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2015年8月 4日 (火)

岩付城を築いたのは、太田か成田か?

マリコ・ポーロ


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そんなこんなで・・・
先日の「道灌びいき」の会は、岩付城を築いたのは誰かについての勉強会でした。


岩付城を築いたのは太田道灌パパ道真と道灌だというのが長年の定説でした。岩槻には道灌の銅像もありますし、区の花は道灌ゆかりの山吹です。

私が小田原北条にハマったのが6年前ですが、それまでもそれ以後も暫くはそうだと思っていました。ところが、数年前に岩付城へ行ったブログ記事を書こうと城関係本を読んだところ、「岩付城を築いたのは、成田だ」と書いてあったのでビックリしました。

戦国ファンにとって岩付と聞いて血湧き肉躍るのは、我らが北条 vs 太田三楽斎の飽くなき攻防。最後まで北条に屈しなかった三楽斎は、北条ファンも含め戦国ファンには人気のイケオジです。そんな三楽斎ファンでも、築城時のことについてはあまり深く考えたことがないと思います。


成田って、忍城のでしょ。へぇぇ~、そうだったんだ~。え?じゃあ岩槻区(城は埼玉県さいたま市岩付区にある)はどうするのだろう・・・。なんて余計な心配をしたものです。

ところが、ところが、またそれに異を唱えた方がいらっしゃいます。写真の本『岩槻城は誰が築いたか (2014.1 さきたま出版会)』の著者である小宮勝男氏です。今回の「道灌びいき」は、その小宮氏を招いての勉強会でした。


成田築城説

そもそもの話の発端は、1994年『北区市研究』第2号にある黒田基樹氏の論文「扇谷上杉氏と渋江氏-岩付城との関係を中心に-」に、岩付城を築いたのは成田だと書かれていたことからのようです。


その後、2009年『図説 太田道灌』の中でも、
▲ (太田が岩付を築いたということは)明確な誤りであり、同城は文明年間の後半に古河公方足利成氏方の成田氏によって築城されたことがわかっている。▲

と書いてらっしゃいます。黒田氏の前にも、岩付と成田の関係に少しだけ触れた方がいらっしゃるそうです。

 

三郷市史研究『芦のみち』2号「古河公方足利成氏と禅宗寺院」、長塚孝氏です。ただ、この方はご専門が違うので、それはそこだけの話でした。その4年後に黒田氏が上記の論文で発表し、今ではメジャーな説になっているとのこと。


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~城址公園の碑文~


成田説に対する反論

岩付城の築城に関して残っている、信憑性が高い史料はただひとつ!『自耕斉詩軸並序』です。明応6年(1497)に鎌倉明月院の玉陰英璵という名僧によって書かれたものだそうです。時代が近いですねえ。


どうやら、ことはこの『自耕斉詩軸並序』の解釈の違いによって変わってくるようです。なんてったって、高僧が書くものは格調高く硬い文章ですし、名前も通常使われている俗な名前とは違うものを使います。

そこには、築城者は「法諱が正等である」とあります。チョット和尚!俗世の名前で書いといてよ!ですが、続けて、正等とは「岩付左衛門丞顕泰の父親の、亡き金吾」だと書かれています。


「顕泰? ほな、成田じゃん」と単純に考えてはいけないと小宮氏はおっしゃいます。ちなみに、「金吾? ほな、小早川じゃん」と考えては尚いけませぬ(←そんな人はいにゃい)。私が申すまでもなく、金吾は官途名ですな。

それにしても「岩付左衛門丞顕泰」?それならそれで「成田顕泰」とは書かないの?でしょ。そのことについても小宮氏は本の中で考証をしていますが、だいたいからしてこの「顕泰」という人物もややこしいみたいです。


「顕泰」とは、長尾忠景の三男のようです。忠景とは長尾景仲の息子ですな。長尾景仲の孫である「顕泰」は三男ですから、当然どこかへ養子に出ることになります。

その養子入り先が「正等さんち」です。太田説派にとっては「顕泰」の養子入り先は太田道真でないと困るし、成田説派にとっては成田資員でないと困るわけです。


あ~、なんだか自分でも何書いているんだかワケわからなくなってきた

黒田氏がこの『自耕斉詩軸並 序』をどれだけ研究されたのかは私は存じませんが、長年に渡って解読されてきた小宮氏が挙げる反論はいくつかあります。詩軸の解読だけではなく、その背景もじっくりと調べているのです。


例えば・・
‐「正等」さんが禅を学んでいた月江正文を取り巻く武将は上杉方の武将ばかりで、足利や成田に関係する武将達はいない。
とか、


また例えば・・
‐ 黒田説によると築城時期が約20年ほど後になりますが、そうなると、上杉 vs 古河公方の真っ最中に岩付に城は無かったことになる。
‐ 両者が和睦し、古河公方が幕府から許されるように上杉が尽力している時期に、古河公方方の成田さんが荒川を越えたところに城を築いていることになる。


などなどなど、もっともっと重要らしきポイントがあって、お話しを伺ったりご本を読んだりしていると、『自耕斉詩軸並 序』に隠された暗号を解読するような非常に興味深い推理小説のようです。この謎を是非みなさんにもご紹介したいと、ここに書きはじめたのですが・・・

上手く書けん

それは私の元々の岩付城や太田道真や成田顕泰についての知識が浅いからにござります。間違って書くと小宮氏にも黒田氏にも申し訳ないので途中まで書きましたが、消しました。


是非に、小宮氏のご本か、または、前にもチラと書いた「はみ唐」さんという方のHPをご覧くださいませ(文末にリンク)。

「はみ唐」さんという方は私は存じ上げないのですが、そのHPの小宮氏の本についての記事は分かり易く、詳しく、問題定義と検証がなされていて、太田道灌や太田三楽斎のご子孫である太田のご当主もオススメのものです。「はみ唐」さんは、小宮氏の論の幾つかの弱さを指摘しながらも、成田はあり得ない、太田築城説です。


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~城址公園にある、岩槻の区の花は、道灌ゆかりの「やまぶき」ですという看板。~


埼玉県教育委員会は成田説

平成23年発行 『埼玉県史料叢書11 古代・中世新出重要史料一』のP260 (四)長享の乱の展開と武蔵では、黒田氏の説を取り

▲ ・・成田氏は享徳の乱の段階では、忍城を本拠とし、山内家に従っていたが、長享の乱の展開のなかで、正等は岩付城(さいたま市)を構築して、本拠としたことが明らかになっている。・・▲

とあり、「正等」とは成田さんで、岩付の築城も完全に成田オシです。


近隣自治体は?

このへんで、「あそうだ!『関東の名城を歩く』にはどう書いてあったかな!?」と本棚から引っ張り出して見てみました。こちらを担当されて書かれたのは、川越市の教育委員会の方ですね。参考文献はやはり黒田氏の著作と、埼玉県教育委員会の発行資料です。


【築城から現在まで】の項
▲ ・・従来、長禄元年(1457)に太田道眞が築城したとされてきたが、近年は文明年間(1469-1486)に古河公方方の成田正等により築城されたとする説が有力になっている・・▲


【城主の変遷と逸話】
▲ ・・文明年間に岩付城を築城した成田氏は、永正6年(1509)までには本城忍城に戻り、その後を古河公方奉行衆と推定される渋江氏が城を守っている。・・▲

『関東の名城を…』も完全に成田オシでした。


成田の忍城がある行田市は?

小宮氏が、「行田市は忍城の件で、成田が岩付を築いたことにはまったく触れていない」とおっしゃっていました。


ちょっと気になり『関東の名城を・・』の【忍城】のところを見てみました。執筆者は梅沢先生。

【城主成田氏】の項には岩付のことは書かれていません。

また、黒田氏の唱える築城時期の「文明年間のころ」については、例の、足利シゲッチが別府殿に宛てた「忍城用心」の書状により、「成田顕泰が忍城にあってその防備の任についていたことが理解される」とあります。


まあ防備の任についていたから他に城は築いている暇がないとは言えませんが、私が小宮氏の説で一番に気になったのは、この『忍城用心』の解釈です。ご本も拝読したのですが、知識がないのでよく分からず質問はできませんでした。

ただ、『関東の名城を・・』は、たぶん皆さん6年程前に執筆されているはずなので、執筆した方々はもしかしたら今は違う考えをもってらっしゃるかもしれません。


結論

ワテには、分からん・・・。

そして、もし成田が築いたのなら太田が入ったのは、いつ?何をキッカケに?


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とかく「新説(ここでいう成田説)」というものはセンセーショナルで話題となるもので、私なんかはすぐ新説になびいてしまうのですが、何年か経ってその説が変わっても、それを知らずに以前書かれたものを読んだりもするし、特にそれが有名だったり人気者だったりする方達が書いたものだと余計簡単に信じてしまいます。

一緒にするのは大変図々しいことですが、私なぞの妄想だらけのブログでも何年も前の記事を読んでくださり、それを信じてくれる方もいらっしゃいます。

思い起こせば・・・かつて、あんなことやこんなことで、「有名な先生がおっさるのだから本当だろう」「あれだけよく調べる人が言うのだから間違いないだろう」と、自分なりに調べもせず単純に見聞きしたことを書いてしまって反響が大きく恐ろしくなったことも反省。ブログは後から加筆やお詫びと修正ができますが、それでもそういうことを念頭において書かなければと思う今日この頃。


「はみ唐」さんのHP
「岩槻城は誰が築いたか」を読む(前)
http://ameblo.jp/hamikara/entry-11938211260.html
「岩槻城は誰が築いたか」を読む(中)
http://ameblo.jp/hamikara/entry-11938247633.html
「岩槻城は誰が築いたか」を読む(後)
http://ameblo.jp/hamikara/entry-11938428574.html
そして、これは面白いです ↓
「「岩槻城は誰がきずいたか」を地形から考える」
http://ameblo.jp/hamikara/entry-11935253512.html


マリコ・ポーロ

コメント欄をもうけております。公開させていただいてはおりませぬがご感想なりいただければ嬉しいです。画像は、マリコ・ポーロが撮影したものです。


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