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2017年1月 5日 (木)

北条五代の娘たち ② 太田資高室~江戸城を取り戻せなかった太田資高

by マリコ・ポーロ

シリーズ 北条五代の娘たち
【二代・北条氏綱の息女たち、太田資高室】



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~北条氏綱の銘と花押がある唐草螺鈿の鞍。ただ今、江戸博の「戦国時代展」でも展示。(↑画像は、馬の博物館「ススメ!小田原北条氏 2011.10」を観に行った時にいただいたポスターより)。~


昨年後半より足跡を辿り始めた「北条の血をひく女人達」。今川系との結びつきが濃密だった初代伊勢宗瑞まわりの女人達に比べ、勢力を広げていこうとする二代氏綱の代になると、娘たちの嫁ぎ先も当然の如く広がります。

ところが、その夫君も含めて人生の終わりまでたどり着けなかったり、複数の姫の言い伝えが錯綜していたり。脳内カオス状態にござります。


wine 氏綱の娘たち

「氏綱の娘」ということは、つまり、氏康の女兄弟ということになりますな。

二代氏綱は、少し地味な印象を持たれる当主かもしれません。しかし、氏綱がいてこそ北条が百年続いたとも言われる名当主です。北条ファンでは、氏綱を、「憧れる」というよりは「リスペクト」している人が多いですよねえ。他の当主を呼び捨てにしていても氏綱だけは、氏綱「公」と呼ぶ人もいます。


氏綱には息子は4人(氏康・不明・為昌・氏堯)しかいませんが、姫は多いです。6人いるとされています。昔は5人でしたが、最近は堀越六郎に嫁いだ山木大方と、吉良頼康に嫁いだ崎姫は別人となりましたそうなので、1人増えました次第です。


① 浄心院→江戸太田の太田資高室
② 大頂院→3代氏康のバディ、北条綱成室
③ 崎姫(法名不明)→吉良頼康室
④ 芳春院→古河公方、足利晴氏室
⑤ 高源院(山木大方)→今川の堀越六郎室
⑥ ちよ(法名不明)→葛山氏元室

こんなにいるのだよ、2代目の娘だけでも…。北条の血をひく女人達の足跡を訪ねようと思う!な~んて軽い気持ちで表明(?)しましたが、いざ始めてみたら、まーあ大変。体力と軍資金が許す限りでゆるゆると。


それでは、どなたからまいろうかにゃ。②大頂院、④芳春院、⑤山木大方については今まで随分と書き散らかしてまいりましたし、わらわ現在「道灌びいき」の会にお世話になっていることでもありますので、まずは、江戸太田に嫁いだ①浄心院様から。


pen加筆:2017.3.16
その後、二人の浄心院についてもう少し調べたところ驚くことが分かりました。こちらをご覧くださいましたら幸いです。http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2017/03/post-aaec.html


wine 浄心院殿日海
(夫) 太田資高、江戸太田


Img20131023_180717_2
~太田資高開基「本行寺」。当時は江戸城内平河口にあったが、江戸時代に現在の日暮里へ移ったそう。~


いきなりですが、捜索願ひ!

この太田資高さんと、浄心院様のお墓はどこにありますか?


浄心院殿日海の夫である資高の祖父は、あの太田道灌です。ややこしいので浄心院関係だけでいうと、道灌の息子の代に、太田さんちは2つに分離独立します。

兄が、俗にいう江戸太田。弟(イトコとも?)が岩付太田です。北条は、3代氏康の代になると江戸だけではなく岩付にも娘を嫁がせたりもしますので、脳内は余計にカオス状態となります。


現代の太田家のご当主を存じ上げているので、なんだか太田さんちの個人情報に触れているようで気が引けてしまいますがcoldsweats01、話を493年前に戻すと…。


1_2
~現代の品川プリンスシネマへ上がる坂道。氏綱の江戸城奪取時、曽我(上杉方)vs 多米(氏綱方)の「高縄原」はこのあたりと伝わる。~


大永4年正月、扇谷上杉の重臣ではありながら岩淵の砦で不遇をかこつていた(たぶん…)太田資高の内応により、北条氏綱は関東の流通の要であった江戸城を手に入れます。資高は、江戸・小机などの知行を安堵され、江戸衆の中では最大の領地を有します。そして、氏綱の娘を娶ることとなります。

しかし、資高は江戸城代などになったわけではありません。資高は城外の道灌ゆかりの香月亭に置かれ、城内には氏綱の重臣遠山や富永が入ってきます。香月亭は、城内ではなく外郭。北条に付き、父祖の城を取り戻せると思ったでしょうに、置かれたのは外郭。資高の複雑な心境が分かるような気がします。


また、資高には先妻の子である長男がいましたが、北条の浄心院が生んだ康資が跡取りとなります。そのことも、次代の里見への離反へ繋がる要因のひとつだったのかどうか…?

次代の康資へは、遠山の娘が氏康の養女となって嫁いでいますよね。2代続いて北条は江戸太田家との結びつきを図りましたが、こちらの女人については、「遠山の血をひく女人」であって「北条(当主)の血をひく女人」ではないため、こたびは足跡を辿ることはいたしませぬ。


012
~渋谷城跡といわれる金王八幡宮。高縄原から上杉を追った小田原勢は、渋谷方面へ迂回し江戸城へ押し込んだ・・と伝わる。~


そこで、上記の「捜索願ひ」です。

資高・浄心院、夫婦そろって菩提寺(お墓)が分かりません。没年は分かっているのに。息子の康資が安房へ移したのかしら。


資高はターニングポイントであった、江戸城のあの内応から23年後にその生涯を終えます。たぶん、そのまま江戸城の城将として、江戸城(またはその周辺)で亡くなったと思います。正室の浄心院は、その3年後に亡くなります。

浄心院も夫と同じく…と言いたいところですが、ここで疑問の三つ鱗。


▲ 疑問-1 浄心院は「比丘尼」なのか

太田家記には「浄心院殿日海比丘尼」とあるようです。法名から察するに日蓮宗ですよね。

大概は、夫が先立って剃髪してもそれは形だけです。なぜ彼女だけ比丘尼なのでしょう?「比丘尼」ということは、正式に修行したお坊さんですよね。いつの時点で仏門に入ったのでしょう。

分っからんのう…。


▲ 疑問-2 「浄心院日海」はもう一人いたcoldsweats02

Photo
~カオスは、祖父(資康)と孫(康資)の名が似ていることから始まっている?~


(浄心院殿日海-A
私が足跡を辿っている浄心院様は、北条氏綱の娘です(『太田家記』にあると黒田氏の本より)。


(浄心院殿日海-B
もう一人の浄心院日海は「比丘尼」ではなく「禅尼」と書かれています。資高のパパ(つまり道灌の息子)である資康の妻だというのです。

安房の「正文寺」という誕生寺の末寺に位牌があるそうです。誕生寺は、里見へ付ついた資高の息子(康資)のお墓があるお寺です。横須賀の、三浦氏系図にも「浄心院殿日海」の名前があるそうです。


↑ のともに家伝と寺社の御縁起ゆえ参考までにととどめたいとは思いますが、資康の妻というのは、宗瑞によって滅ぼされたあの三浦道寸の娘だと言われています。そのため資康は三浦について、新井城の戦で死んだと伝わっています。

ということは、Bは、資高のママということになります。姑(B)と嫁(A)が、まったく同じ戒名ってことがあるのでしょうか?


また…もし浄心院が  だとしたら、その位牌がなぜ安房にあるのでしょう?孫の康資は確かに北条から離れ安房の里見へ行っていますので、お祖母さんの菩提を弔ったのでしょうか?

康資が弔ったのは、母である浄心院‐ だということはないでしょうか?


そこで…
安房の館山市立博物館のHPを見てみました。そこには、道寸らが北条に滅ぼされた時、息子の時綱が安房に逃れてき た…とありました!ということは、浄心院日海が B だとしたら、その時、兄(または弟)の時綱と一緒に落ちたのでしょうか?


それと…
資康の墓と伝わるものがある横須賀の大明寺の御縁起には、「戦国時代には太田氏の帰依をうけ・・」とあります。三浦のお寺で戦国時代に太田系となると、やはり B の線が強いのでしょうか?いや、 A ですか?


うぎゃー。もう、分からん!
読んでくださっている方もそうでしょねえ?


ふと思い出しましたが…
三浦さんとこには「三浦浄心」なる、新井城から逃れ、後に北条の家臣となった一族の方がいますね。小田原にも籠城して、『北条五代記』を記している、あの人です。「浄心」はよくある法名ではありますが。

なにか、どこかで、色々と錯綜してないですかね?sad


▲ 疑問-3
岩槻領七里の「大園寺」の御縁起に資高の名を見つけました。

そこにはこうあります。

~太田新六郎資高(大崇院昌安道也居士、永禄11年1568年寂)、および太田源五郎康資の室(陽光院芳林妙春大姉、永禄10年1567年 寂)を開基大檀那とするといいます。~


・資高は江戸太田だから、岩付の領域である足立郡七里にあるお寺は関係ないのでは?
・資高の没年は天文年間。永禄ではない。
・法名も違う。この法名は、岩付太田の氏資のもの。資高の法名は不明。
・康資は資高の息子だが、その室の法名は「法性院」。没年は天正時代。
・「芳林院」は、岩付の氏資の母上(三楽斎の正室)。

世代も、一世代違いますし、資高は江戸城奪取に協力したから、氏綱が協力関係をより堅固にするために娘を嫁がせたはずなので、岩付領の七里とは関係ないですよね。


これまた分っからんのう。

江戸の太田資高に嫁いだ北条氏綱の姫、あなた様はいったい誰なのですか?


次は、③吉良に嫁いだ崎姫の足跡を辿ります。



「北条早雲こと伊勢宗瑞の娘たち~今川から戻った長松院様」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2016/10/post-3132.html
「北条五代の娘たち  ③吉良頼康 室~上杉謙信の侵攻と頼康の代替わり
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2017/02/post-9be1.html

「北条幻庵の伊豆の屋敷と、幻庵・長松院の菩提寺」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2016/10/post-df1a.html
「北条幻庵の妻は、葛山氏か?」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2016/11/post-d602.html

「ついに分かった!北条氏照ご正室の最後と、氏綱正室の出自」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2014/05/post-f9c7.html
「玉縄城主・北条為昌の菩提寺で、ビビッときた氏綱ご正室の出自」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2011/10/post-2c49.html
「前編~玉縄の北条為昌&氏綱ご正室・養珠院の謎」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2011/11/post-47de.html
「後編~」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2011/11/post-2d95.html


萩真尼 こと マリコ・ポーロ

cat 画像は全てマリコ・ポーロが撮影しました。コメント欄をもうけております。公開させていただいてはおりませぬが、ご感想なりいただければ嬉しいです。

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