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2015年5月26日 (火)

新田義貞の鎌倉滅亡の日を歩く

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~本堂での法要の後、権現社へお戻りになる北条高時尊像(クリックしてアップでご覧あれかし)~


▲ 元弘3年(1333年)4月27日、丹波篠山の篠村八幡宮に討幕の旗を掲げた足利尊氏は、5月7日、京都六波羅探題を攻め落とす。

一方、坂東では新田義貞がそれに呼応。上野新田庄の生品明神で挙兵、一族郎党わずか150騎で鎌倉を目指す。南無八幡大菩薩!


小手指原(所沢)→久米川(東村山)→分倍河原(府中)と、在地より参集する坂東武者達により軍勢を膨らませた新田軍は破竹の勢いで進軍を続け、5月18日、鎌倉を取り囲んだ。

そして、
世に名高い新田義貞の稲村ケ崎の伝説が始まる―― ▲


♪ し~ちりガ浜の
磯づたい~
い~なむらがさき
め~いしょう(名将)の
つ~るぎ投ぜし 古戦場~



そもそも「前北条」という言い方が変じゃ、との歴史師匠のご指摘。まったくその通りでござる。政子さんちの北条があってこそ後北条という呼び方が後付されたのだものね。

さて、サル5月22日。鎌倉ガイド協会のガイドツアーに歴友と参加して参り申した。鎌倉はそれこそ、しょっちゅうウロチョロしておりますが、おりますがゆえにガイドさんに着いて歩いたのは初めてです。ツアーのタイトルは、「鎌倉炎上!新田義貞の侵攻の足跡」。


実は知らなかった。この5月22日は北条執権の鎌倉が滅亡した日だそうな。ツアーの日程は何日がありましたが、我らが申し込んだのはまさに「鎌倉炎上」のその日。

「やっぱり、この日をご存知で今日申し込まれたのでしょう?」とガイドさんがおっしゃるのに、「あ、はぁ、まあ・・・テンテンテン」と私達。


わらわのこの時代の知識といえば、ふた昔前(?)の歴史の授業と、吉川栄治「私本 太平記」と、昨年再見しハマりまくった名作大河「太平記」のみ(キッパリ)!。つまり、昔の説&軍記物&小説&テレビ時代劇というお粗末なもの。

あ、あと、峰岸先生の「足利尊氏と直義」&亀田俊和「南朝の真実」は以前チビッと拝読しましたが、元の知識が無いので難しくよく把握できないままになっておる(威張るな!)。


しかし偶然とはいえこの日になったツアー。こは「前北条見聞録を書け」とのお告げかと勝手に解釈し、そんな知識&ガイドさんに伺ったことでこの記事を書いておりやす。間違い勘違いがありましたら、それは私のせいなのでゴメンなすって。


いざ!稲村ケ崎

江ノ電で稲村ケ崎駅へ向かいます。私達の隊(?)のガイドさんがとても詳しい方で(皆さんそうでしょうが)、史実、逸話に触れながらの話運びも上手く、駅に着いて最初に、事がこれに至るまでの経過を系図やらなにやら駆使しかいつまんで話してくださったので気分は前ノリ盛り上がりました。


▲ 化粧坂、極楽寺口、巨福呂坂の三手に分かれて鎌倉を取り囲んだ新田軍の攻撃は、18日早朝一斉に始まった。

巨福呂方面では、最後の執権赤橋(北条)守時が討死。赤橋を破った新田軍は次に金沢(北条)貞将と激戦におよぶ。

一方、極楽寺切通を突破し前浜(由比ヶ浜)に向かった大舘隊は奮戦かなわず討死。最後まで残った11人(伝承)も自刃。▲


その霊をおまつりしたという「十一人塚」をまずはお参りしました。

彼らはとても喉が渇くそうで(なんでだろ?)、いつもバケツにお水がたっぷり供えられています。私達も柄杓でお水をかけて差し上げました。そして、海岸へ移動。


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~稲村ヶ崎にて新田軍の侵攻経路を検証中~

当然に当時は今の134号はなく稲村ケ崎と霊山山は繋がっていたわけで、「なんでワザワザ磯づたい?ここを抜ければいいじゃん」と、134号を指さしてはイカンのであります。


▲ 前浜の大舘達が敗れると、新田義貞率いる主力部隊は化粧坂から稲村ケ崎へと移る
ここを越えれば鎌倉に入ることが出来る・・・。義貞は黄金の太刀を海に投じた!▲



稲村ケ崎での新田義貞のエピソードはここに書くまでもありませんが、ここで悲報です。「♪稲村ケ崎 磯づたい♪」は史料に見られないそうです。


最近では
▲ 前浜の大舘達が破れると、新田義貞率いる主力部隊は極楽寺切通方面へと移る。
ここを越えれば鎌倉に入ることが出来る・・・。極楽寺切通と、切通と稲村ケ崎に挟まれた山の頂「仏法寺」あたりをめぐり、死闘は始まった!▲


だ、そうです。なんだか、ガッカリ~。。。  ま、磯づたい&切通、両方から行ったということで。


いざ!仏法寺跡

♪まし~ろきぃ 富士ーのねぇ
みど~りのぉ 江の島♪

逗子開成中学のボート遭難を悼む唱歌をガイドさんと共に口ずさみながら134号を渡り、霊山へ登ります。そうか、今日はそこから極楽寺切通へ下るのか。ツアールートを全然承知していない参加者の内の約2名(わてら)。


住宅街の間の細い上り坂をしばらくクネクネクネクネ。どこをどう歩いたのか全く分からず、いきなり眼下に前浜(由比ヶ浜)と鎌倉府中が開けたところが、上に書いた、くだんの、山頂の「仏法寺跡」です。

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~左が仏法寺跡(入れません)。右下は前浜。向こうは鎌倉府中。~


仏法寺は極楽寺の支院で、平成14年の発掘調査では伽藍を構えた立派なお寺だったことが分かったそうです。

また、この眺めの良さから、もちろん周囲を監視する軍事施設としても使われていたとのこと。新田軍は、山内に籠った北条勢を攻め出します。


いざ!極楽寺切通

仏法寺跡からは下り坂になります。途中、長谷の方角をご覧あれ。緑の山の中程に大仏さんが見えますよ。当時の新田軍も大仏(大仏殿)を見たのかな?今は覆堂も無く大仏さんも緑色なので、ほぼ保護色、なう。


先日の「ブラタモリ」をご覧になった方も多いと存じますが、極楽寺切通のことをやっていましたねえ。そこでも話が出ていましたが、今の切通は後世に掘り下げられたもの。かつてはとても高い所にあって、たいそうな急坂だったのですね。

これまた、つい先日ですが、神奈川歴史博物館の「中世東国の茶-武家の都鎌倉における茶の文化」を観てまいりました。「当時の称名寺が上に見ていたのは極楽寺と足利公方だけ」という説明を読んで、極楽寺の寺格の高さに驚いたばかりでした(←面白かった。6月21日まで)。

上にも書きましたが、このあたりも激戦の地。さぞや、お寺も荒らされたことでしょうな。


さあ!いよいよ鎌倉府中です。

とはいえ、早朝に家を発ち、そろそろ力尽きてきた我ら二人。「力餅」屋さんで力餅をゲットしたいもののツアー隊は進軍中。お店は混んで並んでいるので兵糧ゲットはちょいと無理。

が、しかし、ツアー隊も由比ヶ浜の海浜公園にてランチタ~イム。やったー。

とんび にカステラをさらわれつつ 、ここで行われた三浦vs畠山や和田合戦や新田軍の激戦に、よく知らないまでも思いを馳せながらの休息後、ツアー隊は更に鎌倉北条を追い詰めるべく進軍を再開します。


いざ!九品寺

お寺は新田義貞が本陣を構えた場所にあります。乱の集結後、義貞がお寺にしたそうです。

鎌倉で唯一の新田義貞ゆかりの寺だとのこと。山門の「九品寺」、本堂の「内裏山」の扁額の文字は義貞直筆なんですって(表に出ているのはレプリカで本物は本堂の中)。境内の細い上り坂をあがると当時は周囲が見渡せ、義貞公もここから眺めたに違いないとガイドさん。


沿道にある日蓮宗のお寺や鎌倉十橋のいくつかを通りながら、いよいよ鎌倉北条終焉の地へと向かいます。


嗚呼、東勝寺跡・・・

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~東勝寺跡。入れません。~


▲ 元弘3年(1333年)5月22日。一門の終わりを向かえるべく、ここ東勝寺に集結したのは太守北条高時をはじめとする一族283名、郎党580余名の約870名。

自らが放ったのか新田軍に放たれたのか、炎上する館の中で次々と自決。5月8日に新田義貞が上野新田庄を発ってから、わずか15日。鎌倉北条はここに終わりを向かえた。▲


早かったですねえ。時の勢いというのは凄いものですねえ。

その義貞もあっという間に鎌倉を去り、京を追われ、越前に滅びるわけですから、人の世の浮き沈みとは分からぬものです。


北条得宗家の氏寺であった東勝寺については歴史好きの皆様の方がよくご存知のことと思いますが、前面の滑川には橋が架かっておらず、背後は山。石垣も築かれていたそうです。知らんかった。

なんも知らんかったですが、戦国時代でいえば、山と海という天然の要害に囲まれた鎌倉城の、東勝寺は詰め城のようなもので、新田義貞が行ったのは城攻めということですか。

発掘調査の写真を見せていただきましたが、八王子城と同じように土は焼け焦げ炎上の跡が生々しく分かります。しかし、870名も果てたのに遺骨はまったく出てこなかったそうです。


え?そ、そ、それは自決したのはここじゃなかったこと!? それとも、自決は得意の江戸時代の創作!?と一瞬興奮してしまいましたが、本当に870体もあったかどうかは分からないが、新田軍が片づけたのだろうとのことでした。

もちろん逃げた者達もあまたいたでしょうが、一門みんな一緒に最後の時を迎えるということは、悲劇の昇華。聖徳太子の山背大兄皇子、平家、会津藩もそういうことになるのかな。小田原北条もあと少しでそうなる可能性がありましたねえ。


そういえば、北条執権時代って実は将軍がおわしましたんですよね。鎌倉に。鎌倉北条が滅びる時の将軍は守邦親王とおしゃいます。親王将軍は出家し、鎌倉で亡くなったそうです。

歴代親王将軍のお墓(陵墓)はどこだったのだろう・・・?


健さん

前に当ブログでも熱く語りましたが、高倉健さんが名越北条の北条篤時の子孫だったとご存知でしたか?大好きなのに知りませんでした~。健さんは・・・ちゃうちゃう、篤時も東勝寺に籠ったんだそうです。

東勝寺の腹切りやぐらには、健さんが施主のお塔婆が山盛りでした。


フィナーレ、宝戒寺の法要

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~鎌倉宝戒寺の、第14代執権北条高時と北条一族供養の法要。~

大権現ですか・・。高時殿は神様にされたんだね。「徳祟」とありますな。「徳祟」って二代執権の義時の法名ではないの?

ガイドさんに伺ったところ「得宗」と両方使うそうです。北条本家の通称となったのは義時以来のようです。


法要は毎年5月22日に営まれるそうですが、まったく知りませんでした。ツアーの募集にも書いてありませんでしたし。何日かツアーの日があったうちで、たまたま偶然この日を選んでラッキーでした。

宝戒寺に着いたのは法要が始まってしばらく経った頃のようで、本堂の中では女性が舞を舞ってらっしゃいました。大般若経の転読は終わってしまったようですね。え?大般若経転読ですか?ご興味ある方は以前のブログ記事「空海と龍馬と長宗我部の国 2」をご覧くださいまし(真言宗ですが)。


琴曲が奉納される中、ガイドさん達が「このあと高時公の御像が権現社に戻るセレモニーがあるから、時間があったら帰らない方がいいですよ~」と、境内に散らばるたくさんのツアー参加者に言ってまわってらっしゃいました。

ありがとーござりまするぅ


北条高時殿は輿に乗ってお出ましです(冒頭の写真)。赤い大きな傘が広げられた中を境内にある権現社に向かいます。

初夏の木洩れ日の下、傘の赤と、住職さんたちの青いミツウロコの袈裟が美しく煌めき、危うくクラッと前北条のワールドに惹き込まれそうになるマリコ・ポーロ。「行ってはいかん」と氏照どのの声。


宝戒寺についても南関東の歴史好きの皆様はよくご存知のことと思いますが、一応チビッとだけ。

宝戒寺は、元は北条得宗家の屋敷でした。後に後醍醐天皇が北条一族の霊を弔うため、足利尊氏に命じてお寺にしたものです。鎌倉では2つしかない天台寺院で、もうひとつは杉本寺だそうです。


そうそう
この日の夜、この法要のニュースをNHKで放映していましたが、ご覧になりましたか?そこで、「最後の執権、北条高時の像・・」と言っていましたが間違いですよね~。

高時は最後の執権ではありません。そのあと、一族の金沢貞顕と赤橋守時が執権となっています。大河ドラマでは、貞顕を亡き児玉清さん、守時は勝野洋さんがされてましたよね~。

それを言うなら、「最後の得宗、北条高時の像・・」ですよね?


もうひとつ、そうそう
鎌倉北条は終わりましたが、高時の息子がまだおります。鎌倉を脱出し、後に乱を起こし一瞬は鎌倉を奪回しますが結局は敗れ、そこで北条得宗家は完全に滅亡するわけです。

その子孫の一族が、小田原北条2代の氏綱の正室だったと黒田基樹氏がおっしゃっていると、マリコ・ポーロが何度もブログに書いて騒いでいるのでござります。


いや~、随分と歩き巡った気がしましたが徒歩距離はたった6.5kmだったそうです。狭い鎌倉の地で、682年前に濃~い5日間があったということなのですねえ。


帰りに大河「太平記」を再度レンタルし、夜中に「鎌倉炎上」の回を再々見しました。

稲村ヶ崎から、刻々と迫る鎌倉北条終焉の場に向かって時空を歩いた後だったせいか凄い臨場感で、最後に長崎殿が自刃する時には自然に手を合わせてしまいました。

歴史って素晴らしい


「鎌倉に訪ねる後北条ゆかりのヒロインの寺」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2013/03/post-5cd4.html
「里見へ走った公方の姫」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2011/06/post-82f7.html
「前北条と後北条の、伊豆修禅寺」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2010/05/post-475a.html
「古河公方の古河を歩く~その1」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2013/12/post-de53.html


萩真尼

画像は全てマリコ・ポーロが撮影しました。コメント欄をもうけております。公開させていただいてはおりませぬが、ご感想なりいただければ嬉しいです。

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