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2018年3月13日 (火)

「福嶋氏と今川氏親・寿桂尼」 戦国史研究会

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~2018・3・10 駒沢大学駒澤キャンパスにて~

講師は、『今川氏研究の最前線』や大河ドラマの時代考証など今川氏研究で知られる大石泰史氏。


昨年の島田市博物館 「寿桂尼展」で、「花蔵の乱で寿桂尼は恵探側だった」という説明文を読み ドびっくり~して以来 チョコチョコ とブログに書いていおりますが、乱での寿桂尼の立場についてもっと知りたいと思っていました。

そんな時になんというタイミング!
戦国史研究会さんの今月の例会は、福嶋氏と氏親・寿桂尼についての講演だとの矢文をいただきました。しかも講師は大石氏です。

土日はほとんど仕事なのに、偶然たまたま、行けと言わんばかりに仕事はお休み 。拝聴してまいりました~。


福嶋氏については、玉縄北条の綱成の出身だという以外はほとんど知らなかったので、とても面白かったです。以下、ビビッときた三つの鱗を自分の備忘録として…。

(もしご興味ありましたら、先にこちらをご覧いただけると助かります。→「花蔵の乱~寿桂尼は恵探を擁立しようとしていた!?」http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2017/11/post-9c3d.html


▲-1 福嶋氏は今川家の中でかなり重要な存在だった

それこそ島田市博物館のある島田の領主でもあった。島田は、駿東の国境である大井川畔に位置する物流の拠点。しかし、福嶋氏が入るまでは、この駿河西部には主だった在地領主(国衆と言わなければいけないの?)がいなかった。

福嶋助昌や、助昌開基の静居寺、歴代の福嶋一門の諱などから福嶋が今川で非常に重きを成していたことが分かった。


ふ~ん。
だから、福嶋の女が氏親の側室にもなったのですね。


▲-2 花蔵の乱後も今川に残った福嶋氏がいた

福嶋氏は、VS 武田信虎の飯田河原(大永)・上条河原(永正)と、花蔵の乱(天文)で没落したが、以後も、それ以前と変わらずに今川に仕え、三河・尾張方面の最前線に配置され、外交交渉を担った福嶋もいた。


へえ~~。
綱成が北条に来たので、福嶋一門は今川では壊滅したのだと思っていましたよ。すみもはん。となると、綱成たちは、いつ、どれだけの人数で、どのような状況で北条へ来たのでしょう?

福嶋氏と小笠原氏は一類であり、福嶋氏にしても、越前守・豊後守・和泉守→稲葉守など色々な福嶋さんが出てきて、綱成さんちはどの系統なのか、はたまたどれでもないのか、よく分かりませんでした


伊勢宗瑞と福嶋が一緒に東へ行った…という話もあるそうで、万が一そうなら、福嶋は北条にとっても古参の氏族になります。しかし、万が一そうでも、一緒に来た福嶋に、のちの綱成の父親なり祖父がいたのかどうかは分かりません。

それとも私が知らないだけで、「綱成は福嶋〇〇の出で、いついつ、こうこうこういう経緯で北条へやってきたのだ!」と、最近、いきなり新説が発表され、それに決まったりしているのでしょうか?


そして本題(ワテにとって)の花蔵の乱です。

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~寿桂尼の印判「嫁ぐ」(駿府の菩提寺龍雲寺にて)。but 検討の余地あり。~


▲-3  花蔵の乱での寿桂尼の謎

越前守という福嶋さんが登場。福嶋越前守は、氏親の棺を担ぐメンバーにも任ぜられたほどの重要な存在だった。


福嶋は寿桂尼の取次でもあり、氏親亡きあとの寿桂尼は氏親ラインを引き継いでいる。また、福嶋氏は京都との独自の外交ラインも持っていたのではないだろうか?氏親は対幕府対応にもそれを使ったのではないだろうか?

ゆえに氏親は、福嶋と「姻戚となることで、より一体的になることを望み、家中もそれを容認」。だから福嶋の女が氏親の側室になることも、寿桂尼も認めていたのではないか?


なるへそ~。
そういう中に生まれた子供が、花蔵殿(玄広恵探)なのでござりますな。

お話しはいよいよ核心の、ずっと気になっている、武田の高白斎が書いた、

「五月廿四日夜、氏照(輝)ノ老母、福嶋越前守宿所ヘ行、花蔵ト同心シテ翌廿五日従未明於駿府戦、夜中福嶋党久能へ引籠、…」

です。はたして寿桂尼は、息子の義元ではなく、福嶋と共に恵探を当主に擁立しようとしていたのでしょうか?


大石氏は、
以上などなどのことから、

(寿桂尼が)義元と対峙するのは当然の推移

なのではないかとおっしゃっていました。島田市博物館で私が ドびっくり~! した内容と同じです。


う~む
これを読んでくださっている皆さまはご存知だと思いますが、ある有名研究者の方が、今主流のこの説に反論していますよね。

それは…

そもそも文書の読み方が違う。「同心シテ」は寿桂尼にかかるのではなくて福嶋越前守にかかる。「福嶋が花蔵殿(恵探)に味方して駿府で合戦し、敗北して久能城に後退した、という文章として理解できる」。だから寿桂尼は福嶋越前守と同心していない…

というものです。


では、寿桂尼は何をしに福嶋越前のところへ行ったのかしら?文にやたら句読点「、」が付いているのも読み解きにくいのでしょうかねえ?

諸説ありということで。。。


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~「太田道灌と江戸」展、 国立公文書館~

すでに先週で終わってしまいましたが、戦国史研究会さんの例会の日の午前中は、道灌を見て参りました。道灌と寿桂尼で脳内ゴチャゴチャの五目ご飯~。


昨今、太田道灌の嫡流について諸説あるようで、最近いきなり浮上してきた「太田永厳」という人のことが何か出ているかもしれないと思って行ったのですが、ありませんでした。


ここに写真を載せるのは控えますが、配布されていた「日本一単純な享徳の乱関係図」が、日本一分かり易くて素晴らしかったです。マンガチックに利根川の左右に主要人物が描かれています。里見とワンコ が一緒にいたり、宗瑞を隅っこにほんのチビットちっちゃく登場させていたり、京都には義政と万里集九がいます。

それぞれの年齢(文明8年頃)も記されていました。道灌と足利系を除くと、みんな30代前後。ノリノリの世代ですね。


それにしても、パソコンで 「くしま」 とうっても「福嶋」が出てこず、単語登録すればいいものをしないで「ふくしま」と何度も何度もうっていると、「くしまがね…」と話す時につい、「ふくしまがね…」と言ってしまうようになるのが困るのね。


「寿桂尼と今川氏展」 島田市博物館(2017)
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2017/11/2017-29ad.html

「花蔵の乱~寿桂尼は恵探を擁立しようとしていた!?」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2017/11/post-9c3d.html

「諸説あり?『北条氏康の妻 瑞渓院』 黒田基樹著」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2017/12/post-56ab.html

萩真尼 こと マリコ・ポーロ


画像は全てマリコ・ポーロが撮影しました。コメント欄をもうけております。公開させていただいてはおりませぬが、ご感想なりいただければ嬉しいです。

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