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2015年10月16日 (金)

駿府 「臨済寺」の特別公開

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~臨済寺といえば今川。今川といえば海道一の弓取り、今川義元。今川義元といえば、ご存知!黒衣の宰相、雪斎殿。~


サル10月15日、春と秋の年に2日(年に2回ではなく年に2日)だけの、「臨済寺」特別公開を拝観するため、家康殿ではなく!今川殿の駿府へ行ってきました。

とても混んでいましたが、午前中早いうちに行ったのでそれでもまだ人出は少なかったようです。 一度は行きたいと思っていたので嬉しくて、写真もいまだかつてないほどたくさん撮ってしまいました。


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~仏殿の前にも、雪斎殿の頂相~


今更わらわが申すまでもないですが、臨済寺は我らが北条早雲こと伊勢宗瑞の姉、北川殿ゆかりのお寺です。


今川の当主・義忠に嫁いだ北川殿の息子・氏親は、そのまた息子・栴岳承芳(のちの今川義元)のために、母上北川殿の別邸を「善徳院」としてお寺としました。

氏親亡きあと家督を継いだのは嫡男の氏輝でした。ところが氏輝は、小田原におよばれし長期滞在して駿府に戻った12日後(位だったかな?)に急逝してしまいます。享年23才。

なんと!すぐ下の弟・彦五郎君も同日亡くなります(彦五郎君という人はいなかったとの説もあり) 。

ど、どういうこと!?coldsweats02


そのあと、仏門に入っていた2人の弟たち、この善徳院の栴岳承芳(義元)と玄広恵探の間で跡目争いが起こります(花倉の乱)。

勝利した義元は、急逝した亡き兄上・氏輝を自分がいた「善徳院」に葬り、寺名を氏輝の法名「臨済寺」としたのでござります。


この跡目争いの時、我らが北条は栴岳承芳(義元)をバックアップしますね。

う~む。
色々と妄想は広がりますが、なんの証拠も残ってはいまへん。


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~氏輝殿と義元殿の兄弟~


雪斎の鐙、雪斎の陣中袈裟、雪斎の陣中鉄鉢・・などなど、雪斎殿の遺品がたくさん出ていましたが、臨済寺の開山は雪斎ではありません。大休宗休という方です。

雪斎は駿河の名門庵原氏の出身で、京都建仁寺に入り、そのあと妙心寺に移ります。大休宗休は妙心寺の二十五世住持だった方だそうです。


雪斎は建仁寺にいる頃に、氏親の命により、氏親の四男の栴岳承芳(義元)を伴って富士下方庄の「善徳寺」にも入っていました。つまり雪斎は義元にとっては「兄さま」、義元は雪斎にとっては「弟 でい」ということになるのでしょうか。

(今、海道龍一朗の『室町耽美抄 花鏡』を読んでいるので、まさにツボなところheart01。でも、主従関係が逆だから少し違うかな・・)


義元にとって雪斎は仏門では兄弟、俗世では執権。ずっと一緒ですね。雪斎がもう少し長く生きていたら、義元の一生もまた違ったものになったのでしょうか。


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~方丈から書院に渡る階段。建物の中で、この階段だけが室町時代から残るものだそう。~


臨済寺は義元亡きあとの駿河の奪い合いによる武田軍の侵攻で焼かれてしまいました。それを再建したのが成長した竹千代君、つまり徳川家康殿です。

臨済寺へは駅からバスで10分強ですが、ちょうど便が悪く、時間がもったいないので行きはタクシーにしました。途中で運転手さんが突然向こうの山を指し、「あれ、あれ。あの山を越えて信玄が来たんですよ~」とおっしゃったのが面白かったですhappy01


雪斎の頃の臨済寺は、9つの塔頭と50もの末寺を擁した大寺院だったようで、寺宝もたくさんお持ちです。

戦国武将関係では雪斎の他にも、義元、家康や榊原義政、武田信玄ゆかりの品も拝見。武田信玄の文書もたくさん出ていましたが、読めないのが悲しい・・weep。しかし、近しい親戚の北条のものは無かったです。前回は出ていたのでしょうかね?チト分かりません。


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~一番高台のお茶室から眺めるの図~

お茶室へ昇るには、色別の整理札をもらいます。お茶室へはたくさんは入れないので15人づつ位で順番に昇るのです。これはけっこう待ちますが、整理札を受け取ってから「〇色の方~、どうぞ~」と呼ばれるまでは書院の寺宝を見たりできるので、寺宝を見る前に先に札をもらっておいた方がよろしいかと思います。いい方法ですねえ。


茶室は大正時代、駿府城に陸軍の兵営がおかれた頃に作られたものだそうです。茶室自体うんぬんというより、ここからの眺めが素晴らしい!下から見るよりかなり高い位置にあり臨済寺を俯瞰できるだけではなく、浅間神社や駿府城がよく見えます。

みんな写真を撮りまくっていて、なかなか降りて来にゃい。


歴代のお位牌も拝むことが出来、今川家の歴代当主にご挨拶もかないました。また、お坊さん方もとても爽やかで感じが良く、拝観者の質問(含むワテ)にも気さくに答えてらっしゃいました。


大満足のうちに臨済寺を退出。そして・・・しばらくしてから気が付きました。氏親殿や義元殿や雪斎殿のお墓参りを忘れてしもうた!

我ながら、不覚 crying


さて、お昼は安倍川を渡河し丸子の宿にて とろろ汁。それから、もうひとつ良いところへ行きました。次へ続く。


以前、駿府で北川殿の徳願寺と北条氏規の足跡を訪ねた時のブログ記事
「早雲の姉と北条氏規の駿府」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2011/01/post-5a23.html


cat コメント欄をもうけております。公開させていただいてはおりませぬがご感想なりいただければ嬉しいです。画像は、マリコ・ポーロが撮影したものです。

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