激戦!金窪城から神流川へ~天正壬午の乱
・・・前回の続きでござる。
「神流川の戦い」前夜についてはこちらをあわせてご覧くだされば嬉しゅうござりまする。→ 「神流川の戦いの地へ~天正壬午の乱」 http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2016/02/post-dae8.html
~小山川越しに見た、18日に初戦が行われた金窪城。写真の向こうが、神流川をはさんで上野。滝川勢が攻めてきた方角である。~
さて。
我ら現代の名胡桃勢と北条勢の6名は現代の神保原駅に結集。まずは資料を入手しに上里町立図書館に向かいました。
神流川の戦いについての展示をひとしきり観ながら あーだこーだ とべしゃりまくった後、隣接する文化財課の事務所に資料&史料があるかもしれないということでそちらへまわり、たまたま いらした職員の方(文化財課の方?)に名胡桃城衆が質問。なんと、その方が神流川合戦に非常に詳しい方で色々とお話しを伺うことが出来、我らのタイムトリップの旅は出だしから一気にテンションアーップ。 さすが、名胡桃城ガイドさん! 神流川(かんながわ、かんらがわ)の戦いを時系列で追ってみた
▲ 天正10年6月某日(18日か?)
北条氏邦率いる鉢形勢は神流川を渡河!倉賀野方面(群馬県高崎)を目指し出撃する。一方、厩橋から和田(高崎)まで出張っていた滝川勢はこれを迎え討ち、鉢形勢多数を討ち捕る。
↓
鉢形勢は後退。神流川・烏川合流点を渡河して返し態勢立て直しにかかる。
▲ 天正10年6月18日
和田(高崎)を発った滝川一益と佐野宗綱(下野)勢らは、北条氏邦勢を追撃!利根川・烏川・神流川合流点を渡河し、両者は 金窪城 で再び激突する
↓
氏邦率いる鉢形勢は敗退。当主・北条氏直率いる、我らが北条軍団軍団長・氏照、氏規ら本隊の到着を待つことになる。
▲ 翌 6月19日
北条氏政本陣を吉見(埼玉比企)に置き、鴻巣→熊谷→深谷→本庄→石神と進軍してきた、2万に及ぶ北条氏直本隊が氏邦勢と合流。
神流川河畔にて再び滝川勢との激戦が始まる。
総大将・北条氏直は伏兵を配置。松田憲秀、成田氏長らが滝川勢を誘い寄せ、滝川勢が誘い出されたところに後陣を繰り返し繰り返し送り出し一気に撃破 。
(↑群馬県立歴史博物館歴史講座 2006年11月のレジュメより。元データは天徳寺寶衍書状、松平義行所蔵文書某年譜、石川忠総留書など。)
↓
北条本隊の到着によりすでに戦意喪失していた上野国衆は次々と離脱。滝川一益は箕輪城へ撤退する。
↓
北条本隊は倉賀野へ侵攻、摂取。
▲ 6月20日
滝川一益は上野国衆の人質を伴い、信濃小諸城へ入る。人質は途中の碓氷峠で一部を解放。小諸にてもまた一部を解放。(徐々に解放。)
▲ 6月22日
北条氏直は上野を制圧すると同時に、北条氏照・氏邦らと共に信濃の調略にとりかかる。
そして・・
7月12日、先鉾隊は北条軍団軍団長・北条氏照と弟・氏邦。川中島にて上杉軍と対峙することとなる!
まあねえ。
上野国衆にとっては、いかに北条が嫌いでも、滝川一益は結局は遠くへ帰ってしまう人。佐竹も動かなかったですしね。
ましてやこたびの北条は、御大氏政、若当主氏直、北条軍団軍団長の泣く子も黙る北条氏照はじめ、氏邦・氏規ら兄弟衆、松田、塀和をはじめとする歴戦のつわものの重臣たちの総力戦。そんな相手と戦っても、滝川殿が帰ってしまったらなんの益もないですものねえ。
また、北条氏邦ですが、二度に渡る敗退は不覚をとりましたね。
『北条氏康の子供たち』のブログ記事で書きましたが、北条家の序列はシビアです。なんとか挽回せねばと必死の思いだったことでしょうな。 金窪城
~もっと立派な新しい石碑も建っていたが、この方が雰囲気があるし後方の土塁も見えるので、こちらをアップ。~
現代の名胡桃城勢&我ら北条勢6名が図書館を出て最初に向かったのは、18日に激戦があった金窪城。城址で車を降りたとたん・・
へ、へ、へーち(平地)?
平安後期の築城のようなので平地ということはあるのかもしれませんが、それにしても見渡す限り真っ平ら。
と思っていたら、家に帰って、いただいた上里町史中世編(抜粋)のコピーを読んだところ、城の立地は「烏川(神流川)の河岸段丘(海抜58~60m)上に構築」だそうな。
河岸段丘。最近はやりの、どこかで聞いたその言葉。
金窪城は、鎌倉の御家人加治氏が築城とも、新田義貞の築城とも伝わっているようですが、室町後期には山内上杉の家臣斉藤氏の居城でした。斉藤氏は、山内が廃れたあとは北条方となり天正18年をむかえます。
また、城は、天正10年の神流川の合戦でいったん焼失したとのこと。
古く小規模な平城なので全然期待していなかったのに(すみません)、こんなに残っているとは驚きました。
とはいえ一人で行ったらまったく分からなかった。何度かここも訪れている縄張りフェチ?の北条友の深谷衆軍師が、縄張り図を広げ主郭の周囲をグルグル周りながら、堀跡や土塁や家々の間に残るかつての城内の道の痕跡を教えてくれました。
畑仕事をしている方や通りすがりの方が金窪城や神流川合戦のことに非常に詳しくて、こういう土地は珍しく、なんでだろうねえと話していましたが、あるお宅で軍師が道を訊ねて判明。
平成8年に、「金窪城攻防戦400年記念祭」というお祭りがあり、町民こぞって参加したそうです。その時に町に配布された資料 ↓ や武者行列の写真集も見せてくださいました。
それでなのかどうかまでは伺いそびれてしまいましたが、金窪城のある上里町には中山道を辿る歴史の道のような観光コースが整備されていて、城の周りにも順路の案内標識や説明板がとても充実。
「金窪の皆さんは、北条さんと滝川さんのどちらのファンですか?」と名胡桃衆が聞くと、「北条だよ!」
いとうれし 南城跡(陽雲寺)
~養雲寺(南城跡)に残る堀と土塁~
神流川古戦場の様子は前回のブログ記事をご覧くださると助かります。こちらはその後に訪れた「南城」です。古い城跡なのでやはり平地にあり、城というよりは館という感じです。
何ヶ所かに堀が残り、城(館)の外周を囲む土塁が分かります。北東の角には折れの痕跡も見られました。
説明板によると、南城(陽雲寺)は、鎌倉時代にもお寺だったそうです。新田義貞が鎌倉幕府打倒の不動明王を奉納したということが寺伝にあると説明板には書かれていました。
戦国初期に、足利氏の家臣大畠昌広が寺を城としてリノベーション。
大畠氏はその数十年後に滅びたようですが、その後は金窪城主の斎藤氏が寺名を変え帰依しました。しかし、天正10年の神流川合戦時に金窪城と同じく焼失したそうです。
境目の土地は人も城もお寺も波乱万丈ですねえ。
~同じく南城に残る堀跡。外郭、にあたるのかな。~ここに、ひとつ不思議が
説明板には、「天正19年金窪の城主となった川窪信俊が、養母である武田信玄夫人を伴って入封し・・・信玄夫人は元和4年に没した」とありました。現在の寺名「養雲寺」もその夫人の法名養雲院からとったとか。
境内には武田関係の広い墓地エリアがあり、門付きのスペシャルスペースには養雲院の立派な宝篋印塔もありました。
ほう・・。信玄夫人?誰だろう。
三条の方ではないですよね。三条の方は信玄殿より随分前に亡くなっていますし、法名も違います。甲斐の恵林寺にお墓もあります。ほな、油川夫人?違うよねえ。諏訪御寮人のわけはないし、禰津御寮人?違うな~??
皆で少し調べたり想像したりしたところ、川窪信俊殿とは信玄殿の甥っ子なので、養雲院様とは、どうやら「信俊の養母である信玄夫人」ではなく「信玄の弟の夫人で、信俊殿の実母」みたいなような。
すみません。よく分かりませんが、思いもかけぬ土地で武田信玄の名前が出てきたのでチョット驚きました。
●●●
●●●
▲▲▲
朝早くから本拠地を出立し、神流川合戦の地を右へ左へ上(かみ)へ下(しも)へと動き回った我ら名胡桃勢と北条勢の6名。最後は、某スーパーのフードコートにてコーヒ を飲みながら、軍議~
実は、お昼もこのスーパーのレストランでした。お昼を食べながらは神流川合戦の話を。夕方は名胡桃問題の話がメイン。ひとつの歴史的事柄について、坂東の戦国時代に対しての基礎共通認識があっての上で、立場が相対する人たち同士で話をするのって面白いですねえ。
平日が休みなのと、一緒に城跡や史跡を巡ったり歴代話をする仲間があまりいなくてほとんど単独行なので、こういうことは滅多になく、とても楽しかったです。
そんなこんなで滝川一益を坂東より追い払い、国衆に思いっきり嫌われながらも上野を掌握した北条軍。次は信濃・甲斐をゲットするため、同じく信濃・甲斐の地を狙う上杉・徳川との対決!とあいなります。
ポイント地点は若神子、ですかな。
(以上は、平山優著『天正壬午の乱』、齋藤慎一著『戦国時代の終焉』、上里町史中世編、下山治久著『北条氏照文書集』、群馬県立歴史博物館や玉村町の資料などを参考にさせていただきました。)
マリコ・ポーロ
「神流川の戦いの地へ~天正壬午の乱」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2016/02/post-dae8.html
「吾妻の中山城と北条氏邦のこと」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2014/05/post-8f7c.html
「名胡桃、推参!」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2014/05/post-4ae8.html
「関東戦国の大乱~亨徳の乱」展 & 天正壬午の乱
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2011/08/at-e97f.html
萩真尼
コメント欄をもうけております。公開させていただいてはおりませぬがご感想なりいただければ嬉しいです。画像は、マリコ・ポーロが撮影したものです。
| 固定リンク
「05.その他ゆかりの地」カテゴリの記事
- 北条氏康の「関取場」(鎌倉)(2021.01.14)
- 今日6月25日、津久井城開城す(2020.06.25)
- 小田原北条と「八丈島」(2020.05.03)
- 『太田資正と戦国武州大乱』中世太田領研究会(2019.12.27)
- 宗瑞が使ったかもしれない「小野神社の銅鐘」(2019.03.21)
コメント