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2016年10月12日 (水)

北条五代の娘たち ① 今川から戻った長松院様

                                                                                                       by マリコ・ポーロ

シリーズ 北条五代の娘たち
【初代・伊勢宗瑞(北条早雲)の息女たち~本編】

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~秋になるとコスモスが咲き乱れる石垣山一夜城(2011.11)。眼下に望むは相模の海と小田原の城。小田原で生まれ育ち、海が見えない土地に嫁いでいった姫たちは、さぞかし海が懐かしかったことでしょう。~


さて、当見聞録も8年目に突入いたしました。いつもご覧くださいまして誠にありがとうございます。


前回のブログ記事にも書きましたが、このところ、北条の血をひく女人達が確かに生きていた証を探して歩いております。実際に現地に立って感じた 姫君たちの残り香 を皆さまにお伝えできれば幸いです。

まずは初代当主の北条早雲こと伊勢宗瑞の娘たちの足跡をたどりたいと存じまする。


wine 宗瑞(早雲)の娘たちと、息子の宗哲(幻庵)

宗瑞には、今のところ、娘が2人いたことがわかっています。ふたり共に母は側室の善修寺殿 で、幻庵とは同母の兄弟姉妹です。

伊豆修善寺にある幻庵の菩提寺「金龍院」の位牌によると、上から長松院、幻庵、そして下の妹の青松院の3人となるようです。(金龍院をお参りした時のことについては次回。)


北条家五代にわたる重鎮中の重鎮の長老幻庵は、ご存知の通り二代当主である氏綱の腹違いの弟です。

氏綱の母は正室の南陽院殿。京の小笠原家の姫です。幻庵の母である善修寺殿(ぜんしゅうじ)の出自は、伊豆狩野氏だという説が現在では有力のようです。


狩野氏は伊豆のど真ん中、狩野川一帯を有する平安の昔から続く名族です。伊豆衆のリーダーともいえる存在で、宗瑞の伊豆支配に対しては最後まで抵抗しました。

ついに宗瑞に下ったあと娘を差し出す(差し出させられた?)ということは、あり得たことだと思います。また、幻庵の伊豆での屋敷は修善寺の大平あたりだったそうで、となると、お母さんの実家の土地を受け継いだということなのかもしれません。(大平を歩いた時のことも次のブログ記事で。)

それに、法名の「善修」は「修善寺」と似ているし・・・なんちて。


あっflair

善修寺殿の息子である幻庵の生まれは明応2年説が主流ですが、狩野氏が宗瑞に降りたのが明応5年ですから、もし善修寺殿が狩野氏だったら、幻庵が明応2年に生まれたということはないですな。もっと後です。


pen 幻庵の母と妻がテンコシャンコ

かつて「善修寺殿」はミセス幻庵だといわれていました。そして、幻庵ママは「栖徳寺殿」だとされていました。


どうやらそれは、「栖」が「善」よりかなり早くに亡くなったため、先に亡くなった「栖」がママで、「善」はミセスだと思われたからのようです。位牌や過去帳などからの研究で、今は逆。ミセス幻庵は「栖」、ママが「善」、ということだそうです。

史跡の説明板や小田原のHPはまだ以前のままですし、研究者の方達の昔の著作なども当然その当時の説で書かれていますから、そこらへんからの拡散が悩ましいところですねえ。


一緒にしては大変おこがましいですが、それは当ブログ記事も同じこと。気が付いた記事には加筆をしていますが、いちいち全部は出来ませんしねえ。(だからブログに書かれていることは信じちゃアカン。)


ちなみに、
ミセス幻庵「栖」は天年間没。幻庵ママ「善」は天正2年没 wobbly。さすが幻庵ママ、長生きですな。


Img20160912_203946_2
~小田原久野。広大な幻庵屋敷跡。その要害ぶりは、「久野城」と呼ばれていた。~


長生きといえば、やっと本題。話を宗瑞の娘たち(幻庵の姉妹)に戻し・・。

これが驚いた!


wine ひとりめは、長女の長松院殿 (ちょうしょういん) さま

(夫) 今川の三浦氏員
(母) 善修寺殿(側室)
(同腹の弟) 北条幻庵 こと 宗哲


長松院は、今川の三浦氏へ嫁ぎます。駿河三浦氏は今川家の重臣であり、今川の客分から御一家衆となった当時の宗瑞家と三浦の縁組は、今川当主の薦めもあったことかもしれませんね。

また、長松院の義兄弟(腹違い)である 氏広 も葛山へ養子に入り家督を継ぎ、今川の御一家衆になって駿府に住んでいますから、長松院さまも安心だったことでしょう。御当主であるイトコの氏親さまも、まだご健在の頃かな。


さて、その後何十年も経ち、北条の当主も何代も引き継がれ領域も益々広がった、その頃・・

この長松院の名前がまた表れます。


それは永禄12年。
そう、武田信玄の駿河侵攻の時です。

今川氏真一門は駿府を捨て掛川城に落ちます。その掛川城も家康に攻められ降伏。氏真らは妻の実家である北条に引き取られることとなります。


一行が蒲原城まで来た時、北条四代当主氏政は大伯父上の幻庵殿へ書状をつかわします(幻庵も srill 健在)。

「(承っていた)三浦しんぞうが、きのう蒲原に着きましたよ~」


「三浦しんぞう」とは、氏政の大伯母上であり、長老幻庵の姉上である、三浦に嫁いだあの長松院のことだそうです。

氏康の娘(氏政の妹)である早川殿は今川氏真の正室で、氏真と共に逃れてきていましたが、なんと長松院も一緒だったのですね!


ドびっくり~coldsweats02
まだ生きてたんですねえ・・・(失礼だ)

長生きですねえ。さすが幻庵の姉。さすが善修寺の娘。


考えてみると、長松院さまは、花蔵の乱も、河東一乱も、三国同盟も、義元殿の最後も、武田殿の駿河侵攻も、まさに今川でナマで見た方なんですねえ。

寿桂尼さまとは同年代。気に入られていたのかな~。う~ん。お会いしてお話しが聞きたいものです。


長松院が高橋某に再婚したという話もありますが、このように晩年まで「三浦しんぞう」と呼ばれていましたので、再婚説はないでしょう。あ、いや!80近くなって再婚!?まさかね。

ということで、三浦家の御新造さん長松院は、弟の幻庵の庇護の元で晩年を過ごしたようです。


子供達はどうしたのでしょう。子供と言ってもかなりの年齢ですが、氏直に仕えたとも何かで読みました。その後はどうしたのでしょう。徳川に仕えたのかな・・。

(加筆
さっき読んでいた黒田基樹氏の本の今川氏真のところに、幻庵が氏真の家臣三浦義次に所領を与えた文書のことが書かれていました。

この三浦さんが長松院の家族かどうかは分かりませんが、幻庵は親を亡くした若い一族や、他家から戻ってきたり避難してきた者たちの庇護をすることが多いですし、また、かつては今川との取次でしたから、その繋がりで、家臣達を召し抱えたりしたのでしょう。)


今川から戻った長松院が暮らしたのは、小田原久野の幻庵屋敷のあたりなのか、それとも幻庵の領地であり菩提寺のある修善寺大平あたりだったのか・・・それは、分かりません。

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~長松院さまもお参りしたであろう修禅寺(地名は修寺、お寺は修寺)~


tv 余談

三浦氏にも色々な流れがあるようで、この三浦さん一族かどうかは分かりませんが、大河「武田信玄」の再放送を観ていたら、義元が亡くなった後のシーンに三浦さんは庵原さんと一緒に出ていました(何度か観ていますが今まで気にとめなかった)。


wine もう一人の宗瑞の息女、青松院 (せいしょういん?) さま

(母) 善修寺殿
(同腹の弟) 北条幻庵 こと 宗哲
(同腹の姉) 長松院殿


残念。
法名以外はまったく分かりません。早くに亡くなったのかしら・・。


Img20160912_204057
~小田原の幻庵屋敷跡に残る池(のごく一部?)。残っている土塁が分かり易い。~


horse 宗瑞の子供たち

こうして書き連ねながらつらつら考えていたら、嫡男(氏綱)こそ伊豆衆の堀江北条の娘をもらいましたが、次男(氏広)は葛山へ。長女も今川の三浦へ。末っ子の幻庵宗哲の嫁は葛山から(たぶん→次々回の「京福寺での葛山妄想」をご覧くださいまし)もらっていますな。

いいのか今川系ばかりで?とも思ってしまいますが、まずは地固め。勢力拡大のための大物他家との華麗な縁組は、次代の氏綱からとなります。


幻庵殿のことについても7年間たくさん書かせていただきましたが、幻庵の最新のブログ記事と、今川時代の駿府を訪ねた時のことにてござります。

北条幻庵の子息の菩提寺「三島 祐泉寺」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2016/08/post-200a.html

早雲の姉と北条氏規の「駿府」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2011/01/post-5a23.html
駿府 「臨済寺」の特別公開
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2015/10/post-2e50.html
今川時代の駿府 「吐月峰 柴屋寺」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2015/11/post-7dec.html

北条五代の娘たち ② 太田資高 室~二人の浄心院
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2017/01/post-3f58.html
北条五代の娘たち ③ 吉良頼康 室~上杉謙信の侵攻と頼康の代替わり
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2017/02/post-9be1.html


horse あとがき三つ鱗

▲ 今回 参考にさせていただいたのは主に、
黒田基樹氏、下山治久氏、湯山学氏のご著作。三島祐泉寺さんHP、関連各地の町史、資料館・博物館発行資料、関連神社仏閣のご縁起・ご由緒などです。


▲ 北条当主の息女たちについてあらためて書く理由2つscissors

‐ 北条関係の資料館や博物館やお祭りなどに表れるのは、「北条の女人たち」とはいえ、それは「北条に嫁いできた他家の」女人たちであって、「北条の血をひく」女人はほとんど出てこないことが残念だったから。

‐ 「北条が大河にならないのはヒロインがいないからだ」とよく言われますが、北条にはドラマチックで波乱万丈な人生を送り、その任務を果たそうとした女人が多いことを知ってほしかったから。


▲ 女人たち妄想するにあたって、以下の3つを念頭に置きたいと思っておりまする。
1) 現代に繋がる家伝には立ち入らない。触れない。
2) 各地に伝わる姫伝説は書かない。←元々あまり興味がにゃい。
3) 神社仏閣のご由緒ご縁起や史跡説明板などは、昨今の研究に基づく変更がなされていないものが多いので、参考にとどめる。


では、こたびはここまでに。
次回へ続く・・・


萩真尼 こと マリコ・ポーロ

cat 画像は全てマリコ・ポーロが撮影しました。コメント欄をもうけております。公開させていただいてはおりませぬが、ご感想なりいただければ嬉しいです。

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