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2015年11月22日 (日)

「岩槻城」 道灌の会で実地見聞?

▲ 2015.11.24 加筆
11月刊の『論集 戦国大名と国衆19』は「北条氏房」だそうです!北条時代の岩槻研究が主のようですが、ぜひ読まねばです。岩田書院さんのHP→http://www.iwata-shoin.co.jp/bookdata/ISBN978-4-86602-938-2.htm


Img20150926_214637
~これは江戸時代の絵図だが、堀が埋められ今の姿になったのは昭和40年頃だと!徳川が城を分断するためド真ん中に御成街道を敷いただと(ピンクの矢印)。知らなかった。~


誰が築いた
岩槻城
それは私と
こまどりは言った

by マザーグース

な~んちゃって、うそうそpaper。パクリにてござります。


あれやこれやの疑問はブログに書き散らかしっぱなしとなっております。その他にもペンディング事項は山盛り。

が、まあ、小田原の御用米曲輪の発掘調査は一段落し(←遺跡調査発表会が楽しみhappy01)、徳川以前の江戸については家康殿の円覚寺領うんたら・・ゴニョで決着し(←それでいいのか?)、百姓曲輪はこれ以上は私には分からないので(←当然じゃ)後は小田原市におまかせし、残るは「岩槻城は誰が築いたか」になりました。


ということで・・

こたびは、小田原の百姓曲輪の謎にとらわれ過ぎアップするのが延び延びになってしまっていた、とても興味深かった岩槻城の見聞でござる。

サル9月のことになりますが、「道灌びいき」の会で岩槻城の城下と城跡を歩いてまいりました。


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~法林寺の太田道灌像。カッコええ~。~


一般的に言われている岩付城のことや城郭ファン的にマニアックなことは、皆さん私なぞより遥かにご存知だと思いますので、そのへんのところは割愛させていただきやす。

案内してくださったのは、岩槻市のベテランガイドさんお二人&「岩槻城は誰が築いたか」の著者・小宮勝男氏です。岩槻城は何度か行っていますが毎回一人だったので、今回初めて見たり知ったりしたことだらけでした。


まずは郷土資料館で、岩槻城のジオラマを見たり、戦国時代の文書類(複製)を見たり(北条氏房くんの印判状もあったぞ!)、ここだけで半日いられそうなぐらい話は尽きず、いい加減そろそろ行きましょうということで、太田三楽斎の奥方様の菩提寺、法林寺へ。


法林寺では、太田三楽斎の息子氏資くんの宝篋印塔の話でまた盛り上がり、時間は押し押し。

そうそう、ここには太田道灌のお墓もありますが、こちらは、伊勢原から道灌の遺骨・遺髪を分けたものだ?そうです。


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~同じく法林寺。なんと!応永、享徳の墓石 coldsweats02。「応永」「享徳」の文字がかろうじて読めた。~


さて、くだんの、「岩槻城は誰が築いたのか」。

太田なのか?それとも成田なのか?については、先にマリコ・ポーロにあげましたが、やっぱり決定的な 何か がもうひとつ出ないと結論は出ないのでしょうかねえ。


先日、八王子市で開かれた、我ら残党の「旧八王子城を守る会」の会長でもあった峰岸純夫先生の講演会「中世多摩の戦乱と城郭」を拝聴してまいりましたが、そこで先生がおっさってらっしゃいました。

「峰岸先生は、あっちへ行くとその説にそうかもしれないねえ…と言い、こっちへ行くとこの説にそうかもしれないねえ…と言う。調子いい~。 と言われますが、実際に見た人はいないんだから、いいんですよ。歴史にはいろんな説があってね。」と。


とはいえ、早くどっちか知りたいのは歴史ファンの性(さが)。

どちらかハッキリさせなくてもいいから、問題をオープンにして歴史ファンの議論をよんだら、岩槻城の活性化にもなるのではないかな~と思いました。だって、杉山城がそうだったでしょ。


万が一、大河ドラマで「太田道灌」をやることになっても、この岩槻城問題が静まり返ったままだと、ドラマで岩槻をどう取り上げてよいかどうか分からず、その流れから外されてしまうなんてことになりかねません。学芸員さんも頑張ってらっしゃるのに、「ブラタモリ」だって呼べないし。

築城が太田さんにしても成田さんにしても、城の規模も大きく、太田、渋江、北条、江戸時代の岩槻藩・・と魅力的な歴史を抱えているのに、みすみすチャンスを逃しているようでもったいないと思いました。


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~ガソリンスタンドの隅っこに埋もれた「本丸跡」の碑。かわいそう・・・。これじゃ記念の集合写真も撮れないね。~


とはいえ、戦国~江戸にかけての城の主要部はほとんど完全に住宅街。残っているのは北条時代の出丸のみ。往時を偲べるのは暗渠となった堀痕や埋め立てた沼地の痕跡だけ。

またその痕跡の地図とか絵図面が手に入らにゃい。個人のお宅ばかりだから、難しいのでしょうねえ。

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~住宅街の中に残る堀跡~

今回はガイドさん達が、それこそ「ブラタモリ」のように現代の地図の上に透明なものに描かれた当時の絵図を重ねてポイントポイントで説明してくださり、こんなところ を歩くことも出来ました~♪


最後は岩槻の銘酒「大手門」の鈴木酒造さんで、試飲とお買物 。

各所で時間を取り過ぎ、酒造へは有志だけが行くことになりました。みなさん、「これを楽しみに歩いて来たんだよ~」。有志と言いながらもほとんどが参加。そんなもんだbottle


そして、実地見聞の結果、「岩槻城は誰が築いたか」はワテにはまったく分かりませんでした。おしまい。


「岩槻城を築いたのは、太田か成田か」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2015/08/post-e9a4.html
「今20日未明、岩付城へ総攻撃はじまる」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2013/05/post-de3a.html
「続編・城は今日落ちた」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2013/05/post-79a2.html


萩真尼

cat コメント欄をもうけております。公開させていただいてはおりませぬがご感想なりいただければ嬉しいです。画像は、マリコ・ポーロが撮影したものです。

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