田昌幸(というより信玄だったりして?)が主役の小説「我、六道を懼れず」は、「三増合戦」がかなりフューチャーされており北条ファンにもオススメ。~


逼塞中(?)も、色々な本を入手しました。そこから逼塞などしていられない大変なこと(私にとって)を知りました。


wine ついに分かった!北条氏綱ご正室・養珠院様の出自

さてさて、入手した本を、その日のパッションでアッチのアノ辺を読んだりコッチのソノ辺を読んだりしていたところ・・・下山先生の「戦国北条氏五代の盛衰」の中のある数行に、ビビビビビッ eye と目が釘付けとなりました。

マリコ・ポーロでずっと追っていた(ブログ記事は下記に添付)、氏綱正室の謎の女人「養珠院」の出自が、昨年出た黒田氏の「伊勢宗瑞」で明らかになった・・・と書かれていたのです。


そこには、

▲ ・・・平成二十五年刊行の『伊勢宗瑞』(黒田基樹著・戎光祥出版)に所収の史料に、養珠院は横江北条氏の娘と記されて出自が判明した。伊豆国の国衆で堀越公方足利成知の家臣であった横江北条氏の出であった。・・・▲

とあったのです。

伊豆の国衆ということは、つまりその家は、元をたどれば前北条家の一族だということなのでしょうか?


2009年に「歴探」さんが、氏綱が北条姓に変えたのは「正室が北条(堀越公方)の出自だったのではないか・・という俗説」の裏を取ってらしたのを思い出しましたわ。

マリコ・ポーロでも、韮山をほっつき歩きながら北条の女人たちを妄想しまくった時の記事を2010年に書きましたが、その時、韮山の図書館で立ち読みした本で(図書館で立ち読みするかね)、堀越公方は「北条様」と呼ばれたことを知りました。


これは、後北条得意の「お家乗っ取り養子送り込み作戦」で、氏綱がいったん北条家(堀越公方家)に入婿して、その後正式に北条姓を名乗るようになったのかup

と一瞬ひらめいたのですが、氏綱が北条姓を使い始めたのはもう少し後のことなので違いますなdown


伊豆を手中におさめ安定させるのに土地の有力者と縁戚関係になる。非常に説得力のある話ですよねえ。

うぅぅ、これは是非読まねばならぬ。「伊勢宗瑞」を買わねばupと思ったのですが、本は高いdown。しばらくはもう買えしまへんので、図書館で養珠院さまのとこだけコピーすることにしました。


図書館帰りの道々、家まで我慢出来ずパラパラとページをめくり流し読みしていたところ、そこに載っていた過去帳の数行に 驚愕  しました。


wine ついに分かった!氏照どの正室の最後

正式な正室?のことについては散々書いているのでここではチョビットだけ。

養珠院さまの孫である我らが氏照どのの御正室は、皆様ご存知のように大石氏の姫であります。これこそ北条得意の「お家乗っ取り養子送り込み作戦」で、若干10歳(位)の藤菊丸くんheart01は武蔵で広く地盤をもつ大石家の婿になりました。


姫の名は「比佐」とも「豊」とも言われ(大石家のアヤシイ家譜によると比佐、宗関寺古寺では豊)、八王子城戦の時に城で自害したとか、城山川に身を投げたとか、いや生き延びて月夜峯で笛を吹きながら犠牲となった者達の菩提を弔い暮らしたとかとかとか・・・様々な伝承が伝わっています。

つまり、最後はどうなったのかがよく分からないのでありました。


ところが、あったのですよ!この過去帳に!

広生院妙賢寿徳信女
天正拾八庚寅年六月弐拾参日滅
大石駿河守安祝開基神護山 浄牧院 ニテ自害


え?なんですって?!
浄牧院にて、自害ですとっ!

もしかしたら、とうに皆さんご承知のことで私が今更知ったことかもしれませんが、ドびっくり~。何度も見直してしまいました。


浄牧院とは、以前に清戸番衆の某武将さんに連れて行ってもらったお寺ですよ。「氏照の内室のものと伝わる」お墓があるからって。

浄牧院の説明には、「滝の城 を落ちてきてここで自害」とありましたが、ほんとかな~?「内室」っていってももしかしたら「側室」かもしれんしな~などとその時は疑っていました(その時のブログ記事は下記に添付)。

Dsc_0275_21_2
~こちらでござりまする~


黒田氏の本によると、その過去帳が出てきたのは、武蔵国新座郡宮戸村(現在の朝霞市)にある法蔵寺というお寺だそうです。


以下、抜粋。

▲ ・・・宮戸村は戦国期においては氏照管轄の八王子領に含まれ、高橋氏の一族は氏照の家臣になり、天正18年の小田原合戦の際に、八王子城に籠城、戦死したことが伝えられているから、氏照夫妻の記載があるのはその関係によろう。・・・▲


法蔵寺の創建年代は不詳ですが、高橋内膳某という人が開山したとなっています。高橋家はその後今に至るまで土地の名士だそうで、旧住居は国の重文なのだそうです。

高橋某のことは、以前マリコ・ポーロでも「ゲゲゲの城・深大寺城と牟礼砦」に少しだけ書きましたが、過去帳には、そのほかの北条一族も載っています。早雲の生年が確定したというのも、この過去帳でだったのですね!


( 2015.9.23 加筆
この黒田基樹著『伊勢宗瑞』には、過去帳は朝霞市の宝蔵寺(法蔵寺)から出てきたとあります。実はそうではなく、過去帳を所持・管理されてらっしゃるのは大宅高橋家で、大宅高橋家に伝わってきた過去帳以外の北条家関連の物は富士見市の大應寺に管理を依頼されているそうで、宝蔵寺はまったく関係ないそうです。)



これはこれで大変興味深い話なのですが、今は氏照どのの正室の浄牧院のことで頭がいっぱいになってしまったので、またいづれ。って、あれ?養珠院さまの出自について調べていたはずではなかったかの?

ま、それはそれでcoldsweats01


しかし、この過去帳に書かれていることが真実だとすると、比佐様は最後は八王子城にはいらっしゃらず、滝の城に避難されていたのか。はたまた、はなから、滝山城や八王子城にはいかず、滝の城にお住まいだったのか……。

当時は形ばかりの正室と別居なんてよくあることですし、そもそも氏照どのは女にさほど興味がなかったみたいですし、私も照どのの女性関係には興味がないので、どうでもいいっちゃあいいのですがね。


そう。どうでもいいわと思えども、この話を北条友達たちにしたところ、埼玉衆の一人から第3の女(?)の存在を聞くことになったのでありました。


第3の女の謎については次に続く。。。

(長すぎるぅ~!とのお声があったゆえ2部作の分けました)


「滝の城」の近くにある、北条氏照 「内室」の墓 (←浄牧院のお墓のことです)
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2011/12/at-a586.html
「後北条の女領主、伊豆の崎姫」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2010/06/post-d6d6.html
「早雲・秀吉の兵火に耐えた五体の運慶仏」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2010/05/post-a414.html
「玉縄城主・北条為昌の菩提寺で、ビビッときた氏綱ご正室の出自」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2011/10/post-2c49.html
「前編~玉縄の北条為昌&氏綱ご正室・養珠院の謎」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2011/11/post-47de.html
「後編~」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2011/11/post-2d95.html
「ゲゲゲの城 深大寺城と牟礼砦」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2011/06/post-41c9.html


萩真尼 こと マリコ・ポーロ

cat 画像は全てマリコ・ポーロが撮影しました。コメント欄をもうけております。公開させていただいてはおりませぬが、ご感想なりいただければ嬉しいです

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