家康以前の江戸は本当に「寒村」だったのか?
マリコ・ポーロ
~「江戸はこうして作られた」 鈴木理生著 2000.1(ちくま学芸文庫)
時代劇や歴史バラエティ番組では、江戸は僻地で、寒村で、家康が入るまではどうにもしようがない土地だったとか、江戸は大湿地帯で彼ら(家康たち)にとっては絶望的な風景だったとかとか、まるで人類未踏の地のように語られます。
それは変だな・・といつも思っていました。
大湿地帯は合っているとしても、万里集九が愛でた、築城の名人と言われている太田道灌や上杉が残した物はなかったのでしょうか?道灌のあと一気に廃れてしまったのでしょうか?
利根川と日比谷入江を主体とした大流通地だった繁栄の名残りはまったく無くなってしまったのでしょうか?建物自体は大したことはなくても最前線基地として北条の重臣遠山さんが入り、四代当主北条氏政が隠居後に拠点とした、彼らが使っていた建物群は、北条が没落したあと欠片もなく壊されてしまっていたのでしょうか?
もしかしたら、家康が入るまで江戸がまったく機能していなかったかのような話は、「家康公は何もない僻地に行かされたが、そこを大都市にした。やはり神君家康公は偉い!」という、江戸時代の幕府に洗脳された現代人の先入観が言わせていることなのではないかしら。
不思議、ふしぎ、誰か調べて教えてくだされ(←自分で調べるのメンドクサイから)。
と、しつこく騒いでおりましたら、歴友師匠が「こんな本があるよ~」と教えてくださいました。
読み始めたところ、ドびっくり~。目からミツウロコ!
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大きな声じゃ言えませんがね、旦那方、お嬢さん方 。どうやら事の要(かなめ)は、歴友師匠さん方もおっさっていましたが、鎌倉の円覚寺領だった前島の、家康による横領・・・
に、あるようですな。ごにょ。
(道灌びいきの会でこのあたりを歩いた時に葛城明彦氏の解説をもっとチャント聞いておけばよかった。) 秀吉は家康の江戸入りの時に、円覚寺領には手をつけないように文書を出している。前島は関東の河と海の流通の中心地だった。
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いつの間にか家康はそれを円覚寺から奪い取った。
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徳川はそれを隠したかったので、「江戸はそれまで何もない寒村だった」とした。
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そして、近世のほとんどの公文書(含む地誌)から「前島」の名は消え、それが明治・大正・昭和と続き、一般的に江戸前島に関する史料が利用できるようになったのは、なんと昭和31年の円覚寺文書からである。
と、非常にザックリで恐縮ですが、こういう流れらしいです。
ほんまでっか!?
家康殿の弁護をすれば、それだけ寺社の勢力は強かったということなのでしょう。
~今の銀座は埋立て地だと聞いてきましたが、この地図を見ると銀座のほとんどは前島なのですね。~
「前島」「前島」と書いていますが、それってどこだったっけ?明確に存じなかったので、戦国時代初期の資料から上の地図をお借りしてしまいました。「前島」という地名は、私は道灌びいきの会で初めて意識したエリアです。
江戸時代の隠蔽工作が本当かどうか私には分かりませんが、家康の江戸入りの最初の土木工事が、前島の付け根を断ち切ることだったそうです(断ち切ったあとは「道三堀」という堀になった)。
家康はまだ征夷将軍になっていないですから、当然に自腹の工事です。自腹でもその工事を行った。それは何故か…。
もしかしたら私の偏見による誤読もあるかもしれませんので、ご興味がある方はこの本を読まれてみてくださいまし。
それにしても凄いねえ、家康。「関東平野改造論」。壮大なプランナーですねえ。あまり好きではないけど…ごにょごにょ。
また、当時の秀吉の下にいる大名は皆そうですが、徳川殿も「一生を江戸だよん」と確定されていたわけではないから、当初はどれだけ「江戸を本拠地に!」という熱意があったか?というところにも、ビビッときました。
歴史は謎だらけじゃ。 コメント欄をもうけております。公開させていただいてはおりませぬがご感想なりいただければ嬉しいです。画像は、マリコ・ポーロが撮影したものです。
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