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2015年10月 2日 (金)

北条早雲が焼いた鎌倉の寺々

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~大慶寺~


枯るる木に
また花の木を植ゑそへて
元の都に
成してこそみめ

と、戦乱で荒れた武家の都鎌倉を復興させてみせようぞ!と詠んだ、我らが北条早雲 こと 伊勢宗瑞殿。な~んだ、荒らしたのは自分もじゃんと思ったこの日。


大好きな文士、立原正秋が通ったという湘南深沢の某お蕎麦屋さんでお蕎麦をたぐり、秋とは名のみの灼熱地獄sunの中、500年前に岡崎城から住吉城へ逃れる三浦義意(道寸Jr.)を追いかけて我らが伊勢宗瑞が焼き払った寺々がある湘南深沢あたりを「ぶら マリコ・ポーロ」してまいりました。

湘南モノレールの湘南深沢駅を降りると、すぐ目の前が、大慶寺、等覚院、東光寺などのお寺が集まるエリアです。茅葺き屋根の山門の小さなお寺が、ひとつの山の裾を取り巻き、住宅街に溶け込むように静かに佇んでいます。地名は「寺分」。ふ~ん。なるへそね。


shoe まずは、葺き替えられたばかりのような綺麗な茅葺の山門のお寺、大慶寺へ。

大慶寺の創建は 1278年~1287年頃と伝わっています。ということは、北条執権9代の頃になりますか。当時はかなり大きなお寺だったようで、現在の大慶寺はその時の塔頭のひとつだそうです。


大慶寺には、北条氏康殿の判物が出されています。

なんでも・・
一時衰退していた円覚寺の帰源院を氏康殿が再興する時の開祖が禅才という名僧で、その禅才和尚が比企から迎えられ最初に入ったのがこの大慶寺だそうです(鎌倉シニアネットさんのHPを参照させていただきました)。


おっ!
ということは、ベンチのこの ↓ 三鱗はっ!up

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お寺の方に伺ったところ、北条執権家(前北条)の三鱗だそうですdown 。そりゃそうですよね~。


現在のご本尊の釈迦如来像は永禄10年の作。おお!小田原北条時代ですねup

かつてのご本尊は、謙信くんの小田原攻め→鎌倉入りの時に円覚寺に非難させたそうです。そのご本尊は、その後の円覚寺の火災のために焼けてしまったんですって。


shoe 次は、東光寺

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東光寺は、大慶寺のもう一歩奥にあります。背後の山は大慶寺の背後の山と同じ山です。住宅街なのに山里にあるお寺のようで、いかにも鎌倉っぽいですねえ。

創建は永享3年(1431年)と伝わっています。ということは、時代は既に室町中期。赤松に殺された6代将軍・足利義教の頃です。関東では、あと数年経つと永享の乱が起こる頃です。


次に行く等覚寺もそうですが、東光寺も現在の大慶寺も、当時は大寺であった大慶寺の塔頭だったのでしょうか。大慶寺は臨済、東光寺と等覚寺は高野山真言宗。違うかな。

でも、それぞれのお寺には裏の山に登ることができるような古~い石段があり、どうやら山でつながっているようです。碑のようなものも上の方に見えました(関係者以外が立ち入れるかどうかは定かではありまへん)。何かしらの関連寺院だったのでしょうかね。


とにかく観光寺院ではないので説明板も少なく良くは分かりませんが、ちょっと興味深いエリアです。

いったん大慶寺の方へ戻り、最後は等覚寺に参りましょう。それぞれのお寺の中もそうですが、家々の間をゆく細い道に沿った山の側面には「やぐら」があちこちに見られ、とても鎌倉らし~い住宅街です。


shoe 等覚寺

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こちらの創建は、応永年間(1394~1428年)です。室町将軍は、3代義満から続く4代・5代の頃です。

境内には、新田義貞の鎌倉侵攻の時に犠牲となった北条(前)の兵たちの供養塔がたくさんありました。


そういえば、最後の執権・赤橋殿が新田軍と戦い、敗れ自刃したのはこのあたりだったのでしたねcrying。うー、大河「太平記」を思い出すぅ。近くのモノレールの下には古戦場の碑もあります。

その他にも、境内には石塔や石仏や石碑がたくさん。裏山に昇る段々にもたくさん。


さて、これで現代へ帰る?チト、まだ妄想していたい。モノレールで大船へ戻ったら、藤沢はすぐです。


shoe このさいだから、同じく伊勢宗瑞どのが焼き払った藤沢の遊行寺(清浄光寺)へ

藤沢駅前の喧騒を抜けて藤沢宿を15分位歩くと赤い遊行寺橋が見えてきます。バスもありますが、この時は時刻的に便数があまり多くありませんでした。

神奈川県の人間なら誰もが知る(たぶん)、時宗総本山。開山700年の名刹です。私は都民ですが歴史やお寺が好きなので名前だけは存じておりました。ご縁起を読んだり、お参りするのは初めて。


大きなお寺でびっくりしました。参道も素晴らしいです。 ま~、様々な時代の中で様々な歴史や人物がかかわっているお寺なので、詳しいことはHPをジックリご覧になるとよろしいかと存じまするが、 このお寺でビビッ eye ときたのが・・

板割浅太郎の墓!


え、だれ?それ。でしょ。ほら、あの、

赤城の山も今宵限り・・。かわいい子分のてめぇたちとも、別れ別れになる門出だぁ。

おやびん!

カァー(←カラスの鳴き声)うんにゃ、あれは雁か。

の、子分の浅太郎ですよ。


実在の人物だったんだ~。それにしても、何故ここに?

赤城山で国定忠治と別れたあと浅太郎は仏門に入り、遊行寺の堂守となったそうです。その後、近くのお寺の住職となり、火災にあった遊行寺の復興に尽力したとのこと。

へえ~~。ドびっくり~。


って、いやいや違う。そうではなくて、ビビッときたのは、こちら ↓ です。

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「敵味方供養」の碑。

応永23年、上杉禅秀の乱で犠牲となった人達を敵味方関係なく供養したものでした。乱終結の3年後に建てられたものだそうです。

応永か・・。上に書いた寺々が創建された頃の時代ですな。


それから 97年後の永正10年。我らが北条早雲 こと 伊勢宗瑞が、三浦道寸との戦いで遊行寺(清浄光寺)を全焼させました。

誠に申し訳ございませんでした。新九郎さんに成り代わりお詫び申し上げまする。

な~んちゃって。


紅花

cat コメント欄をもうけております。公開させていただいてはおりませぬがご感想なりいただければ嬉しいです。画像は、マリコ・ポーロが撮影したものです。

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