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2016年5月26日 (木)

家康の側室達ゆかりの、小田原北条の寺々

家康殿のご側室達とは・・

正木の娘 お万の方 と、太田道灌玄孫 英勝院(おかじの方) のことにござります。


さて、
この春、障子堀が出てきた百姓曲輪の妄想に浸っていた頃のこと。その日も百姓曲輪に立って妄想すべく、駅から百姓曲輪に向かってスタスタスタスタと歩いていました。

道の両側には、新旧(北条時代~江戸時代)取り混ぜていくつかのお寺が並んでいます。お寺は大好きなのですが、小田原ではお寺にはあまり寄らないようにしているため、こちらのお寺も一度もお参りしたことがありませんでした。


この日はチビットだけ時間があったので、北条時代には確実にあっただろうと思われるお寺2つ (時間がチビットあるとはいえそんなには無いから2件だけ)に寄ってみることにしました。

事前にまったく調べていませんので、頼りはお寺の説明板とスマホの情報だけというなんとも心もとなきものなり。


光秀山「浄永寺」

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始まりは、弘安3年(1280)。時の執権北条時宗の家臣、風祭の大野之亮光秀が日蓮上人に帰依し自邸に法華堂と七面社を建立。

永正15年(1518)、小田原北条二代、氏綱の伯父である日形上人の時に現在地に移り、氏綱が堂宇を再興。

と伝えられていると、お寺の説明板にありました。


風祭大野氏・・。風祭氏とは鎌倉時代の地頭ですな。

また、氏綱の伯父・・って誰?母方ですかね?


何はともあれ、
おお、やった!北条に思いっきり縁があるお寺ですねえ。

浄永寺は北条の厚い庇護をうけたようで、境内の七面堂の前には氏康の書状が石碑となっていました。出陣前に戦勝祈願をしたところ勝利し、それに感謝した内容でした。


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~花押付き。素敵~

境内をウロチョロしていたら、お寺の方らしき方が通りかかり、一緒にいらした檀家さんだか石屋さんだかに、この文書のことを私に「説明してあげてよ」とおっしゃり去っていかれました。

親切~。でも、なんで北条ファン(歴史ファン)だとお分かりになったのだろう??まあ、檀家でなければ、そうだろうということでしょう。


書状は6月8日付けですね。なんの戦でしょうね。

そして、宛名の日源上人。浄永寺は、江戸時代には、紀伊大納言頼宣の母である養珠院殿の繋がりで紀伊藩(和歌山藩)の祈願所になっていたそうです。


この養珠院殿は、私が追っかけをしている氏綱公の正室の養珠院とは別人です。のちに家康の側室となった、正木一族の養珠院殿、お万の方のことです。何故、お万の方ゆかりの紀伊藩の祈願所だったのでしょう?

お万の方は、伊豆の田中氏の娘(兄は板部岡)が北条氏尭(氏康たちの早世した弟)の養女となって正木に嫁ぎ生まれた子だと言われていますね。正木さんは人質として小田原で暮らしていましたから、お万の方は小田原で育ったようです。日蓮宗を深く信仰された方のようですから、浄永寺にも帰依していたのでしょうかねえ。


このへんのことは、もうとても調べきれませんので、ご興味ある方は是非お調べくださいませ。と、人に振る

以前、お万の方開基、里見ゆかりの、東京の「仙壽院」へ行った時のブログ記事を末尾に添付いたしました。まだ全然分かっちゃない頃に書きましたので、そのへんのところ甘~い目でご覧いただけると助かります。


北条ゆかりのお寺を訪ねて、お万の方へ妄想が広がるとは思ってもおらんかったぞえ。


當知山「本誓寺」

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~境内より本丸方面を臨む~


創建は永正4年(1504)。開基は、今川氏親の家臣で鎌倉の藤枝という一族のどなたからしいです。

なるへそ~。
氏親殿の娘であり、氏康の正室となった瑞渓院様の最初の菩提寺「願修寺」も、すぐ近くですな。(瑞渓院は籠城中に亡くなったので早雲寺には葬れなかった。)


もちろん北条時代はそんな所縁もあって、歴代当主に庇護されていたことでしょう。小田原が敗れたあとは、当時の住寺大誉上人も他のあまたのお寺や僧侶達と同じく江戸に移ったそうです。


境内に人影はなく、ヒソ と静まり返り、本堂の扉も ピタ と閉ざされていました。

まったく分からないので、スマホで検索してみると、ある方のHPに少々興味深いことが書かれていました。ご許可をいただいていないのでここにリンクするのは控えますが、それは大誉上人が江戸に移りしのちのこと・・


▲ 江戸に移った本誓寺六世の大誉上人は家康の庇護をうけるようになりますが、上人には、同じく小田原から連れてきた小僧のお弟子さんがいました。それが、北条家臣の大導寺政繁と遠山の娘との間の三男だというのです。▲


大導寺は小田原戦のあと、責任をとらされ秀吉に切腹を命ぜられた者のうちの一人です。息子はそのまま小田原に居づらく江戸へ付いて行ったのでしょうか…。お話しはまだ続きます。


▲ この弟子のことを、家康殿が側室の おかじの方(英勝院)に話します。

英勝院様とは太田道灌の玄孫になりまして、北条重臣の遠山の娘(大導寺に嫁いだ娘の姉妹)が北条氏康の養女となって太田に嫁いで生まれた子のことです。

英勝院はおっしゃいます。
「そりゃ、わらわの伯母の子にございます!びっくりポン!」


英勝院は大誉上人を開山として江戸本誓寺を開基しました。大道寺政繁と太田道灌ゆかりのこの弟子は、弁誉上人として江戸本誓寺の二世となりましたとさ。▲

このお話しの流れの真偽は私には分かりませんが、『江戸浄土宗寺院寺誌史料集成』(宇高良哲編、大東出版社)にあるようです。ご興味ある方はどうぞお調べくださいませ、と再び人に振る


面白いですねえ。「道灌びいき」の会にいながら、小田原を歩いていて英勝院に行きつくとは想像もしていませんでしたよ。

江戸本誓寺は江戸時代の区画整理やら火災やらにより、現在は深川にあるそうです。


あっ

話は小田原へ戻りますが、小田原陣図(松平文庫所蔵)にある、「ホンセン寺」って、この本誓寺のことですかっ?!

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~ピンクの矢印。(赤字の報身寺は北条氏照の本陣が置かれたお寺。)~


小田原の本誓寺には、開基藤枝氏の守り本尊である13世紀の阿弥陀如来像が二体(本尊・脇侍)がおわすそうですね。県指定文化財。

拝見できなかった。残念。


何も下調べせずにお参りした小田原の2つのお寺が、ともに家康殿のご側室ゆかりのお寺であったとは・・。人の歴史はどこまで繋がるのかと感心してしまうと同時に、小田原北条が坂東に広げ、次の為政者の時代へ残した人脈の凄さに途方にくれた一日となりました。

調べたら、もっともっとあるんだろうな~。ご興味がある方は是非どうぞお調べくださいませ。と、人に振る。。。


南総里見 5 「戦国人たちは消えてゆく」(仙壽院)
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2010/03/post-c2ec.html
「小田原にある謎の城跡 花岳城」(城源寺)
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2013/05/post-3b70.html
「北条氏康ご正室 瑞渓院の二つの菩提寺」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2011/03/post-653a.html

「小田原攻め、北条氏照の本陣 報身寺」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2014/12/post-33dc.html
「小田原藩相馬家、菩提寺」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2011/05/post-cd40.html
「北条崎姫と香沼姫、エピローグ」(高長寺)
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2010/06/post-b0c7.html
「香林寺の開基は、氏綱公ご正室?為昌殿ご正室?」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2010/10/post-b125.html


萩真尼 こと マリコ・ポーロ

画像は全てマリコ・ポーロが撮影しました。コメント欄をもうけております。公開させていただいてはおりませぬが、ご感想なりいただければ嬉しいです。

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