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2017年10月20日 (金)

北条五代の娘たち⑤古河公方晴氏室~関宿にある謎の五輪塔

by マリコ・ポーロ

シリーズ 北条五代の娘たち
【二代北条氏綱の息女~足利晴氏室】


Photo
~伝・四代古河公方 足利晴氏の墓~


関宿城(跡)から馬で、いや、車で5分ぐらいのところに「宗英寺」というお寺があります。慶長年間に、家康の弟である初代関宿城主松平康元により建立された由緒あるお寺で、康元のお墓もあります。


宗英寺に四代古河公方、足利はるる こと足利晴氏のお墓と伝わっている五輪塔があると聞き、一度拝んでみたいと思っていました。以前、逆井城などを周った時に関宿城博物館までは行ったのですが、当時は足利公方に興味がなかったので素通りしてしまいました。

立派な山門をくぐり、説明板をじっくりと読んだあとは、スタスタスタスタと墓所へ。墓所をグルグルしましたが…ありませんのう、はるるのお墓。お寺の方に伺いましたら、「晴氏のお墓と伝わっているもの」は、山門を入ってすぐのところにあると。墓所にあるとばかり思って脇目もふらずに歩いておりましたよ。


戻ってみると…

どひゃーー 思わず後ずさり。

凄い石塔がそこにありました。写真では伝わらないかもしれませんが、石塔はトーテムポールのように高いです。優に2m位はあるのではないでしょうか。後ずさりしないと、全容が見られません(ちとオーバー?)。五輪塔と呼ばれているようですが、五輪塔ではないのですてね。なんと申したらいいのか…石塔、です。


石塔は、崩れていた(崩れそうだった?)のを、お団子のように重ね合わせて接着されています。特に「晴氏墓」などの表示はなく、忽然と現われたようにそこに建っています。


この石塔がなにゆえ、はるる(晴氏)のお墓だと伝わっているのでしょうか。

それは、塔の、上から6個目の四角い石に、はるるの法名である「永僊(仙)院殿」と刻まれているのが読めるからです。

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~文字はけっこうハッキリしている?この部分は宝篋印塔とのこと教えていただく(2017.10.29)。~


▲ 天文7年。
古河公方足利晴氏と、伯父である小弓公方足利義明が松戸台あたりで合戦に及んだ。北条氏綱・氏康父子は、自身の軍隊を持たない公方晴氏の名代として参戦。一方、義明を擁立したのは安房の里見氏。

第一次国府台の戦いである。▲


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~里見勢らに見限られ(?)た小弓公方足利義明が、単騎北条軍に突入し討死した相模台城跡(松戸駅前聖徳大学内)。~


芳春院殿

合戦に勝利した北条氏綱が晴氏の後室として嫁がせたのが、娘の芳春院殿です。

大河ドラマにからめて、氏康の娘の早川殿(今川氏真室)を先に書いてしまいましたが、再び氏綱の娘に戻ります。


芳春院は、その容色を楊貴妃にも例えられ、公方に嫁いでからは、実家と公方家の間を取り持つ重要ミッションを担い、鎌倉での息子義氏の公方就任式典では共にパレードに連なり、「日本王天下光」の朱印を使い、実家の全面バックアップを受け当時の東日本の女人では最高の権勢を誇りました。

小田原を出てから、葛西・古河・栗橋・関宿などなど子息の義氏と共に居城を移し(たぶん)、夫君の はるる とはほとんど別居生活だったとは思いますが(たぶん)、華やかで、頭も良く、女王のような威厳を感じさせる、そして勝気な女性だったのでしょうねえ(北条の女性は皆強い )。


芳春院については、以前、古河などで妄想を広げたブログ記事をたくさん書きました。一部を文末へ添付いたしましたので、あわせてご覧くださると嬉しいです。


古河公方 足利晴氏

いつも書いていて恐縮ですが、古河(鎌倉)公方の名前を覚えるためにニックネームを付けて呼んでいます。初代シゲッチ(成氏)→二代マー君(政氏)→三代タカピー(高基)→四代はるる(晴氏)→五代よっしー(義氏)…。それでも、マー君とタカピーが時々テンコシャンコになる


四代はるる は、北条氏綱から娘を送り込まれ、先妻との子は廃嫡とされ、いったんは北条と和解しましたが、廃嫡された息子藤氏と共に北条に叛旗を翻したものの敗北。波多野(秦野)に幽閉され、その後野田にお預けとなり、そこで亡くなりました(野田家文書・鑁阿寺文書)。


古河には、はるるの法名の「永仙院」というお寺があります。今は廃寺となっているので正確にはお寺が「ありました」ですが、永仙院は、それ以前は「乾享院」という、シゲッチ開基のお寺でした。「乾享院」とはシゲッチの法名です。その後、はるるの菩提寺となり、法名である「永仙院」となったそうです。

(ん?ということは…永仙院=乾享院にシゲッチのお墓はあったのでしょうか?現シゲッチのお墓は後に造られた供養墓です。)


永仙院跡には墓地が残っています。しかし、そこに、はるるのお墓とされているものは見つけられませんでした。あるはずですよねえ。廃寺になってしまっているので、もう分からないのでしょうかねえ。

同じく古河の「一向寺」というお寺が、永仙院の遺宝を引き継いでいるそうなので、一向寺さんに行ったら何か分かったのでしょうか。古河に行った時は、時間がなくて寄れませんでした。


謎の石塔

さて、話を関宿宗英寺の「石塔」に戻します。

野田で亡くなった はるる のお墓(法名が刻まれた石)がなぜ関宿にあるのでしょうか?


お寺の方、関宿城博物館の学芸員さん、「道灌びいき」の会員である古河の郷土史会の方々に伺いましたが、本当に分からないそうです。元々畑の中にあったものをここにおさめたと聞いているとのこと。

関宿城博物館の展望室から悠々と流れる利根川や江戸川を眺め、古河の方向を見つめながらながら妄想してみました。


▲ 元々は野田の栗橋城の近くにあったが、その後栗橋城に入った我らが北条氏照どのが配下の者に「撤去せい」と命じ、そこに一緒にあった他のお墓などと一緒に配下の者が少し離れた関宿の畑の中へ、テイッ!と捨てた。

または、栗橋が北条に従属したのちも墓はそこにあったが、天正18年、北条が滅びたあとに入った小笠原さんちの誰かが、そのあたりにあったお墓類の使えそうな石だけ残し、不必要な石を少し離れた関宿の畑の中へ、テイッ!と捨てた。

そして…

▲ その後に関宿に入った松平さんが、畑の中に散乱している墓石の中に「永仙院」と刻まれたものを見つけ、「あまりに哀れじゃ…」と、配下の者に命じ整えさせた。が、配下の者は積み重ね方をよく知らず、そのへんの石を適当に積んだ。


な~んてね。
実のところはお墓は古河や久喜にあったのでしょうが、野田さんか誰かが、こちらに供養塔として築いたのかもしれませんね。もしくは、もう少し後に梁田さんが建てた供養塔かもしれないですねえ。

時が流れそれらは放置され、崩れ散乱していたのを土地の人達が積み上げ、それを松平さんかお寺の人が寺内におさめた…というところだと思います。


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~丸に二つ引きの家紋が端然とそびえる久喜にある臨済宗「甘棠院(かんとういん)」。晴氏の祖父、足利政氏の屋敷・菩提寺である。~


永禄3年、はるるは激動の人生を終え、葬儀は久喜「甘棠院」にて営まれました。芳春院はこの時に落髪します(喜連川判鑑)。

北条にその立場を追われ敵対していた夫君とはほとんど一緒にいなかったと思われる芳春院ですが、晴氏死去の翌年この世を去りました。まだ40代前半だったと思います。栄華を極めた方にしては、まだお若いですねえ。


晴氏と芳春院がこの世を去り、芳春院の息子義氏が公方になると、足利公方と北条の関係はあらたな時代を迎えることとなります。義氏には氏康の娘が嫁ぎますので、古河公方のことはその時にまた。


謎の石塔について加筆。

もう少し資料を読んでみましたら、芳春院の息子の公方ヨッシーは、父母が死去した永禄3-4年あたり、野田と共に関宿に籠城していました。

永禄4年7月に芳春院が亡くなった時、芳春院の兄北条氏康が籠城中の野田さんへ弔意を表した書状を出しています。ということは、芳春院は息子と共に関宿にいて、そこで没した可能性もありますよね。


もしかしたら、芳春院が、前年亡くなった夫のお墓(供養塔)をその時そこに建てたということも考えられますよねえ。そして翌年、息子の公方ヨッシーが母 芳春院のお墓を父はるる のお墓に並べて建てたとか…。

ヨッシーが梁田と和睦して関宿を出たのは、7月。たぶん、母上の弔いを済ませてからのことなのでしょう。


Img20170905_201832
~甘棠院の周りを取り巻く堀と土塁。本堂へは近づけない。~


ほな、こたびはこれまでに。


  芳春院を書いた記事の一部です
「古河公方の古河を歩く」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2013/12/post-de53.html
「後編」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2013/12/post-8375.html
「後北条一族の陰謀、公方の御座所「葛西城」」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2013/01/post-fdbc.html
「鎌倉に訪ねる後北条ゆかりのヒロインの寺」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2013/03/post-5cd4.html


今までの北条五代の娘たちの記事です(それぞれ続編・番外編などあり)

・初代 伊勢宗瑞(北条早雲)の息女
「北条五代の息女たち①今川から戻った長松院様」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2016/10/post-3132.html
「北条幻庵の妻は、葛山氏ではないだろうか?」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2016/11/post-d602.html

・二代 北条氏綱の息女
「北条五代の娘たち ② 太田資高室~江戸城を取り戻せなかった太田資高」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2017/01/post-3f58.html
「浄心院は三浦道寸の娘か北条氏綱の娘か? 」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2017/01/post-3016.html
「北条五代の娘たち ③ 吉良頼康 室~上杉謙信の侵攻と吉良の代替わり」http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2017/02/post-9be1.html

「北条五代の娘たち ⑥ 諏訪湖に消えた駿東の名族葛山氏」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2018/02/post-7fbd.html

・三代 北条氏康の息女
「北条五代の娘たち④今川氏真室~戦国の高等遊民夫妻」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2017/08/post-9cbd.html


萩真尼 こと マリコ・ポーロ

画像は全てマリコ・ポーロが撮影しました。コメント欄をもうけております。公開させていただいてはおりませぬが、ご感想なりいただければ嬉しいです。

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