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2015年10月22日 (木)

障子堀が出てきた「百姓曲輪」を偵察させていただいた

今回は前回の駿府「臨済寺」の続きを書くつもりだったのですが、障子堀が検出された小田原の百姓曲輪を偵察させていただいたので、そちらを先に。

ブログへの掲載は許可をくださいましたので、差し障りないと思われる範囲で、以下。


Img20151020_164937_2
~発掘中の百姓曲輪の堀上から香沼姫さまの屋敷跡を眺めるの図。~


写真の右側は慈眼寺さん。百姓曲輪は私が立っている背後の方にあります。

ここは今は舗装されている道ですが、かつては堀でした。障子は堀の上方に2本出ています。それより下方からは障子は出なかったそうです。トレンチを覗くと、宝永の噴火層も見えます。ということは江戸時代もこの堀はあったのですねえ。(加筆。松原図や文久年間の図にあります。堀は埋められたかどうなのか、ちょっと違います。)


さて。5月のブログ記事で少し書きましたが、宅地造成中だった小田原城古郭の 百姓曲輪 の堀から障子堀が出てきましたね。

トップの写真が、障子堀が出てきた、下の道路から向かって左側の慈眼寺側の堀です(下の絵図のピンクの矢印)。

障子の角が、キッチリ&カッチリしていると氏政時代に造られたものだと小田原のサル方から伺いましたが、検出されている障子の角はキッチリ&カッチリしていません。いつの時代に造られたものなんだろう?と思いましたら、障子は、かつて慈眼寺さんが道を作る時(慈眼寺は元禄時代の開基。)にかなり壊されてしまっていて、今のところ分からないそうです

Img20151020_115753_4
~下の道路から向かって右側の養林寺さん側の堀(絵図のの矢印)~

慈眼寺側の堀と同じく、かなり傾斜があります。こちらからは障子は出てきていないそうです。今のところ。


つまり、どうなっているかというとですね・・↓の絵図をご覧くだされ。

Img20151020_202317
~以前いただいた「現代図に複合させて城下町・宿場町おだわらの町名・地名図(江戸時代末期)」 by 小田原市教育委員会)の写真を撮って、書き込みしました。~


茶色は空堀。濃いグリーンは土塁。薄いグリーンは傾斜面。向かって左側のオレンジの卍は慈眼寺さんで、ピンクの矢印の堀がトップの画像です。この堀は、かつては、その先の山ノ堀切と<繋がっていたのでしょうか?/p>

2枚目の写真が緑の矢印で、その右側が養林寺さん。黄色い矢印は総構の 荻窪口 です。


ピンクと緑の2本の堀に囲まれた傾斜地(青い)がこたび住宅が建つところですが、このあたりは古墳時代の住居跡だそうです。当時の地表もしっかりとラインが出てきていました。

また、ここには東西に一本溝が掘られていますが、これは現代の溝です。宅地造成のためこのエリアの木々を伐採した後、雨などで土砂が崩れないように水の逃げ場を作ったものだそうです。


このエリアはかなり高い位置にあります。前のブログ記事に、海まで見晴るかした写真を載せていますので見てくりゃれ。

台地はかなりの傾斜地で、黄色い矢印の総構の方角に向かって高くなっています。


このエリアの、西側にはこれも謎である御前曲輪があり、南側には香沼姫さまの屋敷があったのです。


そして、
その2本の堀を上ったところにある、絵図上では茶色の空堀で囲われた小さな長方形が 百姓曲輪 でござります。

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~百姓曲輪。小さい、狭い。~


当時、この曲輪にはどうやって入ったのでしょう?

今は舗装された堀上の道から行けますが当時は周囲を堀が囲んでいるので、曲輪に入るには慈眼寺側の堀を昇っていくのかしら?いや、その堀は障子があるから通れない。反対側の総構の方から降りてくるのかな?今も道があるし。

それとも、慈眼寺は当時なかったからそちら側から行けたのか?いや、そっちにはつまり障子を伴う堀があったわけだから、来れないようにしているってことですよね。う~む。誰か教えてちょ。


百姓曲輪 という名前はもちろん北条時代の名前ではありません。その機能もいまだに謎です。

しかし、この小さい曲輪はグルリと堀に囲まれ、両側には障子を含む2本の堀があったことになります。特別な場所であったことは確かです。

特別な場所というのは、だいたいは祭祀的なものとか、御金蔵とかが想像されます。(歴友は、氏政さんがワケアリの高貴な女人を軟禁していたとのたまった。素敵~heart01


この曲輪あたりには江戸時代に門があって、代々その門番でらしたオウチがありますよね。享徳時代師匠が、大庭城で廃城になった城郭が江戸時代は共有地として管理されてたというので、そういうことかもしれないかもしれないと教えてくださいました。なるへそ~。確かに林の真ん中に井戸が残っていますから、そういうことかもしれないですねえ。

他にも、禁足地だったらしいという話も聞いたことがあります。なかなかに怪しい曲輪ですあ。北条時代に怪しい薬を作っていて、それが大久保時代にも受けつが…

あ!
大久保。大久保といえば、大久保長安。長安とい えば甲州金だ!


以前ブログにもたっぷり書きましたが、武田家再興のために、八王子城にも甲州金を運んでいたから、八王子城は江戸時代禁足地にされたんだもの。それを幕府に気付かれて大久保一族はケチョンケチョンに潰されたのです。小田原の大久保さんも臣下筋の長安と結託し…

な~んちゃって、それは江戸時代の話(←そうなのか?)。戦国時代はどうだったのだろう。


全ては謎。香沼姫さまー、ここはなんだったのですかー?教えてくだされー。

(注)甲州金の大久保さんの話は全て妄想でござる。


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~百姓曲輪あたりの道は、現代の小田原北条時代(←?)の穴場のような素敵な道。その先は総構の荻窪口へ至りますが、個人のお宅なので許可なく入れません。~


百姓曲輪と周囲の堀は、小田原市が買い取ってくださったようです。本当にありがとうございます。では、曲輪の下に建つ家は全てわらわが買い取って・・・な~んてことが出来るわきゃないですが、そうなると曲輪内もいずれは発掘調査が行われるのでしょうかねえ。

土から金の粉でも検出されたら面白いのにな~。いや、金とまでは言いませんが祭祀の道具などが出てきたら興奮ですよね~。うっ!まさか、これらの堀は慶長・文禄時代に掘られたものじゃないですよね!?


そういえば・・
小田原城は八幡山から始まったのではなく政庁は下にあったというのが今は定説になったと思っていましたが、夏の「かながわ考古学財団」の調査発表会では、今の調査の時点ではそれは断定できないとおっしゃっていました。

百姓曲輪の機能が分かれば、それも少しは分かりますよねえ。


小田原は本当に、ファンタジーワンダーランドです!おっと、私の御用米曲輪を忘れたわけではけっしてありませぬよん。


最後に。お仕事中なのに色々説明をしてくださり、ありがとうございます。楽しかったです。


5月の記事です。
「小田原古郭の百姓曲輪、宅地開発なう」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2015/05/post-d0a9.html

香沼姫さまについてはたくさん書いておりますが、その一部です。
「小田原城、御前曲輪で妄想す」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2011/05/post-7998.html
「レジェンド・オブ・香沼姫」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2010/05/post-bb1a.html
「アフター北条氏照の大久保長安についての妄想」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2011/07/post-6cc6.html


萩真尼

cat コメント欄をもうけております。公開させていただいてはおりませぬがご感想なりいただければ嬉しいです。画像は、マリコ・ポーロが撮影したものです。

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