小田原攻め、北条氏照の本陣「報身寺」
マリコ・ポーロ
~浄土宗 永劫山報身寺。私が立っている背後が海。~
小田原の早川口に「報身寺」というお寺があります。籠城中の、我らが北条軍団軍団長・北条氏照の本陣だったそうです。
本陣のことは、先日のブログ記事「松平文庫の小田原陣図」でも書いた「小田原陣図」で知りました。「陣図」の中に、「陸奥守本陣」として「法心寺」という記載があったのです。
ちなみに、この「小田原陣図」とは、よく見る毛利文書(毛利家文庫)の「小田原陣仕寄陣取図」ではありません。島原市立図書館蔵の「松平文庫」にあるものです。
吉川弘文館の黒田基樹著「小田原合戦と北条氏 2013.1」のP168に、「小田原陣仕寄陣取図」と「小田原陣図」は 『いずれも毛利文書』 とありますが、違います。
「小田原陣図」は松平文庫にあります。毛利家文庫にも、小田原にも確認致しましたので間違いありません。「小田原市史別編城郭」にも、松平文庫とあります。
先のブログ記事の繰り返しで恐縮ですが、当時の小田原城がいくら広大とはいえ、城内に「陣」を構えているとは考えてもいなかったので驚きました。じゃ、どうしていたと考えていたのか?
と言われると困るのですが、照どのの持ち口は早川。屋敷もその近くなので、なんとなく、屋敷をベースにしていたと漠然と思っておりました。
さっそく様々な地図を広げてみましたが、「法心寺」というお寺が見当たりません。仕方ないのでネットでも検索してみましたが、書かれているのは七福神のことで北条関連のことは出てきません。
400年の間に他のお寺と併合されたのか、廃寺となったのか。どうしても分からないので文化財課さんへ伺ったところ、それは「報身寺」であると思われるとのこと。大昔は、漢字は当て字が多いですものね。ということで、フィールドワーカーのマリコ・ポーロとしては見聞、見聞。行ってみなければ分からない。
報身寺の創建は、寛正4年(1463)。室町幕府は足利義政の時代ですね。明治になって近くの関連するお寺「潮音寺」と合併されたそうです。
潮音寺には、建武の中興で失脚し鎌倉に護送される途中で殺害された公家のお墓があったので、創建は報身寺よりは古いということになりますな。お公家さんのお墓は、今は報身寺さんがお守りしているそうです。
報身寺さんには、鎌倉時代作の潮音寺の阿弥陀如来立像がおわします。小振りでスラリと端正な佇まいの、美しい阿弥陀様でした(普段は拝見できません)。南無。
また、報身寺さんの方は、潮音寺の阿弥陀様と同じ頃に制作されたと見られる「阿弥陀如来像」の掛軸をお持ちです。国の重要文化財で東京国立博物館へ寄託されていますが、年に一度は公開されるとのこと。タイミングが良ければ拝見できますね。
~境内にある石塔と石仏。由来を伺うのを忘れた。~
話は潮音寺へ逸れますが、とても気になることがまた出来てしまいました。当時、潮音寺の寺域は873m四方もあったそうです。江戸時代の古地図には見られますが、大寺だったんですねえ。いただいた潮音寺関係の資料を読むと、潮音寺は、
「小田原攻めの時に残らず焼けて、その後再建された・・・」
とあります。
はて?小田原攻めの時、小田原に火を放たれたのですか?しかも、氏照どの本陣のすぐ近くですよ。氏直の投降を知り、もうアカン…くそうっ!とばかりに氏照が自ら火を放ったのでしょうか。初耳です。スッゴク気になるんですけど。
本陣の目の前は海 ↓。
天正18年、我らが最強の軍団長はここにシッカと立って、秀吉殿の陣を睨み据えていたことでしょう。
~境内から海を眺める。現代は西湘バイパスが通っている。~
以下、タイトルをクリックしてご覧くださると嬉しいです。
その後、報身寺さんの阿弥陀様の掛軸のことで驚くべきことを知ったブログ記事です。
「小田原攻め、北条氏照の本陣 報身寺」
萩真尼
画像は全てマリコ・ポーロが撮影しました。コメント欄をもうけております。公開させていただいてはおりませぬが、ご感想なりいただければ嬉しいです。
| 固定リンク
「02.八王子城と北条氏照」カテゴリの記事
- もし北条氏照が上洛し秀吉と会っていたら…(2025.02.02)
- 昨日の補足ー永禄4年頃、氏照の拠点はどこだったのか?(2024.09.15)
- 永禄4年に「由井城」と呼ばれたのはどこ?(2024.09.14)
- 記念講演『八王城跡の石垣』(2024.6)(2024.06.18)
- 北条氏照の娘の菩提寺「天応院」(2024.03.15)
コメント