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2018年3月30日 (金)

江戸編~浄心院は氏綱の娘か道寸の娘か?

マリコ・ポーロ

シリーズ 北条五代の息女たち
二代・北条氏綱の娘たち、太田資高室~江戸編】


2019.7 加筆:太田資高は、資康の息子ではないという話もあります。諸説あることをお含みおきの上読んでいただけると助かります。康資は資高の息子です。


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~文京区白山には、浄心院様の菩提寺だった「浄心寺」の名が坂の名として残っている。~


先のブログ記事「北条五代の娘たち~浄心院はどっちなのか?」→http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2017/01/post-3f58.html で混沌としていた、浄心院殿日海は「北条の娘か三浦の娘か」について、その後もう少し調査(妄想)をしてみましたところ…


衝撃の事実を発見!!

なんと、2人の浄心院殿日海の 没年月日が同じ (天文19年9月14日)だったのです。


北条浄心院 の没年月日は、『太田家記』より
三浦浄心院の没年月日は、『三浦系図伝』より

ドびっくり~

天文19年…か。北条氏康が山内上杉の平井城を攻め、翌20年に落とした頃ですな。

それにしても、自分の正室と父親の側室が同じ日に亡くなって、法名も同じなんてことがあるかね?氏政の母と正室は同じ日に亡くなっていますが、それは小田原籠城中のこと。こちらはそれとは違いますしねえ。


二人の浄心院とその夫君たちの後半生

核心に触れる前に、まずは時系列を整理してみました。辿るのがメンドクチャイ方はずーっと下方の、「太田家記」の項へどうぞ。


(登場人物)
北条浄心院=北条氏綱娘、太田資高の室
三浦浄心院=三浦道寸娘、資高のパパ(諸説あり)資康の側室(たぶん側室)


▲永正10年/1513年
三浦道寸の娘である三浦浄心院の夫・太田資康、三崎にて討死。
(資康の死亡については時期・状況共に様々説があるが、いずれにしても永正10年よりは以前。)


~妄想①~
三浦浄心院が嫁いだ頃、夫の資康は江戸にいたはず。資康が三崎の道寸の元へ向かった時、一緒に行ったのか?→道寸の娘だから行ったと思われる。

また、
資康の子である資高(諸説あり)は、その時15才位。江戸へ置いていかれたのか?どこでどうしていたのだろう?


氏綱に内応したのは、「祖父道灌殺害の件で扇谷に恨みを持っていたから…」とも言われているけれど、だったら何故に父親と一緒に三浦へ行けなかったのか?実は、やはり本当の父子ではなかったからなのか?

山内・扇谷がらみの何かしらの事情なのか?三浦についたということは、山内についたということですもんね。


あ!
まだ言わない……テンテンテン

▲永正13年/1516年
三浦道寸、自害。次男・時綱は安房に逃れる(館山市資料より)。三浦浄心院も共に安房へ渡る(三浦系図伝より)。


~妄想②~

ちょっと待てよ。

三浦浄心院の兄弟である義意が三崎で討死したのは20才頃。例えば三浦浄心院が義意の姉だとして、25-6歳。となると資高とは10歳位しか違わない。いくら昔とはいえ、資高は三浦浄心院が産んだ子ではないですな。

妹だとしたら、10代か。もっとあり得まへん。

ということで、先のブログ記事に載せた系図をもう一度。

 

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~太田については諸説あるため微妙です~




▲大永4年/1524年
資高が北条氏綱と組み江戸城は北条の物となる。資高は江戸城香月亭へ入る。

▲年不明
氏綱の娘である北条浄心院、資高へ嫁ぐ

▲享禄4年/1531年
北条浄心院、康資を産む

▲天文16年/1547年
資高、江戸にて死去

▲同19年/1550年9月14日
三浦浄心院北条浄心院、両名共、江戸にて死去(太田家記/三浦系図伝)


次に、『三浦系図伝』と『太田家記』を見てみましょう。

どちらも、概要ではなく、どう書かれているか見てみたくて仕方がなかったのですが、なかなか図書館へ行けないでいたところ、歴友師匠殿が関連箇所を抜粋して教えてくださいました。かたじけない。ありがとうございます!


三浦系図伝

 

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~三浦氏の「新井城」。三崎の要害についても諸説あり。~


道寸の娘について、以下のようにあるそうです(歴友さんのをコピペさせていただく)。

「(義同)女子
嫁太田道灌一男資康、生新六郎「康資」後号武庵、天文十九年九月十四日死于江戸、法名浄心院日海、子康資建寺置像、号浄心寺今猶在小石川」


ふむ。
江戸にて死去か。小石川の「浄心寺」が菩提寺とありますな。浄心寺は、太田道灌開基「法恩寺」の末寺です。

浄心寺はかつて平河口にあり→本郷に移り→最後は白山でした。現代の感覚でいうと、小石川は、そのどこからも少し離れていますね。大きな区分の中ではまあ同じエリアとも言えますが。


また、何故に太田道灌ゆかりのお寺で弔われたのでしょうか?

太田さんちに嫁いだから?でも、三崎に行って、安房に渡った(らしい)三浦の娘を、江戸の真ん中で誰が祀るのだろうか?


そんなことより!
そうです。資高の母でないどころか、この系譜からは資高さんが抜けているではありませんか。資康の子が、孫である康資ということになっていますね。ですよね?読み方合ってます?

ちと、アヤシイ~の~。


太田家記

 

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~現在は日暮里にある資高開基の「本行寺」。当時は江戸城平河口にあった。浄心寺と同じく、法恩寺の末寺である。~


以下、同じく歴友さんからいただいたもののコピペ。

一、資高公奥様ハ北条氏綱の息女ニテ、天文十九年九月十四日江戸城にて御死去、万好斎公と同して法恩寺へ御葬送可有之処、平川口に別之寺を立、彼寺へ御葬送有之、是ハ常々御夫婦不和之由申伝候、夫故新六郎康資公へ御存生之内より被仰置候付、別の寺へ御葬被成候也、彼寺浄心寺と申候、此寺今ハ本郷丸山ニ有之候、


浄心寺書物ニ有之、
「浄心院日海比丘尼 天文十九年庚戌九月十四日施主 太田新六郎康資
本願徳成坊日成敬白」
如此之書付有之、日海様木像之御影有之候


ふむ。

こちらには、浄心院日海は北条氏綱の娘で、資高の奥様であり、(三浦の娘と同じ)江戸で亡くなり、(三浦の娘と同じ)子の康資が浄心寺という菩提寺を建立して葬送とありますな。お寺の場所は、平川口→本郷丸山。まあ辻褄は合うか。


資高さんの道名と菩提寺もこれで分かりました。

道名は万好斎。菩提寺は「法恩寺」。繰り返しますが、法恩寺は太田道灌の開基です、浄心寺は法恩寺の末寺です。


そして、面白い…と申しては悪いですが、先立った夫の資高と同じ平河「法恩寺」に葬られるところ、息子の康資が、母浄心院の遺言により別の寺を建てたとな。それが、「浄心寺」だと。

なぜ別の寺へという遺言なのかというと、「常々御夫婦不和…」 だとさ


混同

以上のことから妄想するに、やはり浄心院日海は北条の娘で資高の正室である線が強いのではないかと、私は思いたい。だって、そもそも三浦さんちの系図に資高さんがいないんだもの。


となると問題は、安房の正文寺にあると聞く浄心院の位牌ですよね。

三浦系図伝によると、浄心院は江戸で亡くなっています。三崎の戦いの際に安房へ逃れたはずの三浦浄心院は、何故に江戸で亡くなったのだろうか?江戸で亡くなったのに、何故位牌が安房と江戸の両方にあるのだろうか?


~妄想①~
安房の位牌は三浦浄心院 のものではなく、北条浄心院 のものではないでしょうか。

北条浄心院の息子の康資が安房でも位牌を持ったのではないでしょうか。パパとママは不仲だったから、マザコンの康資(←ウソ)が、ママのだけ作ったとか。

それが三浦系図と混同され、いつの間にか三浦浄心院のものだとなってしまっている…とか?


~妄想②~
それとも、安房の位牌はやはり三浦浄心院のもので、お名前が不明だったので、いつの間にか浄心院殿日海と混同されてしまっているとか。


なーんて。

皆さんはどう思われますか?


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~嘉永時代の地図。緑のの中に「浄心寺」がある。ピンクの☆のあたりに現代の白山駅がある。~


先日、どこでもいいから、なんでもいいから、浄心院が生きた証の場所に立ってみたくて、トップの写真の「浄心寺坂」を歩いてみたのです。

(坂の名の由来となった浄心院様の「浄心寺」は日蓮宗。現在はお寺はありません。近くに同名の浄土宗のお寺があるのでお間違えのなきよう。)


大きな歴史の流れの中では、浄心院が三浦の娘だろうが北条の娘だろうが、どうでもいいっちゃあいいことです。どうでもいいことではあるのですが、でも、それぞれにそれぞれの人生を歩んだはずの二人の女人が、その人生を混同されたりしていたらお気の毒だと思うのです。

それはこのお二人に限ったことではなく、先の崎姫と山木大方にしても、氏綱室の養珠院と朝倉娘の養勝院にしても、北条ゆかりの女人達だけではなく他のあまたな女人たちも同じこと。ほとんどが、かつての敵の元へ嫁ぎ、実家から与えられたミッションを果たすべく大変な思いをしたことでしょう。


彼女たちにとっては余計なお世話だろうと思いつつ、今日も足跡を辿りながら妄想しておる次第でござります。


こちらが最初に書いた混沌のブログ記事です↓
「北条五代の娘たち ② 太田資高室~江戸城を取り戻せなかった太田資高」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2017/01/post-3f58.html

「道灌息子資康と孫?資高の不思議」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2018/04/post-92ee.html

「安房編①~浄心院は氏綱の娘か道寸の娘か?」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2018/05/post-69b9.html
「安房編②~浄心院は氏綱の娘か道寸の娘か?」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2018/06/post-dcd4.html


萩真尼 こと マリコ・ポーロ

画像は全てマリコ・ポーロが撮影しました。コメント欄をもうけております。公開させていただいてはおりませぬが、ご感想なりいただければ嬉しいです。

 

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