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2016年2月14日 (日)

神流川の戦いの地へ~天正壬午の乱

以下は昨年の12月に書いたものですが、次回のブログ記事 「激戦!金窪城から神流川へ」と並べたかったのでこちらへ再アップいたしました。


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~利根川の支流、神流川にかかる神流川橋の常夜灯は江戸時代の復元だそう。こちら側が武州(埼玉県上里町)。向こう岸が上州(高崎市新町)。県境である。~


以前から不思議だと思っていたことがあります。北条は何故、滝川一益を放っておかなかったのか。滝川殿は本音は帰りたいのだからサッサと帰っていただいて、それからこっちはこっちで上野や信濃制覇に向かって動けばよかったのにと。

それはやはり、今後の上野掌握のためにも「追いやった」という形にしておかねばならなかったということなのか。それとも、滝川殿がなかなか帰らなかったから、待ってはおれず上野へ出陣しちゃったのか。


神流川の合戦は、小田原北条が終焉に至る最初の取っ掛かりとなった重要な戦いだと思っています。旧武田領争奪戦である「天正壬午の乱」はこの神流川から始まり、その後の領地仕置きがあの名胡桃事件を経て、北条運命の天正18年に繋がっていくのです。

ひとつ承知しておかなければならないことは、この時、まさかあの藤吉郎さんがその後の天下を制すとは日本中の誰もが、いや、お釈迦さまでも気が付くめえでした。


さて・・・
そんなこんなを探るべく(?)、霜月のある日、先年単騎で名胡桃城を訪ねた時に大変お世話になった坂東戦国史友である、名胡桃城ガイド衆と天正壬午(10年)の「神流川の戦い」の地へタイムトリップして参りました。

こたびは2名の北条友の軍師(名胡桃城衆曰く)を得、我ら3名の北条勢は真田勢(名胡桃城衆)3名と武州神保原駅前にてあいまみえることとなりまいた~!


カチャカチャカチャ・・

西暦変換1582年6月18日。 タイムワープ成功しました。code No.681025 上武国境、神流川 。真田勢と接触。これから記録を開始します!

な~んちゃって。。。
タイムスクープハンターをパクッた武将北条友のそのまたパクリです。


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~埼玉上里側(北条側)の「神流川古戦場」の説明板。対岸と比べてショボイが、両軍公平に書かれている。~


天正10年6月2日信長死す!の報は日本中を駆け巡る

6月7日。
坂東で最初にこれを知ったのは、もちろん、厩橋(前橋)城にいた、関東管領に就任まだ3ヶ月足らずの滝川一益。滝川はこれを周囲に隠そうとするも、坂東諸将達には各方面から情報はあっという間に伝わる。

6月11日。
我らが北条も、徳川家康、深谷にいた氏照の家臣・狩野一庵などから続々と報を受ける。


早い、早い。伝わるの早いですねえ。

書状とそれぞれの思惑を乗せた馬が、どれだけ猛スピードで坂東平野を行きかったことでしょう。


この時滝川一益は、上野国衆に信長の死をちゃんと伝え、たぶん追撃してくるであろう北条軍とは自分達だけで戦うと宣言し人質も解放した(関八州古戦録など後世に作られた軍記物)と昔は言われ、一部の地域では今もそう伝わっているようですが、今では研究が進み軍記物などの話からは離れ、そうではなかったとなっていますね。

上にも書きましたが、当初、滝川殿はこれを隠そうとします。しかし、それは無理なこと。そこで滝川殿は上野国衆に対して、

「京の情勢は大丈夫。安心してちょ」としながらも、「でも、北条が追ってきたら支援してね」

との依頼も出したようです。


▲ 一方、我らがアニキ北条氏政も滝川殿に対して、

「我ら北条を疑う心配はないですよ。出来ることがあったら協力するから、何でも言ってね」。

な~んてことを、うわべでは言いながら、裏では秒速で滝川追討と上野奪取に向けての準備を進めます。


あ、そうか!兄上様は、そう言って滝川殿を安心させてサッサと帰っていただく算段だったのか!


そんなこんなの時に、上野国衆の藤田信吉(用土新左衛門尉)が沼田城の権利を主張し滝川に対して反乱を起こします。

藤田信吉こと用土新左衛門のことはそれだけで長~い話になってしまうので、ここに書くのは割愛しますが、なかなか興味深い話です。実は実は、氏邦さんが養子にいった藤田家の傍流で、藤田家を正式に継承したのではないようですよん・・・ごにょ。ご興味ある方はお調べくだされ。


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~神流川を挟んだ上州側(高崎市)の「神流川古戦場」の碑と説明板。立派~。しかし内容は滝川寄り。「西上州軍を率い死闘を展開した」とはあるが、戦の勝敗(結局は負けて敗走した)は書いていない。~


さて、藤田こと用土さんの乱をどうにか終わらせた滝川殿。一路、自領伊勢長島への逃避行が始まることになります。

一人で転びながら、転がりながら、更科六兵衛さんに出会ったりしながら、ひた走った・・のは、映画「清州会議」での物語。実際はあんなじゃないことは皆さんご承知の上での映画の楽しみ方。実際の滝川殿はもっと有能で策略に飛んでいます。


これも上に書きましたが、昔は「滝川一益は人質を解放した」とされていました。しかし、同じく昨今の研究で、道中突破するために人質を連れて行ったことが分かっています。

上野を去る時に一部は解放されましたが、再び佐久・小県で人質を取り、なんと木曽まで連れていかれた人質もいます。真田昌幸の母上などもそのうちの一人ですよね。


木曽義昌に阻まれた滝川殿は、それらの人質を進呈することを交換条件として木曽を通してもらっています。

タイムトリップ中のどこかの何かで読んだのですが(忘れた(^^;)、このことを、「(滝川一益は)人質を保護し木曽まで送り届けた…」になっていたり、土地の古老が見せてくださった武州側の自治体が発行した資料にも、「滝川は人質を全て解放してから去ったので土地の者は感謝した」となっていたのには ドびっくり~でした。

逃げる際に人質を解放するなんて甘ちゃんな戦国武将では、敵地を通り抜けて行くなんてことは出来ませんよねえ。ひたすら藪の獣道を通れば可能かもしれませんが。


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~神流川橋の上から眺めた神流川。なるへそ、浅瀬ですな。~


それにしても…

当時の北関東は北条嫌いだから、我らが氏邦さんが悪者にされるのは理解できるのです。が、いくらそうだったからとはいえ、現代の関東で、430年前にほんの2ヶ月余りしかいなかった西の勢力の支店長だった滝川推しの理由がよく分からんのです。


ほんの2ヶ月余りで(←シツコイ)、その土地にそんなイイコトしたわけもなし。つまり、北条の侵略統治は相当の恨みをかっていたということですな。すみませんでしたねえ。

時は戦国時代。氏邦さんも、滝川さんも、真田さんも、上野国衆も、誰もが家と領地を守り広げるのに必死。特にここは境目の土地だったから、複雑だったのでしょうねえ。


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~武州、北条側の城「金窪城」にある説明板~


伊勢への帰陣を急ぐ、そんな滝川殿へ北条の追撃は始まります。

6月18日。
まずは、上州倉賀野へ向けて鉢形より進軍していた我らが弟くんの北条氏邦勢は、いよいよ金窪原で滝川軍と激突することになります


関東へ嫌々赴任したのに、3ヶ月も経たないうちに信長が死んじゃうなんて。滝川殿は、ついてない人だわねえ。なんだか同情しちゃったところで、次回へ続く・・・


(以上は、平山優著『天正壬午の乱』『武田遺領をめぐる動乱と秀吉の野望』、齋藤慎一著『戦国時代の終焉』、上里町史中世編、群馬県立歴史博物館や玉村町の資料などを参考にさせていただきました。神流川へ参るにあたり資料を送ってくださった名胡桃城衆・八王子衆の方々、ありがとうございました。


「吾妻の中山城と北条氏邦のこと」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2014/05/post-8f7c.html
「名胡桃、推参!」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2014/05/post-4ae8.html
「関東戦国の大乱~亨徳の乱」展 & 天正壬午の乱
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2011/08/at-e97f.html
「鉢形城 籠城中、なう」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2013/06/post-36e7.html


萩真尼

コメント欄をもうけております。公開させていただいてはおりませぬがご感想なりいただければ嬉しいです。画像は、マリコ・ポーロが撮影したものです。

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