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2016年1月31日 (日)

かつて訪ねた「真田の里」

「信長協奏曲」を観てまいりました。いや~、血沸き 肉躍りました。原作も読んでいなかったし、アニメも見ていなかったこともあり、心拍数上がりっぱなし!

ドラマが終わった時、またこれも最後は映画なのぉ~ と憤慨したけれど、 こりゃテレビドラマではだめでしたわ。衣装もロケ地も素敵ですし、皆さま、すぐ観にいってくだされ。今すぐ!

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さて。

皆さまもそうだと思いますが、信濃へは史跡めぐりや温泉・・などなど、子供の頃から私も何度か行っております。最近はそんなことはしないですが、日帰りでお蕎麦を食べるためだけに行くなんてこともやっちょりました。


真田ゆかりの地のこともブログに書き残しており、いつかアップしようと思いつつ何年も保存したままになっていました。天邪鬼(あまのじゃく)ゆえ、時流に乗せられているようで特に今年はアップしたくなかった真田のこと。

でもまあ、意識が真田に向いたこの際、時流に乗せられて一応ブログにも旅の見聞を残しておくことにしました。


少ない知識とはいえ、最近知ったことを含めて改めて書き直すと、その時のパッションが薄れてしまいそうなので、以下、当時書いて保存していた、ほとんどそのまま公開します。昔のテンションでチトお恥ずかしいですが、よろしくば。(写真類は他のブログ記事で使ったかもしれません。)


066_2
~夜の上田駅も六連銭。昼間しか行かない人は気づかない。~


信濃(しなの)

ニュースや天気予報で、「次は関東甲信越のニュースです」とか「次は甲信越地方の天気です」とか言います。普通に聞き流していますが、「関東」はいいとして「甲信越」とはなんの事か、いずこの事か明確に言えるかな。

「知っとるわい。甲斐・信濃・越後のことやろ。」
そうですよね。ほな、それってどこさ?
「山梨県・長野県・新潟県だす。」

そうですよねえ。でも、今、「甲斐・信濃・越後」なんて普通の会話では言いやしませんです。「連休はどこへ行ったの?」と同僚に聞かれ、半分冗談で「甲斐の国」と申したら、「へっ?」と皆に聞き直されましたもの。


「甲斐・信濃・越後」とは、日本の国がやっと整備された奈良時代の律令制下で定められた地方区分の言い方です。時代は移り、江戸徳川時代に‘藩’、明治以降は‘県’へと行政区分が変わっていってるのに、現代でも天気予報で普通に使われているって何か不思議~。

「へっ?」と聞き直した人達も、天気予報は分かるんです。なんとなく漠然とは、「あのあたりの土地名・・」って感じなのでしょうねえ。ぜひ残してほしいですよね、この呼び方。


話は400年前へ。
越後を主に支配していたのは謙信くん。甲斐は信玄殿。では、信濃は?

もちろん守護職小笠原さんはいましたが、戦国時代の信濃は、プチ城主達の宝庫でした。それは、「天下争奪をめぐり武将達が群雄割拠していた」というのではなく、個性的で魅力的なプチ城主達が「きら星の如くちりばめられていたというイメージで私はとらえています。


かといって彼らはその辺の地侍あがりではありませんよね。ほとんどが源平時代・鎌倉時代から続く古くからの家柄です。鎌倉時代の次の室町時代、政権の中心がまた西へ移り徐々に西の武将達に圧されたり、また、武田や上杉や北条のスーパー勢力に組みし、小粒になっていった名族です。


山々が連なる信濃。なにせ向こう三軒両隣が近すぎるのだよね。その中心に立って、ぐるりを見まわすと、視界に入る山という山が城跡と言っても過言ではありません。

信濃とその周辺はプチ城主がひしめき合い駆け引きも複雑です。それぞれがライバル。ある時は敵対し、ある時は協力しあい、山間の小さな「わが領地」を守って暮らしていたんですねえ。


地方都市の例に漏れず、このあたりも駅の周辺だけは賑やかですがあとは田畑が広がっていて当時とほとんど変わってないような気がします。

高速道路や舗装道路や宅地を見ないフリして、山々と空を見上げ想像してみると、そこの県道の脇道から村上さんが家来たちと何やら大声で笑いながら馬に乗って走り出てきそうだし、そこの河原で平賀さんが駒を休めていそうだし、そこの木陰で小笠原さんが敷物に座り家臣のお酌でお酒を飲んでいそうだし、そこの裏の林の中を真田さんちの忍びがサササッと横切りそうです。

これはあながち妄想ではないですよ。子孫の方達が今も暮らしてらっしゃるから、そうと言えないこともないでしょ。私の知人のフレンチレストランのシェフは村上義清さんゆかりの子孫で実家はこの近くだそうですしね。


真田一族

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~真田の隠し湯 「角間温泉 岩屋館」。秘湯中の秘湯。昔セピアのフィルムで撮った写真の、そのまた写真を撮った。謎の生物はワテ。~


真田一族はこのあたりで牧を管理し良質の馬を産出していたといわれています。

そして、真田の旗印・家紋の「六連銭」は三途の川の渡し賃。今でも人が亡くなった時の一般的葬儀だとお棺に一緒にいれることもあります(紙に六連銭が印刷されたもの)。

戦国武将は日々死と隣り合わせ。真田さんはその六連銭をシンボルマークにしたのですな。


武将のシンボルマークは2つのパターンに分かれる気がします。ひとつは「神仏に守ってもらいその力を借りて勝つぞ!」 バージョン もう1つは、「命を惜しまず戦うぞ!」 バージョン。どちらも最終目的は一緒だしカッコよかとですが、兜の前立てにするならあなた様ならどんなのにされますか。私は「虫」がいいな。蝶とかトンボとか蝮とか。

戦国武将にとって甲冑は死装束です。江戸時代の様な儀式用ではありません。そこにそれぞれの美意識がみてとれます。その美意識とは、ファッションセンスとか美術工芸品に対する造詣などというヌルイものではないと思います。そこにあるのは、「己の死」に対する美学であり、「いかに死するか」の覚悟の表れだと思います。


真田一族か・・。「一族」って関東以北では「安倍一族」と「真田一族」と「三浦一族」ぐらい使わない?そんなことないですかね。でも、上杉一族とか武田一族とか伊達一族などとはあまり言わないですものね。

「一族」なんですね。真田は。


忍びのこと

真田一族。ロマンをかきたてられるフレーズです。それもこれも大正時代の講談本「真田十勇士」のイメージからくるところが多いのではないでしょうか。

真田十勇士は、もちろん皆さんご存じでしょうが、一応。


●高野山の九度山に不遇の身をかこつ真田幸村。徳川に攻められ滅びゆく豊臣秀頼を助けるために、すでに勝ち目がないことを承知の上で大阪へ向かいます。幸村を慕い付き従うのは「十勇士」とよばれるキュートな忍び達。

猿飛佐助、霧隠才蔵、根津甚八(あの芸名はここからとったのですよね~)、三好青海入道・・。彼らが様々な忍術を駆使し大活躍する心躍る冒険ファンタジー。●

アレッ? 最後の最後はどうなったっけ?


真田一族は諜略が得意であったため有能な忍びをたくさん囲っていたイメージがあるようで、それがこの物語が生まれた背景なのでしょうか。

以前、角間温泉に行った時、周辺に真田の忍び関係の名所?がいろいろありました。角間温泉自体が「真田の隠し湯」と伝えられているし、裏庭に「猿飛佐助修行の場」なんかもありました。

「猿飛佐助は実在の人物じゃない」なんて言わないで。いかにも、な雰囲気だし、仮に‘佐助’としてあるけれど、そういう佐助達のような異能集団がここでトレーニングしたんだろうなー、と想像するの。


今更私が説明するのもなんですが、忍びとは俗に言う忍者です。

最初に忍びを使ったのは厩戸皇子(聖徳太子)いわれているけど、彼らが一番活躍したのはもちろん戦国時代。ほとんどの武将が忍びを使っていました。土地によっても、時代によっても言い方が違うようです。忍び、すっぱ、間者(かんじゃ)、草の者などなど。江戸時代はお庭番とか隠密(おんみつ)とか呼んでいますね。「そのほう、公儀隠密じゃな。フォッフォッフォッ」なんちってね。


上杉謙信の側近の直江家は「軒猿」。頭(かしら)は八海でいいのかしら?越後の美味しいお酒「八海山」の産地、八海山の麓あたりを根城にしていたかららしい(ホント?よく知らない)。伊達家は「黒ハバキ組」。ご存じ、「甲賀忍・伊賀忍」。本当にいたかどうか分かりませんが、我らが北条の「風魔」などなど。

有名な忍びもいますね。忍びなのに有名になっていいのかとも思うけど、徳川の伊賀の服部半蔵、同じく伊賀の百地三太夫、甲賀の甲賀三郎(望月家)、あ、あと柳生一族(一族だっ!)。あんまり知らない。浅い。すみません。


ドラマで見る黒い忍び装束なんかも着てなかった。特に昼間は、「ワシは忍者でござい」ってアピールしているようですもんね。目立たな~い、普通のお百姓さんとか、行商人とか、山伏なんかのカッコしていましたよね。夜も黒は逆に目立つそうで、エンジ色とか着ていましたよね(そうそう。見た見た。そうだった)。

忍びといっても、マンガや ヒーローアニメ みたいにドロンと消えたり手裏剣 ♪シュッシュッシュッシュシュー(赤影)がメインじゃないです。 訓練された特殊技能を使って諜報活動をしたり、敵の城にはいりこんで人心を惑わす噂を流したり、時には放火暗殺も。当たり前だけど、けっこう暗い ワールド。 


そして、彼らはほとんどが正規雇用ではありません。正規雇用もいるにはいるけど、つまりは派遣契約です。長期契約も短期契約も単発もあります。だから、ある時はA武将に雇われB武将を探ります。その次はB武将に雇われA武将を諜略しに行ったりします。

もちろん一人の武将(家)とだけ長期契約し、正社員に登用された忍びもいました。上に挙げたメジャー忍びは、ほとんどこの部類です。


う~む。有能な忍びほと後世に名を残してはいないと思うことは思うのじゃが・・・あれ?なんだか真田一族から忍者の話になってしもうた。

何を言いたかったかと申すと、実は真田一族はあんまり好きではありませんでした。どうも権謀術策諜略家のイメージが強くて。


でもその地に行って狭い土地で敵同士があまりに接近しあっている立地条件を実感すると、そういう中で生き延びてゆく小さな一族の必死さが胸に迫り、そんなに嫌いではなくなってきたのです。

大河ドラマ「風林火山」で、佐々木蔵之介さん扮する真田幸隆(信繁のおじいさん)が陣中で、かつては自分の領地であり今は敵のものになっている里山をジッと見つめ、手を前へグゥーッと伸ばし、

「もうすぐだ。もうすぐ我が里がこの手に戻る・・」

ギューッと手を握り締めるシーン、胸がキューンとしましたよね~。幸隆殿は武田信玄の絶大な信頼を得て、その後の生涯、武田家と長期契約を結び続けました。


惜しい村上義清

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~荒砥城から、義清殿の居城・砥石城を望む。眼下に流れているのは千曲川 。千曲っている。砥石城の本城ルートは整備された明るい登山コースだったが、途中でなんだかとても怖くなり・・ごにょ。引き返して、それ以来行っていない。~


ここに、知人の先祖である(ほんとかな?)村上義清という城主がいます。

武田信玄とは宿敵同士ともいわれていますが、義清殿は私としては信玄公の宿敵とするにはちょっとプチ(ファンの人ごめんなさい)。村上義清のライバルは真田幸隆のような気がします。敷地(領地)もお隣同志ですし。

村上義清の居城は「葛尾城」。標高805m。現在の満泉寺あたりが屋敷跡だと伝わっています。


村上氏の先祖をたどれば源氏の出。あちらこちらに出自が同じだったり違ったりする村上氏がいて、いろんなものを調べても私にはよく分りません。でも、信濃の村上氏は古くから続く由緒正しき家柄ではあるようです。

有名な伊予(現代の愛媛県あたり)の村上水軍も同族のようです。時代は遡りますが、室町時代の南北朝の争乱の頃(天皇家・公家・武家が南朝方と北朝方に分かれて長く争っていた頃)、吉野に逃れた南朝の後醍醐天皇の皇子・護良親王、いわゆる大塔宮(昔はだいとうのみや、今はおおとうのみや)を命をかけてお護りした村上義光・義隆父子も祖先のようです、ようです、ようです・・・。


この親子が好きだ。父上義光殿は皇子の身代わりとなりて自刃。若君の義隆さんは父上の意志を継ぎ、皇子をお護りしながら脱出をはかります。落ち延びる途中、単身敵を防ぎ討死。享年18歳!

どこまでが作られたお話がわかりませんがねー。以前、吉野へお花見に行った時にお墓参りしたかったけど、春の雪が降り積もる中、ちょっと足場が悪くそこまで行けませんでした。


ファンでないのになぜ義清殿の城を訪ねるかというと、それは、信濃村上氏が一番隆盛を極めた時の城主が義清殿ですし、彼が武田信玄に負けて上杉謙信を頼ったことが川中島の合戦の引き金の一つだったし。なんといっても信濃では大きな勢力だったから、信濃のどの城跡へ行ってもなんかしら義清殿が関わってるからなのです。

それなのになぜファンではないのかというと、それだけパワーもあり、さんざん甲信越をかきまわしたのに、越後の謙信くんのもとへ行った後なんとなくフェイドアウトしちゃった感があるからです。


しかも、そこで長生きされて病死らしい。いや、病死はお気の毒ですし、猛将がみんな若くして討死せにゃいかんわけじゃないんだけど、なんか惜しい。

謙信くんが援軍を出してくれて一旦は信濃に返り咲きましたが、これはオマケでしたね。数か月でまた武田に攻められ越後に敗走。 惜しいな~。

敵の武田家が滅びた後、ご子息が海津城に一時期はいってます。これも惜しいな。イメージする村上家の方向性とは違う気がする。


この方、最後は越後の一(いち)プチ城主になっていますが、どう思ってたのかな、越後へ行った後。

自身の運命を静かに受け入れたのか。すっごく悔しくてうつうつと暮らしたのか。最後までギトギトと信濃に返り咲くチャンスを狙っていたのか・・。


アミューズメント城の荒砥城

名湯、戸倉上山田温泉にある、これも村上さんちの支城です。NHK大河ドラマ「風林火山」の、海の口城攻めのロケに使われたのはここでしたね。入場料300円。維持費がかかりますから。

ここは戦国時代の城の体験ゾーンです。ここを見ると、他の城跡へ行っても想像しやすくなりますよ。


眺めは最高。取り囲むのは信濃の山々。眼下には北国街道と、千曲川がほんとに千曲っている様子がよく分かります。反対側にまわると雪をかぶった北アルプスまで。砦越しに広がる戦国大パノラマです。

こんな景色を見てたんだね、山田さん(義清どのの臣下で一族の山田さんの城なのだ)。でも、平常時は麓に住んでたから、ここに来るのは変事の時、あんまり美しい景色だと思ってはいなかたかも。

「見渡す限り油断できない人間だらけ。げっそり・・」
としか思わなかったかも。


上田原古戦場

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~古戦場~


大好きな土地の名前の由来。
信濃には「平 たいら」という名称が多いです。スキー場の菅平・塩田平・真田平・善光寺平・佐久平・・などなど。信濃では盆地のことを「平」と呼ぶそうです。


上田駅から、名湯(信濃は名湯だらけ)別所温泉の塩田平にある塩田城へ向かう途中に、「上田原」という古戦場があります。武田信玄が ノリノリ で信濃侵略を進めていた時に、信玄VS義清どの(& 義清どの率いる信濃の反武田プチプチ城主達)の大戦があった場所です。

今は田畑ですが、冬に行ったので本当に上田‘原’。当時をイメージしやすかった。しっかし広い広い。城跡とは違って、どこをポイントにすればいいのか?走りまわっっちゃいましたよ、車で。

一番いいのは、武田が本陣を置いた(といわれている)石久麿神社に行ってみることみたいです。素晴らしい石碑や合戦の陣張図があります。まわりには「信玄道」の小さい石碑や(農道上にも白ペンキで書いてある???)、「無名戦士の墓」などがあります。

「上田原古戦場公園」近くに板垣さんのお墓がありました。また、原っぱの向こう側には義清殿が陣を張ったと伝わる、「岩鼻」と呼ばれる奇観が臨めます(上の画像の崖みたいなとこ)。


この戦は引き分けと言われていますが、どちらも多大な犠牲者を出しました。信玄殿は、重臣の板垣さんと甘利さんを失い自分も ケガしました。自信満々でイケイケになっちゃったから天に鉄槌をくだされたのか。

信玄殿は戦が終わった後も何故か陣をひかず、一ヵ月近く居座ります。そしてママからお手紙がきました。「いつまでも意地を張ってないで帰ってらっしゃい・・・」みたいな。僕チャンは、負けを認めるのが悔ちかったのか? 思い上がりを大反省してたのか。

それにしても、川中島といい上田原といい、武田信玄は戦で重臣が亡くなることが多いですよねえ。なんでかしら。


生島足島神社

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~生島足島神社読めますか?「いくしまたるしま」です。 ~


伊邪那岐命(いざなぎのみこと)と伊邪那美命(いざなみのみこと)が国生みでお産みになった神様だそうです。いかにも古い縁起の格式ある神社といった風情で、境内には樹齢八百年からの古木がたくさんありました!

古来から歴代の帝のご信仰も厚く、又、真田一族も随分ご寄進などをしているそうです。武田信玄も戦の前に幾度か願文を捧げていて、川中島の前にもご祈願にきています。


信玄殿が甲斐や上野の武将達に、神前で自分に忠誠を誓わせた時の起請文が83通も残っているのが公開されているので見に寄りました。

ずらりと並んでいると複製でも怖いくらいの迫力だった。皆、文字に力がある(起請文は自分で書くよね?まさか祐筆?)。でもね、しょっちゅう誓わされてたみたいですよ。起請文の宛先が信玄殿じゃないのが興味深い。


「天正10年、神流川合戦の前夜へ!」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2015/12/post-483a.html
「名 胡 桃、推参!」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2014/05/post-4ae8.html
「国宝松本城 月見の宴」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2009/10/post-2f34.html


萩真尼

コメント欄をもうけております。公開させていただいてはおりませぬがご感想なりいただければ嬉しいです。画像は、マリコ・ポーロが撮影したものです。

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