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2017年5月10日 (水)

講演会 「享徳の乱における分倍河原合戦」 峰岸純夫

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~鎌倉公方屋敷跡(鎌倉)~


こたびは「北条五代の息女たち」をチトお休みし、時代を半世紀ほど遡ってきました。


「道灌びいき」の会に入って何年も経ちながら、享徳の乱前後の出来事や人物がどうしても脳内で整理できません。上杉や長尾関係の本を買い&借り漁ってはみるものの、読んでる途中でボワ~ンdespair としてしまい寝落ち。本は本棚の腰曲輪へ山積み。

専門書はワテにはまだ無理。まずは小説から入ろう!そうだ、そうだ。そもそも戦国時代も室町時代も幕末も最初の取っ掛かりはマンガや小説だったじゃないか…と思い、伊東潤さんの「叛鬼」を読み始めたてみたものの、やっぱり途中でボワ~ン(すみましぇんsweat01)。


本を読んで何がややこしいって、まずは名前!

足利は、モッチー(持氏)→シゲッチ(成氏)→マー君(政氏)→高ピー(高基)→はるる(晴氏)→よっしー(義氏)…で、 古河公方はまだ覚えやすいんですよね。しかし上杉なんていつまでたっても、山内・扇谷・犬懸・宅間・庁鼻和そして越後などがゴチャ混ぜ。長尾ときたひにゃあ、もう、ねえ。

それから、シゲッチが「享徳」を使い続けたことで、年号が二つあるのもヤヤコシや~。


これは自力(?)ではアカン。老い先短い身、モタモタしている暇はにゃい。人様の話を聞いた方が手っ取り早いと思った時あたかも、高幡不動春季大祭!毎年恒例でおこなわれる、我らが「旧八王子城を守る会」の会長さんであらせられた峰岸純夫先生の今年の講演会のテーマが、享徳の乱。グッドタイミングゥ!


そして、もうひとつ。「小田原北条以前の小田原」についての講演が小田原でありましたので、そちらも拝聴してまいりました。


まずは、享徳の乱の講演会の方から。

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~文字を見るだけでワクワクしませんか?~


これを読んでくださる皆さまには今更言わずもがなですが、享徳の乱とは、異常に簡単に言うと、鎌倉公方シゲッチ vs 関東管領上杉 の関東の内乱ですよね。始まったのは、新九郎さん こと 伊勢宗瑞 の伊豆入りより約40年は前になります。


「戦国時代は関東の享徳の乱から始まった」 「東国では応仁の乱よりもっと前から戦国時代は始まっていた」「応仁の乱はさほどスケールの大きな乱ではなかった」などなど最近とみに言われ、認識も変わってきていますね。

とはいえ、『古河公方と伊勢宗瑞 2013.1』で則竹雄一氏は、「これ(享徳の乱)をもって東国の戦国争乱の開始とは評価しがたい」とおっしゃていますし、絶賛発売中の呉座勇一氏の『応仁の乱』には、享徳の乱のことは書かれていなかったりして、色々なお考えがあるのですねえ。


先日の朝日新聞でも応仁の乱のことを特集していましたが、日本中の武家が東軍派と西軍派に分かれて戦った…のように書かれていました。でも、日本中とはいえ、そこにあった年表には、東日本の武家はまったく出てきていませんでしたわ。これで「日本中」とは、これいかに?とも思いましたよ。

友人や同僚で、大河ドラマは必ず観る、史跡巡りが大好きという歴史好き達でも、皆、応仁の乱は知っていても、「きょーとくのらん?なにそれ?」と今でも申します。


かく書きながら、私なんぞも子供の頃からの歴史ファンを自称しながら、小田原北条に興味を持ち始めた数年前までは、日本中の武家が応仁の乱に関わり、応仁の乱で坂東の地が荒れたと思っていましたし、当時の関東に古河公方なる権威があって、関東管領なる勢力があることも知りませんでした。恥ずかちぃcoldsweats01

足利尊氏・直義時代に鎌倉府に公方(当時は関東管領)が下向してきたことぐらいは、うっすら記憶の底にありましたが、その後のことは気にとめたことがありませんでした。だから大河ドラマを観ていても、今一つ分からない箇所が多々ありました。


峰岸先生は享徳の乱関係の講演会の前に、必ず聴衆に「享徳の乱」という言葉をご存知かどうか聞かれます。幕末以外の歴史の聴講者は年配者が多く(含むワテ)、知っているpaperと手を挙げる人はとても少ないです。

だって、歴史の授業では習わなかった世代だから。


まあねえ、先に戦国時代に突入した方が凄いというわけでもないですし、乱の大きさを競うものでもないでしょうが、いずれにしても東国と中央は密接に関わっていたはずで、そのへんのところを、広~~く浅く(ややこしいから浅くでエエbleah)知りたいものです。

前置きが長くなりましたが、講演の内容です。峰岸先生の 「享徳の乱」についての講演は、昨年(2016)11月にも八王子生涯学習でもおこなわれました。上杉憲顕(秋)以外のことは少し同じところもありますので、ふたつの講演を合わせて以下。


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horse BS時代劇「塚原卜伝」(2011.10~放映)のこと

「塚原卜伝」は私も観ていましたが、先生は時代考証をされていましたよね。その時の脚本家との台本の内容についての興味深い会話。受け取り方が違うと申し訳ないので、以下そのまま写します。

真尋さんの(卜伝の妹)のナレーションに、
「応仁の乱から40年、うち続く戦乱で庇護者を失った鹿島大明神は・・」とあった。

峰岸先生
「応仁の乱から40年はまずい。応仁の乱の戦乱は関東に影響せず、これは享徳の乱とすべきでしょう。」

脚本家
「そうかもしれませんね。しかし、享徳の乱については余り知られていない。最近の教科書には出ているようですが、60才以上の高齢者は学んでいない。このような時代劇のファンは多くこの世代です。」

先生
「そうですか。でもこれは応仁の乱の影響が関東にも及ぶという誤りを冒しています。」

脚本家
「ここのところは申し訳ないがこのままにしておいて、別の場面で享徳の乱について触れましょう。」

先生
「わかりました。。。」


享徳の乱は28年も続いた、日本で一番長いかもしれない乱。関東の乱(享徳の乱)が、京の幕府と関東府の戦いへ発展。京の応仁の乱へ波及(ここがまたヤヤコシや~)。享徳の乱に比べると、応仁・文明の乱は「〇〇〇な内乱」 by 先生。

〇〇〇はここに書くのは控えますが、小さな…みたいな意、みたいな違うみたいな、ごにょ。


horse 2016.11 「享徳の乱の歴史的意義‐東国社会を根底から改変した」

同じく受け取り間違うと申し訳ないゆえ以下そのまま写しました。


① 鎌倉公方足利氏と管領上杉氏による専権支配が衰え、二元的支配(両者の勢力圏が分割)となる。

② 各地に城郭が構築され、本ー支城関係で結びつけられた勢力圏「領」が形成されて、「戦国領主」を生み出していく(郡・郷を単位とする)。

③ 以前に当然とされた分離型の所領支配は、強入部(軍事力による侵攻・支配)によって崩壊し、所領支配が一元化していく。

④ この乱が、関東における古河公方と管領上杉の対立だけでなく、幕府ー鎌倉府の二大陣営の対立であったため、幕府内部に大きな影響を与えた。

この乱を主導した足利義政・細川勝元政権は、関東の平和実現に失敗したため、その批判勢力(山名宗全)が蜂起して、応仁の乱が発生した。

応仁の乱の終結をまって、享徳の乱も終息する。応仁の乱は、享徳の乱の一部を構成するとも考えられる。


そして、上と重複するところもありますが、

horse 2017.4「享徳の乱と応仁の乱がもたらしたもの」

① 分散型所領形態が解消していき、城郭を中心に戦国領主の形成
② 幕府・関東ともに上部権力の衰退
③ 下剋上、上剋下による権力争奪から戦国対明への途が開かれる

まさに“戦国時代の開幕”といえる。


というところで、やっとこさ分倍河原合戦について。


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~藤沢「遊行寺」。応永23年、上杉禅秀vsモッチーの乱の犠牲者を供養する。~


講演のタイトルは、「享徳の乱における分倍河原合戦ー上杉憲顕(秋)の討死と高幡不動での供養」


高幡不動といえば我が土方歳三さま。分倍河原(ぶばいがわら) といえば田村正和さま の古畑任三郎の居住地…いや、それらではなくてcoldsweats01 なぜ高幡不動で享徳の乱のお話しなのかというと、高幡不動には享徳の乱のキャストの一人である上杉憲顕(秋)のものと伝わる供養塔があるからにござります。

憲顕(秋)とは、犬懸の上杉禅秀の息子ですな。時代を遡ること百数十年の、足利尊氏・直義の母方のイトコである上杉憲顕と同姓同名なので、あとの時代の憲顕は便宜上「憲秋」とされているようです。


horse 時系列

▲ どの変(紛争?戦乱?)を発端とするかは、遡れば限がないが、
将軍義教と関東管領上杉による足利モッチーの追討→自害だの、結城合戦だの、関東公方の復活(シゲッチ)だのによる不満分子の紛争がプロローグとしてありーので(というか、これじゃもうすでに関東の争乱は始まっていたのではないかと思えないこともないが)、

▲ 享徳3年
それらの乱が大きな争乱(享徳の乱)となる決定的なキッカケとなる、鎌倉公方・足利シゲッチ(成氏)による関東管領・上杉憲忠の誅殺!(これを「下剋上」ならぬ「上剋下」と言う by峰岸先生)

▲ 享徳4年(康正元年)
シゲッチ、上杉討伐のため府中へ出陣!

▲ 扇谷上杉、庁鼻和上杉、そして犬懸上杉の憲秋らのチーム上杉が、シゲッチ軍と高旗(高幡)・立河(立川)・分倍河原などで激戦annoy

▲ チーム上杉方の敗退

と、異常にハショッテ分倍河原合戦をまとめてみました。


高旗(高幡)で討死したのは上杉憲顕なのか。池亀(池上)に逃れて自刃したのは誰なのかについては諸説あるところですが、いずれにしてもシゲッチは、こののち古河に拠点を移し「古河公方」といわれることになります。

文明6年(享徳22年)、応仁・文明の乱は集結すれど、東国ではまだまだやってる「絶賛!享徳の乱」。


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~やっぱり、文字を見るだけでワクワクするでしょ。~


最後に、高幡不動尊での講演会のレジュメに手書きで載せてくださった交戦勢力図を。脳内整理するのにとても助かりました。


▲シゲッチの古河公方軍

① 守護・守護代
下野(小山)、常陸(佐竹)、下総(結城・千葉)、上総(武田)、安房(里見)

② 古河公方直轄領を支配する直臣
野田(古河)、梁田(水海・関宿)、佐々木(私市-騎西)


▲ 将軍・義政&管領・細川勝元の幕府軍

a. 守護・守護代
上野(山内・長尾)、相模(扇谷・太田)、伊豆(山内)

b. 堀越公方&その直臣(渋川・上杉)

c. 幕府奉公衆
二条上杉、八条上杉のオール上杉

. 周辺守護大名
越後上杉房定(五十子陣)、駿河今川範忠(鎌倉)

. 関東の戦乱(上杉禅秀の乱)で滅ぼされた遺族・亡命者
新田岩松家純、犬懸上杉憲顕(兄)・教朝(弟)・教房(甥)


ふぅ。どうまとめて良いか難しくて、書くの大変でしたー。合ってるかな~、自信ない。

あんまり信用できない?ですよね~。そんなアナタに朗報です!追々、峰岸先生の享徳の乱の本が出版されるそうですよ。


次回は、小田原での講演会「後北条以前の小田原」です。


「 出ましたね!「享徳の乱」 峰岸純夫著」 2017.10.10
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2017/10/post-45e7.html

「BS時代劇 塚原卜伝」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2011/10/bs-ed39.html

「古河公方の古河を歩く」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2013/12/post-de53.html
「後編~古河公方の古河を歩く」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2013/12/post-8375.html


萩真尼 こと マリコ・ポーロ

cat 画像は全てマリコ・ポーロが撮影しました。コメント欄をもうけております。公開させていただいてはおりませぬが、ご感想なりいただければ嬉しいです。

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