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2016年4月26日 (火)

豊島一族の「練馬城」を歩く

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~豊島園の発掘調査で出土した、「文明9年」の銘が刻まれた板碑。練馬区春日小学校に設けられた資料館にて撮った。~


文明9年 (1477年)。
太田道灌 が、名族、豊島泰経と泰明兄弟を滅ぼした年である。


練馬城は石神井城の支城で、石神井城は兄・康経が、練馬城は弟の泰明が居城としていた。弟は、練馬城攻め後の江古田原の戦いで戦死。

 

翌10年。
兄の泰経は平塚城にて再起するも、戦わずして逃走。豊島一族は歴史上から忽然とその姿を消した。


豊島氏の系統は、その後、小田原北条に仕えたともいわれているが、現在のところ、それには様々な疑問や無理があるとのことである。

 

(以前のブログ記事にもう少し詳しく書きました。よろしければ、末尾のリンクからご覧くだされませ。)


さて・・

 

このところ、北条氏政・氏直父子の「イメージ向上推進ひとり委員会」の活動(?)振り回されておりましたが、 チョット一休み。春爛漫のサル一日・・いや、半日、「道灌びいき」の会で、練馬城址と周辺の中世村落跡を辿ってまいりました。


練馬城址の内郭は、現在そのほとんどが遊園地の「豊島園」になっています。園の名は、城主であった豊島氏に由来するものです。

 

豊島区にあるから「豊島園」だと思ってらっしゃる方が多いのではないでしょうか?実は私も最近までそう思っていました。ところがキッチョン、豊島園は練馬区にあるのですわ。練馬区にある豊島氏の城跡にあるから「豊島園」っつうことでござる。


「練馬」の地名の由来

 

遡ること遥か昔、この地で馬を練った(調教した)ことから「練馬」という地名が生まれたと聞いてきましたが、古代の「乗潴 のりぬま」が訛って「ねりま」になったともいわれているそうですね。今回のツアーで初めて知りました。

 

「乗潴 のりぬま」の「潴 ぬま」とは「水たまり=沼」のことだそうで、石神井川をはじめ周囲に沼などの水源が豊富な土地だったのでしょう。


繰り返しになりますが、豊島氏の練馬城は現代の練馬区になります。お隣の豊島区は豊島氏の領地ではありますが豊島氏の城はなく、区名はかつての豊島郡(含む現在の練馬区)からきているようです。

 

秩父氏から出た名族の豊島氏は豊島あたりに居住したから、豊島氏を名乗ったということになりますな。まあ、どこの地の地名の由来もそうですが、色々な説があるようで。


話を戻し。
練馬城&城下巡りの案内は、豊島一族と太田道灌の闘い『決戦』( 2012 星雲社) の著者であり、東京での道灌の足跡を語らせたらそのディープさには ローリング タン=舌を巻く、お馴染み葛城明彦氏です。

 

豊島攻めで太田道灌が最初に攻撃した豊島氏の城はかつては平塚城とされていましたが、今では練馬城とされているそうですね。


この冬、道灌びいきの会では、道灌研究の第一人者である尾崎孝氏のもと道灌状を読む連続講座が行われました。

 

それまで私は道灌の人となりが今一つ掴めないでいたのですが、この勉強会はとても興味深く、道灌状を読む(読んでいただく?)ことによって生の人間道灌の姿を妄想するのに大変助かりました。そんなところで、こたびの練馬城ツアー。より一層面白かったです。


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~上杉謙信も通った鎌倉道より、城を守る東側の谷を臨む。現代の通称「どんぶり坂」。肉眼だともっと深く、急傾斜。右側が内郭、つまり豊島園。左側は湧水がある向山庭園となっている。~


城の北側は石神井川に付き出し、東と西は深い谷によって守られていました。谷は現在も道路として痕跡が残っており(→上の写真)、講師の葛城さんが子供の頃は、子供達が自転車で谷を猛スピードで登り降りする遊び(冒険?)が流行っていたそう。

 

南側には大きな空堀があったと伝わっていますが、発掘調査をしていないため詳細は不明。


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~内郭内(豊島園内だが入場しなくても歩けるエリア)の上り坂。ハイドロポリス(ウォータースライダー)の上あたりまで高さがあったそう(ピンクの線)。~


空堀や土塁などの遺構は近年までほんの少しは残っていたそうですが、豊島園集客のために次々とアミューズ施設が出来て無くなっていきました。

 

(『日本城郭大系』(第五巻 埼玉 東京)に載っている写真で、昭和2年に撮影された土塁・空堀を見ることができると、北条城郭友が教えてくれました。)


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~練馬城とは石神井川をはさんだ台地上(肉眼だと同じくかなりの下り坂)。道灌が陣を張ったと伝わっている、現代の通称「トーカン山」。向こうに練馬城の遊具パイレーツが見える(ピンクの)。~


出土品には、盆石や碁石などがあり、豊島氏が洗練された生活をしていたことが伺えます。また、堀底から出てきた礫には被熱痕があり、豊島氏攻め時に道灌が火を放ったという記録の裏付けのひとつとなっています。

 

馬出も遊具ハイドロポリスで消滅。練馬城の馬出は、馬出としてはほぼ最古の時代のものと思われているそうです。豊島氏の城はかなり最先端の城だったと言えるかもしれないとのこと。


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~練馬城の出城跡。現代の通称「栗山」。上に書いた「練馬」の地名の元となった馬の調教が行われていた場所・・と伝わっている。~


豊島園は廃園が決まっており、その後は災害時の避難所も兼ねた「練馬城址公園(仮名)」として残してほしいと住民の方達の希望が強いそうです。

 

城址公園とはいえ残念かなその遺構は失われていますが、それでも、かつてここに城があったという事実は残ります。「豊島園跡」という遊園地名を残すよりは良かったと、一歴史ファンとしては思うのでありますが、遊園地好きの方達からしたら豊島園の名前を残してほしいと願うのでありましょうね~。


練馬城周辺の豊島氏と太田道灌の詳細を知りたい方は、ぜひ、葛城明彦氏の『決戦』をご覧くださいませ。地図もバッチリ出ていてガイドブックとしても助かります。


太田道灌の小磯城攻めの芝居があります

 

先のブログ「4-5月の気になる・・」でもお知らせしましたが、練馬城攻めに遡ること約1ヶ月。道灌は長尾景春の乱で景春方についた越後氏攻略のため、小磯城に向かいます。その芝居が、現代の小磯城にて行われます。以下。

 

日 時: 4/29(祝・金) 14:00開演
ところ:大磯城山公園(小磯城跡)


太田道灌vs豊島一族の「江古田原古戦場」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2013/09/vs-c7d7.html
講演 「太田道灌と豊島一族」at 日比谷図書文化館h
ttp://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2013/05/post-ec38.html

家康以前の江戸は本当に「寒村」だったのか?
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2015/09/post-0a2f.html
岩付城を築いたのは、太田か成田か?
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2015/08/post-e9a4.html
道灌伝説の「山吹の里」を歩く
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2015/04/post-f2fa.html


萩真尼

 

画像は全てマリコ・ポーロが撮影しました。コメント欄をもうけております。公開させていただいてはおりませぬが、ご感想なりいただければ嬉しいです。

 

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