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2015年9月 8日 (火)

家康以前の江戸は本当に「寒村」だったのか?

Img20150906_215324
~「江戸はこうして作られた」 鈴木理生著 2000.1(ちくま学芸文庫)


さて、
先日のテレビ番組「歴史捜査 家康はなぜ江戸を選んだのか」で、江戸は僻地で、大湿地帯で、家康が入るまではどうにもしようがない土地だった旨をまた話していましたね。7月に放映された「英雄たちの選択」でも、「江戸は大湿地帯で、彼ら(家康たち)にとっては絶望的な風景だった」と、超専門家の某土木工学博士によって語られていました。

博士方でなくても、家康が入った時の江戸は、寒村、漁村、な~んもない!と言われてきました。


それは変だな・・。と思ったことはありませんか?

大湿地帯は合っているとしても、また、「はいはい、 そんな湿地帯を一大都市にした幕府は偉いですよ、はいはい分かりました gawk」 としても、築城の名人と言われている太田道灌や上杉が残した物はなかったのか?道灌のあと、一気に廃れてしまったのか?

利根川と日比谷入江を主体とした大流通地だった繁栄はどこにいってしまったのか?城の建物自体は大したことはなくても兵站基地として北条の重臣遠山さんが入り、北条氏政が隠居後に拠点とした、彼らが使っていた建物類はどこにいったのか?その頃の、住民達はどこへ行ってしまったのか?


もしかしたら、家康が入るまで江戸がまったく機能していなかったかのような話は、「家康公は何もない僻地に行かされたが、そこを大都市にした。やはり神君家康公は偉い!」という、江戸時代の幕府に洗脳された現代人の先入観が言わせていることなのではないかしら。

不思議、ふしぎ、なんで?どうして?どういうこと?誰か調べて教えてちょ(←自分で調べるのメンドクサイから)。


と、しつこく騒いでおりましたら、歴友師匠が「こんな本があるよ~」と教えてくださいました。

読み始めたところ、ドびっくり~。目からミツウロコ!
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大きな声じゃ言えませんがね、旦那方paper。どうやら事の要(かなめ)は、歴友師匠さん方もおっさっていましたが、鎌倉の円覚寺領だった前島の、家康による横領・・・

あ、しーっ!

に、あるようですな。コソッ

(道灌びいきの会でこのあたりを歩いた時に葛城明彦氏の解説をもっとチャント聞いておけばよかった。)


horse 秀吉は家康の江戸入りの時に、円覚寺領には手をつけないように文書を出している。前島は関東の河と海の流通の中心地だった。

いつの間にか家康はそれを円覚寺から奪い取った。

徳川はそれを隠したかったので、「江戸はそれまで何もない寒村だった」とした。

そして、近世のほとんどの公文書(含む地誌)から「前島」の名は消え、それが明治・大正・昭和と続き、一般的に江戸前島に関する史料が利用できるようになったのは、なんと昭和31年の円覚寺文書からである。

と、非常にザックリで恐縮ですが、こういう流れらしいです。


うう。ほんまでっか!?coldsweats02

家康殿の弁護をすれば、信長の石山本願寺しかり、それだけ寺社の勢力は強かったということなのでしょう。

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~昔から私は「今の銀座は埋立て地だ」と聞いてきましたが、この地図を見ると銀座のほとんどは前島ですね。~

「前島」「前島」と書いていますが、それってどこだったっけ?それが分からんと分からんよ。という方もいらっしゃるかもしれませんので、戦国時代初期の資料から上の地図をお借りしてしまいました。私も「前島」という地名は道灌びいきの会で初めて意識したエリアです。


それにしても、私達がそういうことを知らなくてもどうってことないですが、その道の専門家が、「それまで江戸は寒村で何もなく、絶望的な風景だった」などとテレビなどでおっしゃるのもどういうものかな~とも思うところです。だって、例えば道灌時代のことだけにしたって、当時としては素晴らしい建物や景観の様子がきちんと史料に残っているではないですかねえ。

江戸時代の隠蔽工作が本当かどうか私には分かりませんが、そういうことがあったかどうかより、現代でもそれを言い続けられていることの方が不思議ですわ。このままだと、家康以前の江戸はさびれた僻地という認識が後世にも繋がってしまわないかしら。


せんだっても、同様の番組で超有名人気の城郭研究の方が「戦国時代の関東の城には石垣はなかった」と何度もおっしゃっていました。いまだに。

こういうのってどうなのかな~と思ってしまう…ごにょ。


そうそう。家康の江戸入りの最初の土木工事が、前島の付け根を断ち切ることだったそうです(断ち切ったあとは「道三堀」という堀になった)。家康はまだ征夷将軍になっていないですから、当然に自腹の工事です。自腹でもその工事を行った。それは何故か…。

まあ、ご興味がある方はこの本を読まれてみてくださいまし。凄いねえ、家康。「関東平野改造論」。壮大なプランナーだね。あまり好きじゃないけどね。


また、当時の秀吉の下にいる大名は皆そうですが、徳川殿も「一生を江戸だよん」と確定されていたわけではないから、当初はどれだけ「江戸を本拠地に!」という熱意があったか?というところにも、ビビッときました。

そういわれてみれば、そうですよねえ。


名胡桃城は本当に北条が奪取したのか否かといい、弘治2年の里見vs北条の海戦の有無といい、岩槻城は誰が築いたかといい、家康以前の江戸のことといい。

歴史は謎だらけじゃ。

「BS英雄たちの選択 「家康はなぜ江戸を選んだ?」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2015/07/post-0fb0.html


紅花

cat コメント欄をもうけております。公開させていただいてはおりませぬがご感想なりいただければ嬉しいです。画像は、マリコ・ポーロが撮影したものです。

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