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2015年1月25日 (日)

後北条の始まりを告げた城 「韮山城」 シンポジウム

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~「早雲庵」だったかもしれないと言われている「香山寺」より、伊勢新九郎さんが小田原北条100年の歴史を始めた韮山の地を眺めるの図~


行って来ました。江戸くんだりより「いずっぱこ(駿豆鉄道)bus」に乗って、シンポジウム 「韮山城を考える」を拝聴するため だけ に新九郎さんの韮山へ!

とはいえ、だけ ってわきゃあなく、そりゃあ午前中はあちこちウロチョロ致しましたよ。なんせ、韮山ですよ。「韮山」と聞くだけで、「韮山」と口にするだけで、胸がいっぱいになりますよねえ。


韮山は、小田原よりも北条早雲こと伊勢宗瑞こと伊勢新九郎さんを感じられるところです。だって、新九郎さんは小田原には住んでいませんでしたもの。韮山は小田原北条の始まりの地であり、韮山は新九郎さんの終焉の地でもあるのです。

上杉謙信くんでいえば、米沢よりも直江津の方が燃える(萌える)というところですか。


そう思っていましたら、シンポジウムで言われてしまいました。家永遵嗣氏に。「韮山城は戦国時代の始まりと終わりを伝える城」だと。「小田原は北条五代ではなく、四代。初代は韮山でしょ。」

齋藤慎一氏もおっしゃいました。「韮山城は戦国の始まりが分かる城」だと。


そうか・・・

「戦国の終わりを告げた城 (by 椚國男)」は我らが八王子城だと今まで豪語しておりましたがup、「始まり」とセットとなると、ちょっと負けたかなと意気消沈down。すっかり、「韮山城イニシエーション」を受けてしまったようです。


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が、しかし、プログラムをご覧いただくとお分かりになるように、シンポジウムは大変興味深い内容でした。無理して行って良かったです。

先着順100名の会場は満タン。静岡、神奈川はもとより、東京や千葉、北関東からもいらしているようでした。色々な方達にお会いすることが出来て嬉しゅうございました。


講演の内容か、はたまた韮山というその地で行われたためか、シンポジウムはとにかく刺激的でした。最初このシンポが韮山で行われると知った時に、東京でやってくれいと思いましたが、やはり現地で聞くという臨場感はテンションが上がるものですねえ。

行かれなかった皆様に内容をなるべく事細かにブログでお伝えしたいとは思えど、盛りだくさん過ぎて何をどう書いてよいやら分かりません。また、間違い勘違いを書いたら申し訳ないので、4つの講演のビビビッときたところだけを下記にご報告。

うう~、DVDでも出ればいいのにな~。


horse 基調講演1「『伊豆の国市歴史文化基本構想』と韮山城跡の史跡指定」
家永遵嗣氏(学習院大学教授)


韮山を含む伊豆の国市は原始・古代から近代(反射炉)にわたる史跡の宝庫だそうです。

それらを訪ねるだけではなく、その上、温泉spaに宿泊するという「おもてなし」も併せて楽しめる街だそうです。これを、カルチャー・ツーリズムというそうです。

南関東や静岡の人達は、伊豆というところへはよく行きます。長岡温泉なども一度は泊まったことがある人が多いと思います。私達歴史好きは、温泉に泊まった時は当たり前のように周囲の史跡を巡りますよね。それは「カルチャー・ツーリズム」というものだったのですか。へぇぇ~~happy01


韮山城跡という、ひとつの史跡の価値を高めるだけではなく、史跡巡り・温泉・その他様々な観光をひっくるめて街全体で盛り上げていこうという戦略を推し進めていくということが、「伊豆の国市歴史文化基本構想」というもののようです。

そして、その中に、「韮山城跡 百年の計」へのチャレンジもあるようです。


歴史というのは、その「現場に立って」、ああ、ここであの人が、こんなことをしたんだ。ここで、こういうことがあったんだと「感じ取ることが大切だ」と、家永氏はおっしゃいました。

まさに、まったく、そうなんです。それが、マリコ・ポーロが現地妄想派である理由なのです。な~んてね bleah


ここまで、合っているかな coldsweats01

なんせ、いつも講演会では内容のメモはとらないもので。諸先生方のレジュメの完成度が高いので、お話しを伺いながらビビッときたところに下線を引いたり○で囲ったり、あとは、そこで感じた自分の感想を書き込むだけなのです。細かくメモを取ったりしていると聞き逃してしまいますのでね。


horse 講演1 「発掘調査で韮山城はどこまでわかったか」
望月保宏氏(静岡県立松崎高等学校副校長)

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~龍城(韮山城)は冬枯れの風情。~


様々な発掘調査結果を写真や図面で解りやすく教えていただけました。

韮山城についてのストーリーはある程度は存じているつもりですが、発掘調査については初めて伺うことばかり。写真も初めて拝見しましたし、調査地点さえ存じませんでしたので、ひたすら、ほほぉ~confident へぇ~coldsweats02 という感じでした。←だから、書けにゃい。すみません。


ビビッときたのは、韮山中学校(芳池第5地点)から出た石敷遺構の写真です。ここにもあったか石敷き道、ですよ。道の中央部を溝が通り、そこからは食器類やお箸が出てきているそうです。

ということは、このあたりに会所があったのかと思いましたが、パネルディスカッションの時に齋藤氏は「早雲の屋敷があったのでは?」とのことでした。

齋藤氏がおっしゃるには、この石敷き遺構は、障子堀で壊されているそうです。ということは、やはり臨戦態勢に入っての西からの侵攻に備えてのことなのでしょうかねえ。


発掘調査も大人の事情でなかなか進めるのが難しいようですが、▲遺跡・遺物の精査、▲未着手部分の、開発に伴う発掘調査ではなく史跡整備を見据えた調査、▲小田原戦の攻めて側の付城・堀・城下町などの調査、▲絵図・文献・伝承などとの比較などを、今後の課題としてあげられていました。

長い道のりですねえ。でも、これからは韮山の発掘調査結果も楽しみにしていきたいと思いました。


horse 講演2 「古文書資料から探る天正18年の韮山攻防戦」
竹井英文氏(東北学院大学専任講師)

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今回一番伺いたかった講演です。

小田原合戦時の韮山に関する文書は非常に!多いそうですね。小田原城と同じく、「韮山城仕寄陣取図」を毛利が記したのも知りませんでしたsweat01

そのいくつかを挙げながらの韮山の攻防はどのように繰り広げられたかを解説してくださいました。


そういえば・・・、
韮山城の最後の頃の城主は、私は氏規さんだと思っておりましたが、昨年出た黒田基樹氏の本(戦国北条氏五代2012.1)に、氏規は三崎城の城主であって韮山は在番だったとありました。早雲以降は在番制となりましたが、氏規さんもだったとはその本で知りました。


さて、竹井氏の講演であらためて疑問を強くしたのは、韮山攻めの意味です。

攻め手の軍勢は約4万4千人。それも、信雄、信包、レオ様、蜂須賀、福島正則ら秀吉旗下でも重要なメンツですよね。見せしめの城とされた、我らが八王子城だってせいぜい2万。攻めてきたのは北国勢という外様ですよ。


後半のパネルディスカッションでも質問された方がいらっしゃいましたが、私も、籠城リーダーである我らが北条氏規さんはすでに家康を通じて秀吉と話が出来ていて両軍様子見をしていたと思っていました。それゆえに、韮山の攻防戦のことはこれまであまりチェックしていませんでした。

しかし文書によると、城の数か所を乗っ取ったり、火を放ったりしていたのですね。


そして驚いたのが、城を取り巻く堀や柵が、北条側が防備のために築いたものではなく、豊臣軍が城側を「干し殺しにするつもり」で築いたものであったということです。文書(おサルの朱印状)に書かれているんですねえ。

「金堀を派遣するから、城には静かに攻め寄せよ」とか言っちゃって。ちっannoy

開城交渉をしながらこぜりあいを続けているということはよくあることですし、秀吉や家康達首脳部のそのへんのとこの動きはどうだったのか。いつか分かるといいですねえ。


しかし、
韮山城は秀吉の東征にとって、八王子城や鉢形城や岩付城などの城よりも重要ポイントだったのかもしれませんね。というか、落とす意味が違ったというのかな。物理的ダメージと精神的ダメージ。さすが、おサルだな~。

私は北条への興味の始まりが八王子城なので八王子城への思い入れが強く、それに今まで気が付かなかったのかもしれません・・・。


ね!おっもしろいでしょう。どう思われますか。

竹井氏がおしゃるには、韮山城は、「文書・絵図面・遺構から、包囲網の実態が分かる 稀有な 遺跡」だそうです。


あ、それと、前述した豊臣方が築いた堀々ですが、かつては航空写真もあり場所が分かったそうなのですが、その後の開発により今はどこにあるか分からなくなってしまっているそうです。どなたかご存知の方がいらしたら市の方へ連絡してくださいとのことでした。


horse 講演3 「韮山城とはどのような城か~韮山城研究の最前線~」
齋藤慎一氏(東京都江戸東京博物館学芸員)

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~物凄く凝ったパワポ~


まずは、韮山城の性格(機能?)の変遷を解りやすくお話ししてくださったので、韮山城というものを妄想するための脳内が整理できました。


▲ 新九郎さんの時代
北条家の 本城 であった。また、幕府や今川との関係で西の下田街道方向を正面とし、天ヶ岳山を意識して造られた。

▲ 氏綱・氏康の時代
本城が小田原となり、東を意識した城となる。また、河東一乱で北条領が西へ拡大し、その方面への物資や人の供給のための 繋ぎの城 となったと考えられる。

▲ 氏政の時代
勝頼が侵攻してきて領地が東へ下がり 境目の城 として重要な役目を負う城となる。小田原を起点にした片浦口の交通要所とされる。

▲ 内藤さんの時代


ず~っと不思議に思っていたことがあります。交通経路として、防衛要所として、なぜ半島に一歩入った韮山だったのか。

この日の齋藤氏のお話しで少しだけ分かったような気になりました。


「片浦口」という言葉が出てきました。片浦とは、そう、あの小田原の西の、片浦レモンサイダーの片浦です。

当時、西から小田原に入るには3つの領国口があったそうです。山中城の箱根道、足柄城の河村口、そして韮山城の片浦口です。


そして、箱根口と河村口はあまり(まったくではない)機能しておらず、韮山←→浮島←→熱海←→土肥(湯河原)←→片浦口が主要幹線道路なのではなかったかというのです。

だから、下向してきた堀越公方が鎌倉へ入れずとどまったのも、ここだったのではないかと。


私はどうしても現代の東海道や函南道路を考え、先にも書きましたが、韮山というと一歩半島に入っているという感覚になってしまいます。家康も箱根を通って入って来ましたしねえ。

まあ、家康は反対側に廻り込むためでしょうけれど、だから、韮山城?いくらそこの守りを固めたって北側をスラスラ通ってしまえば小田原にラクラク入れちゃうじゃないと思っていたのです。


また、北条の城ではよくありますが、その幹線道路は城内を通過し東西を繋ぎ、南は下田へ繋がっていたであろうということなのです。

では城内のその道はどこかということですが、城内の道というのは、城の主要な部分へまっすぐ向かっているものだそうですね。


韮山へ行ったことがある方は、江川邸のあたりを歩かれたことがあると思います。あのあたりには、大きな地図には載っていない住宅街の間を抜ける細い道がいくつかありますよね。その、江川邸、つまり二の丸に向かう真っ直ぐな道がそうなのではないか?ということでした。

その道の両側には家々が並び城下町を形成していたと考えられるようなお話しでした。


ということで、その後はそれぞれの講演内容に肉付けする感じのパネルディスカッションと、参加者の方達の質問&感想タイムとなりました。


ふぃ~。忘れないうちに、興奮冷めやらぬうちにと一気にここまで書いちゃいました~。4時間かかったわ。真夜中ですよ。早く寝なきゃ。

う~ん、うまく書けなくて申し訳ない。分かっていただけますでしょうかねえ。聞いている時は、フムフム、なるへそ~と納得なのですが、いざそれを文章にするとなると難しいですぅ。

また何か思い出しましたら少し変更・補足を入れたいと思います。


しかし、これだけの城が史跡指定になっていないとは思ってもいませんでした。当然なっていると思い込んでいました。そういえば、韮山駅ホームにある周辺案内地図にも韮山城は載っていませんよね。

後半のパネルディスカッションでもこのことには触れられましたが、史跡指定にならないのには諸々大人の事情があるようですね。反射炉の世界遺産登録申請とかの兼ね合いとかもあるみたいで・・。

まったくのマリコ・ポーロの妄想ですが、それは地主さんの関係もあるのかな・・。城山は個人の地主さんの場合が多いですし。本当に妄想ですが。


長文ここまで読んでくださりありがとうございました。以上なり。


pen 以下は韮山関係のマリコ・ポーロのブログ記事の一部です。随分昔に書いたので間違い勘違いがありましたらご容赦を。

「早雲・秀吉の兵火に耐えた五体の運慶仏」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2010/05/post-a414.html
「北条氏政が謙信公や信長にプレゼントした 江川酒」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2010/05/post-493e.html

「後北条の女領主、伊豆の山木大方」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2010/06/post-d6d6.html
「伊勢新九郎さん伊豆で温泉に入るの巻」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2009/09/post-82c2.html
「北条氏規、今日(24日) 龍城を明け渡す」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2010/06/post-eb87.html

などなどなど。


萩真尼

cat コメント欄をもうけさせていただきました。公開はいたしませぬが、ご感想なりいただければ嬉しいです。画像は全てマリコ・ポーロが撮影したものです。

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