弘治2年の「北条 vs 里見の海戦」は本当にあったのか?
~三浦半島の先から、里見水軍が渡ってきた房総半島を眺めた図~
北条氏綱による鶴岡八幡宮の再建大プロジェクトについての本を読んでいて、フト思った八幡宮の正殿の遷宮が行われたのは、天文9年(1540)。跡を継いだ氏康が由比ヶ浜の大鳥居を完成させたのが、天文21年(1552)のこと。
ありゃ?
世にいう里見と北条の「三浦・三崎海戦」で里見がそのまま鎌倉に攻め入り、青岳尼を連れ去ったのは弘治2年(1556)でしょ?ということは、小田原北条によって出来立てホヤホヤだった鶴岡八幡宮も、わずか数年で滅茶苦茶にされてしまうの?
いや、そんな話は聞いたことがない。
あにゃ~~
と、乏しい手持ちの北条関係の歴史書を片っ端から調べてみたところ・・・
にゃい!
ない、ない、ない。どこにも書かれていない。大永6年のことは皆さん書いてらっしゃいますが、弘治2年の「三浦・三崎海戦」のことはどの先生方も書いてらっしゃらない。
では、私は何を読んで青岳尼のことをブログにたくさん書いたのだったっけ・・。記憶をたぐると、最初に書いたのは2011年。安房を訪ねた時にアチコチでいただいてきたペーパー類や北条記などを参考に書いた、のだったと思う。
そういえば、よく皆さんが引き合いに出される、青岳尼が失踪したことについて氏康が「太平寺殿こと ふしぎなる お企て」うんぬんと東慶寺にクレームした書状は年未詳なのですよ。つまり、いつのことかは分からないのです。
これは大平寺跡にある碑文です。肝心な下部を切って撮ってしまいましたが、改めて読むと、「天文中里見氏鎌倉ヲ歯掠セル時・・」つまり、「天文年間に里見が鎌倉を攻めた時」に、青岳尼を奪って安房へ去ったとあります。
青岳尼が大平寺から去ったのは、弘治2年の三浦三崎合戦の時ではないじゃないですか 。もっと前のことじゃないですか。
碑文によれば…ですが、これはどういうこっちゃ?
歴友さんが調べてくださいました(ありがとうございます)。弘治2年の海戦のことは「古戦録」と「小田原北条記」に記述があるそうです。私の拙い知識では調べきれない他の研究者の方の史料も見てくださったのですが、やはり海戦の存在自体は確かではないようだと。
いったいぜんたい、弘治2年に里見が佐貫城を出舟。城ヶ島から上陸し、鎌倉へ攻め入ったというあの話はなに?
そうですよねえ。4万5千の大軍で里見を城ヶ島で待ち受け海戦に及んだなら、もっと歴史上にこの話が残っているはずですよねえ。またまた例によって例の如く、後世の作り話?
実は今日、先に当ブログでもご紹介した鎌倉ガイド協会さんによる東慶寺や青岳尼の大平寺と英勝寺を巡るツアーに参加しました。(特に英勝寺はとても面白かったのでそのことは追って。)
そこでガイドさん方に弘治2年の里見の鎌倉攻めや青岳尼の失踪時期のことを伺ってみましたところ、やはり、定かではないとのこと。また、青岳尼の安房行きについても、里見義弘とのロマンスの結果だったと願いたいが略奪だったのかもしれないし、それは分からないって!
しょえ~
やっぱり後世の作り話ですか?!
どうやら マリコ・ポーロ は、弘治2年の海戦という軍記物+太平寺碑文の里見の鎌倉攻め+青岳尼の逃避行+大永6年の鎌倉(玉縄)侵攻=がゴッチャになった脳内で、先のブログ記事を書き、そのゴッチャのまま現在に至るのようでありますな。
というか、
弘治2年のこの海戦は、いつから「無かったこと」になったの?
「南総里見ファンタジーツアー 1」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2010/02/post-c2c4.html
「南総里見ファンタジーツアー 5」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2010/03/post-c2ec.html
「里見へ走った公方の姫」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2011/06/post-82f7.html
「鎌倉に訪ねる後北条ゆかりのヒロインの寺」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2013/03/post-5cd4.html
画像は全てマリコ・ポーロが撮影しました。コメント欄をもうけております。公開させていただいてはおりませぬが、ご感想なりいただければ嬉しいです。
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