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2017年2月 5日 (日)

北条の血をひく女人達③吉良頼康室~北条氏綱の息女たち

【上杉謙信の侵攻と吉良の代替わり】


北条早雲こと伊勢宗瑞の息女たち、北条氏綱の息女たち~その1浄心院(太田氏高室)に続くは、吉良頼康に嫁いだ崎姫の足跡を辿りたいと思います。


Img20161203_184607_2
~吉良の重臣、大平氏の奥沢城跡といわれる九品仏浄眞寺の紅葉。背後は土塁(2016 秋)。周囲には堀跡も残る。しかし、ここの姫が崎姫にイジメラレタというのは伝説に過ぎない。~


wine 崎姫と山木大方(高源院)は別人だった

謙信の侵攻と吉良頼康の代替わりとの関連性の妄想に入る前に、まずは崎姫と山木大方(高源院)のことに触れなければなりませぬ。当ブログでも、しつこく&こってりと書いておりますので、ここでは簡単に。


かつては、崎姫=山木大方とされてきました。その後研究が進み、崎姫と山木大方は別人で、姉妹だということが分かってきました。


そして、


かつては、今川(堀越)六郎に嫁いだ山木大方が、六郎さん亡きあと、忘れ形見の氏朝を連れて吉良頼康に再婚したとされていました。しかし、上記のように、吉良頼康室の崎姫と山木大方は別人ということなので、

・吉良頼康室=崎姫
・山木大方(高源院)は今川から戻ったあと再婚せず未亡人のままで、六郎さんとの間の子である氏朝は、一人で吉良に養子に入った

つまり、氏朝にとって崎姫は叔母さんであり、義母でもあるわけですな。


Photo
~北条当主の直系ではないのでこの図には書かなかったが、山木大方の息子の氏朝には、幻庵の娘の鶴松院が嫁いだ。次代当主頼久の母である。~


どうやら、吉良頼康室 崎姫、氏朝母 山木大方高源院、そして、氏朝に嫁いだ北条幻庵の娘 鶴松院 の3人は、江戸時代を通して、ごちゃ混ぜ&混然一体&錯綜されながら、寺社やゆかりの土地で語り継がれてきたようです。

崎姫と山木大方のことを書いた以前ののブログ記事(のひとつ)を文末にリンクしましたので、ご覧くださりますと嬉しいです。


さて、ここで早速3つの疑問が生まれてしまいました。それは、吉良への養子縁組と、謙信の小田原攻めとの関係です。


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吉良頼康→北条の氏朝への代替わりは、何故行われたのか?

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永禄4年の謙信侵攻時、何故頼康は玉縄へ移されたのか?

horse ③
頼康室の崎姫はどこにいて、どうしていたのか?


実は、氏朝が吉良へ養子に入ったのが永禄3年12月。家督を継いだのは翌年2月で、これは頼康の生前。しかも頼康は40才になるかならぬかです。﨑姫と頼康には、分かっているだけでも3人の男の子もいました。

当主も生きていて嫡子もいるのに、なぜ北条からの養子が当主となったのでしょう?その頃は、特に吉良と北条の関係には問題はなかったはずです。むしろ吉良殿は、北条では別格扱い。大事にされていたように思われます。


それどころか北条は、はるる(足利晴氏)とよっしー(足利義氏)の間に、「臨時的な公方」として吉良頼康を擁立しようとした」可能性があるそうなのです。

その根拠は、
・ 天文17~21年までの間、頼康が「左兵衛佐」の官途を名乗ったこと。「左兵衛佐」は、代々鎌倉公方家が名乗るもの。
・ 頼康がこの官途名を名乗る直前に、はるる が北条氏と敵対していたこと。


つまり、
北条は頼康を、はるる との関係断絶~よっしー の公方就任までの間のプールとしていた可能性がある、ということだそうです。(谷口雄太『武蔵吉良氏の歴史的位置』(『千葉史学』57号2010年)より。)


そして頼康殿は、
氏朝に家督を譲った年の暮に亡くなりました。


Photo_2
~吉良頼康が熊野大社を勧請して創建したと伝わる、等々力の玉川神社~


3つの疑問について、妄想に浸ってみました。

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吉良頼康→北条の氏朝への代替わりは、何故行われたのか?


▲ たんなる病だった

頼康殿は、ずっと病だったのかもしれません。でも嫡子がいるよね。それに、もし病だったら重要拠点の玉縄に移すかね?


▲ 氏康の陰謀か!

頼康が当主でいては、いつまでも吉良を完全に北条のものに出来ない!ここはひとつ、いいように使える(か?)氏朝くんを送りこみ、名門吉良の名跡をゲットし、その家臣団をも北条の直臣にしてしまおう!

と、氏康と相棒の綱成で図ったのか!?二人には為さま(氏康弟・北条為昌)のことで前科があるゆえ(←超妄想)、勘ぐってしまうのう…。


▲ vs 謙信の態勢固め

これは、②の、頼康殿の移動のことと一緒に考えねばならないのかもしれないですが、それこそ、謙信くんの侵攻に備えての人事異動の可能性もありますかね?

時系列をチト整理すると・・


(永禄2年)
4月 謙信、上洛し、関東管領内諾。北条らの制圧を決っする

(永禄3年)
8月 謙信、越後出立
12月 北条の氏朝、吉良へ養子に入る


謙信、関東の諸将を集結させながらズンズン南下し、次々と攻防戦を繰り広げる

(永禄4年)
2月 氏朝、吉良の家督を継ぐ
 〃 吉良頼康、蒔田→玉縄に移る
3月 謙信、小田原に陣を張る
12月 頼康、逝去


上の、氏康陰謀説の見方を変えてみると、以下のようになります。

こんな情勢の中、吉良閣下(「閣下」は梅花無尽蔵より)を当主として戦の真っただ中に置くわけにはいかない。嫡子もまだ若い。吉良殿に替えて一門の氏朝を前線に置いた上で、優秀な吉良家臣団の指揮を北条が直接とれるようにしよう!

なんて?


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永禄4年の謙信侵攻時、何故頼康は玉縄へ移されたのか?


020
~吉良殿の城、世田谷城。(言わずもがな石垣は現代の土崩れ防止の公園整備。)~


①と重なりますが、永禄4年2月、氏朝が吉良の家督を継ぐ頃のこと。氏康は、謙信の侵攻から頼康殿を守るため、たいそうな人数を付けて頼康殿を綱成管轄の浦賀城へお移しするように命じます。

その後、浦賀城から玉縄へ変更します(吉良との取次ぎ、高橋郷左衛門への書状にあり)が、いずれにしても綱成の城。


まあねえ、最終的に頼康を移した玉縄が、避難場所として安全かどうかは疑問ではありますがね。だって、その頃の玉縄は、謙信くんの侵攻に備えて城の修復だの補強だのがガンガン行われているのですから。

まさか、吉良閣下を最前線で謙信くんと戦わせちまえrock
なんて?


頼康殿は玉縄城で亡くなったのでしょうか?それとも、謙信が小田原・鎌倉を去ったあと蒔田に戻り、そこで亡くなったのでしょうか?

もし玉縄で亡くなっていたら、それこそアヤシイ~~。

そこが知りたい。。。


horse
頼康室の崎姫はどこにいて、どうしていたのか?

まったく分からん!
( `д´)キッパリ


頼康殿自体が、蒔田にいたり世田谷にいたり、また蒔田に行ったり、玉縄に行ったり。

北条の女人達は嫁ぎ先の夫と最後まで行動を共にするという人が多いですが、それにしても、当時の正室が全ての場所へ着いてまわったとも思えん。


上にも書いた横浜歴博の「蒔田の吉良氏~戦国まぼろしの蒔田城と姫君展 2014.7」では、頼康の父の時代、その室(上杉)が「世田谷局(上杉定正書状)」と呼ばれたことから、

「正室は世田谷にいて、蒔田は別荘のような場所」
ではないか?とありました。

頼康殿の時代はどうだったのかなぁ。


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~私がクダクダと書いたものより、こちらをお読みになった方が遥かに良いと存ずる。1200円じゃが、取り寄せの価値大いにあり。~


うーん、私には じぇんじぇん分かりまへん。分からないなりに、そんなこんなを妄想しながら、まずは吉良頼康殿と崎姫の菩提寺探しです。これがまた大変。


wine 崎姫&頼康殿の菩提寺

その人を知りたければ菩提寺へ行け!
by マリコ・ポーロ


が、しかし…

見つかりませんweep


前回の太田さんちと同じです。死去年は分かっているのに、お墓が分かりません。頼康の法名が勝光院殿なので世田谷の勝光院のようなのですが、蒔田の勝国寺とも聞きます。どうもハッキリしません。「勝国」とは頼康のお祖父さんだか曽祖父さんの法名ですから、違うかもしれないし、一緒のお寺なのかもしれない。

頼康さえそうなんですから、妻の﨑姫にいたっては、その法名さえも分かりませんcrying


仕方がないので、その頃の吉良殿ゆかりのお寺をいくつか探索してみることにしました。

長くなったので、素敵なお寺巡りや、寺々に伝わる、崎姫が確かに生きた証の仏様については次回に続く。


「蒔田の吉良氏 戦国まぼろしの蒔田城と姫君」展
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2014/08/at-2d5f.html
「後北条の姫も妬んだ常盤姫」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2012/08/post-64d0.html

「後北条の女領主、伊豆の山木大方」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2010/06/post-d6d6.html

「北条早雲こと伊勢宗瑞の息女たち」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2016/10/post-3132.html
「太田資高 室~二人の浄心院▲北条氏綱の息女たち」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2017/01/post-3f58.html

ほにゃ。


萩真尼 こと マリコ・ポーロ

cat 画像は全てマリコ・ポーロが撮影しました。コメント欄をもうけております。公開させていただいてはおりませぬが、ご感想なりいただければ嬉しいです。

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