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2014年10月17日 (金)

北条氏直の投降は、走ったのか?

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     ~マル朱印~


▲天正18年7月5日。籠城を続ける小田原城渋取口に、密かに城を抜け出る2つの影があった。

影は、羽柴(滝川)雄利の陣に向かい猛ダッシュで走り出した!


それは、パパ氏政や氏照伯父さんの監視の隙を縫い、徳川殿とのかねてよりの打ち合わせに沿い、おサルに降りようとする北条五代当主・氏直と、兄に誘われた弟くん氏房の姿であった。

あと少しで滝川の陣に到達というところ、あわや追手に捕まりそうになった二人。機転をきかせた弟くんがハッシとばかりに自らの草履の片方を滝川陣へ投げ込みセーフ。二人の投降は認められた。▲


先日の大河を観て、改めて小田原北条の降伏の様子を調べたいと思い、黒田基樹著「小田原合戦と北条氏 2013・1」「北条氏年表 2013・8」、下山治久著「戦国北条氏五代の盛衰 2014・2」の天正18年のあたりを、今度はじっくりと再読しました。手に入れた時も当ブログでご紹介をしましたが、買った時って興奮してアッチを読んだりコッチを読んだりのザックリ読みで熟読していなかったのでsweat01

そして、またまた気になることを、天正18年だけでもいくつか発見してしまいましたよ。


wine その中で二番目に気になったのは・・・

黒田氏の「北条氏年表」の天正18年7月5日のところに、氏直が滝川の陣所に「走り入って降伏の意を表した」とあったことです。


ああ、もう、おのおの方、「マリコ・ポーロ、アホちゃうか gawk」 と呆れないでくんなまし。

上述の小田原城脱出シーンは、この文言に今更始めて気が付いた時の、マリコ・ポーロの脳内にブワーッと広がった妄想にございます。歴友方にも「走り入るだって!これって、どういうことだと思う?!」とばかりに大興奮 horsedash


ところが・・・
ええ、ええ。今はもう分かりましただよ。歴友先生方が「どうどう」とばかりに教えてくださいましたゆえ。

~「走」の意味は駆け足することに限らない。「駆け込み寺」が文字通り駆け足で入るわけでもないですしね。~

また、こうも。

~黒田基樹「小田原合戦と北条氏」に、「『走り入り』と表現されているから、剃髪して降参の作法をとっていたためと思われる」とありますぜ。~


教えてくださりありがとうございました。もしそのままだったら、本当にアホな妄想でブログ記事を埋め尽くすところでしたよ。


それまで小田原の開城は、
様々なルートから開城交渉が何度か行われた上で最終決定がなされ → まずは当主である氏直が降り → その後、徳川方ともろもろの打ち合わせやらなにやらをした上で → いまだに降伏を良しとせず「新城」に籠っている氏政と氏照を城から出した。

という段取りを踏んだと思っていました。雄利の陣に行ったのは、自分達の持ち場エリアから一番近かったからぐらいに簡単に考えていました。


実を申すとワタクシ、駆け込み寺も駆け足で門を入らなければならないと思っていましたcoldsweats01。途中までは歩いて来ても、切迫感をアピールするためにお寺の少し前から走り出すような習いがあるような、なんかそんなような。

まあ、それは置いておき・・・


「走り入って」ですと!?

氏直兄弟が雄利の陣に走って入った!氏直と氏政&氏照の投降日は違うし、やっぱり何かある!なんて、「走り入って」の文字を見た瞬間は思ってしまいましたよ。な~んだ。ぜんぜん違ったのですね・・・(←違わないかもしれないけど)。


「走」という文字ひとつとっても状況によって色々な意味があるんですな。古文書は難しい。そこで、古文書名人の「歴探」さんにも伺ってみたところ・・・

~「降伏」という意味だけで「走入」の意味はカバーしきれず、「身を投じる」「駆け込む」という意味の方が的確であろうと思います(「走廻」と一緒で実際に走った訳ではありません)。

正式な降伏であれば、主将秀次か実力者秀吉の何れかと直接交渉し、氏政も協調するはずなので、隠密裏に城を出たのが妥当なところだと考えています。~

と。


wine さて、三番目に気になったのは…

下山先生の「戦国北条氏五代の盛衰」に、
~氏直は、7月5日に羽柴雄利の陣所に行くと黒田孝高等に降伏した。~
とあることです。

羽柴雄利とは滝川雄利、黒田考高とは官兵衛のことですが、これからすると氏直達が降伏したのは、雄利の陣で待ち受けていた(または出城の連絡を受けてやって来た)官兵衛達ということになるのでしょうかね。


皆様はとうにご存知のことと存じますが、これも私は初めて知りました。

今まで私が読んだものには、7月5日のこの瞬間のことはどれも、「氏直は滝川雄利の陣に降り・・うんたら」とあるので(と記憶しているので)、てっきりまずは雄利の陣に入り、次に雄利が家康へ取り次いだと思っていました。


7月5日の段取りひとつとっても、謎はたくさんです。

さて、一番気になったこと。それは、次回。


歴探さん「遠すぎる石垣山 その4」
http://rek.jp/?p=4906
以下マリコ・ポーロ
「北条一族の高野山3 小田原坊 」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2010/09/3-6cea.html
「小田原北条、最後の当主の 『最後の朱印状』」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2012/09/post-3b83.html
「戦国フィナーレを望む 「石垣山一夜城」」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2009/10/the-b831.html
「もし今日、小田原城が落ちなかったら」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2010/07/post-9cc7.html


萩真尼

cat 画像は全てマリコ・ポーロが撮影しました。コメント欄をもうけております。公開させていただいてはおりませぬが、ご感想なりいただければ嬉しいです。

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