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2018年4月 2日 (月)

太田道灌の子息「資康」と、孫?「資高」の不思議

2019.7 加筆:太田資高は、資康の息子ではないという話もあります。諸説あることをお含みおきの上読んでいただけると助かります。康資は資高の息子です。

 

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~榎本家長屋門(練馬南田中)。太田道灌が石神井城を攻めた時に従った「田中十家」のうちのひとつと伝わる。江戸時代は名主さんで、大正時代まで茅葺屋根だったそう。道灌びいきの会で見学。~


このところ、ず~~~っと考えています。以下、考えていることメモメモ。

今まで、

① 太田道灌が主君(扇谷)の指令で殺される

② 息子の資康は山内に付く
(三浦の娘を娶る=三浦浄心院

③ そのまた息子の資高は北条に内通し、江戸城は北条のものとなる
(北条の娘を娶る=北条浄心院

④ そのまた息子の康資は北条から離叛し、安房へ…

と、アッサリ・ザックリだけの認識で満足していました。


そして、
⑤ 太田家は江戸太田と岩付太田に分かれた…

と、何も引っ掛かることもなく受け入れていました。


一昨年より北条五代の娘たちを追い始め、氏綱の娘で資高の室三浦道寸の娘で資康の室 が同じ法名「浄心院殿日海」で、同じ没年月日、没地も同じだということを発見しました。

いったいどちらが浄心院なのかを調べ始めたところ、それぞれの伴侶である資康(父)と資高(子息)について疑問が噴出。私のザックリ納得の知識は随分とハショられていて、その隙間隙間を隙間家具のように埋めたくになりました。隙間家具は隙間を有効に活用しますからね。←??


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~扇谷定正が家臣の曾我に宛てた書状(国立公文書館「道灌展」にて)。道灌を誅殺した理由が書かれていた。「道灌が山内に対して不義を企て、それに対して度々諫めたが、道灌が謀反を起こそうとしたため誅殺したとある…」と。~


さて、隙間のこと。

例えば…
浄心院はどっちだ?がメインテーマ Now ゆえ、上の②と③の間の隙間について。

つまり、父親の資康が三浦に援軍し亡くなった(たぶん)のち~北条に付くまでの資高少年は、どこでどうしていたのだろう?

父と一緒に三浦に参陣したのだろうか?江戸とか岩渕とか河越とかに潜んでいたのだろうか?


そもそも、
いったい資高少年の母親は誰なのだろう?三浦の娘、三浦浄心院なのか?

「三浦浄心院はパパ資康の側室であり、正室は元服の頃に娶せられた扇谷関係の娘で、資高少年は三浦とは関係がないから母方の元で暮らしていたのではないだろうか?」と、前にSNS(知人だけとやっている)に書きましたが、これも腑に落ちず。


ここで、パパ資康と資高少年に起きた出来事と年齢を追ってみました。

1476年 ジジ道灌にやっと子息(パパ資康)誕生(ジジ道灌44才
 ↓
1485年 パパ資康元服(10才
 ↓
1486年 ジジ道灌が扇谷定正の指令で殺される(パパ資康11才)
 ↓
1488年 パパ資康、山内顕定に参陣(パパ資康13才)
 ↓
? ? 年 パパ資康、三浦道寸の娘を娶る←三浦浄心院
 ↓
1498年 資高少年生まれる
 ↓
1505年頃 この数年前にジジ道灌の仇である扇谷定正が亡くなり、パパ資康は江戸に戻る
 ↓
1513年 パパ資康、三浦へ参陣(資高少年15才)
 ↓
パパ資康、帰らぬ人となる…たぶん

あってる?
(年齢は通説に基づいて計算しました。本当かどうかは調べていません。)


そもそも、

資康は、父道灌が殺されたあとのそんな状況で、江戸で家督相続なんてことが出来たのだろうか?それとも家督は相続していなかったのだろうか?


そもそも、

道灌の正室はどこのお嬢さんだったのだろう?

扇谷一門の娘だとか長尾家の娘だったとか様々言われていますが、資康が嫡男だったとして、44才の時の子ですよ(←しつこい。昔の話ですよ、昔の)。とすると、資康が正室の子のわけはないと思うので(いや、絶対とは言えないが)、実子だとしても若い別腹系の女人ではないでしょうかねえ。大きなお世話ですが。。。


あっ
もしかして形ばかりの正室はいても、女性にあまり興味がないとか…。だとしたら、我が北条氏照どののようですな(娘ひとりいるが真偽は不明)。

素敵~(腐)


な~んてことはナイナイ

だって、目黒の誕生八幡神社は、ジジ道灌が妻の懐妊にあたり文明の頃(1469~1486年)に筑前の宇美八幡を勧進した神社だと伝わっているそうです。御縁起が史実なら、この時にパパ資康が誕生したのだと思われます。


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~慈雲山観蔵院(練馬南田中)。道灌が石神井城を攻め落とし三宝寺を現在地に移転した時にこちらへ移り、末寺とされたと伝わる。奉納箱に、桔梗紋。~


話を戻し、再び隙間のこと。

例えば…ふたつの太田家

資康の家督相続があったのかどうかも含め、⑤の太田が江戸と岩付とに分かれることになる経緯には、何があったのだろう?というか、「二つに分かれる」という認識は当時あったのだろうか?主流の太田家はひとつであり、今で言うところの江戸太田は、あとから…例えば家康の愛妾英勝院一派が創った系統とかいうことはないだろうか?


北条がどちらとも縁組をしているということは、どちらも北条にとっては重要な相手だったということだったのだことには違いないとは思うのだけど…。

これは、私にはとても調べられそうもなかでごわすが、徹底的に調べている方達がいらっしゃいもす。ご承認の上、文末に添付しもした。


今、二人の浄心院殿日海のまとめをブログに書くべく、図書館でアチコチの市史や町史や系図や家記を調べたり、関連寺社へ問い合わせをさせていただいたりしています。

そうしたところ、勝浦正木氏 まで出てきて、勝浦正木は、私の北条氏照どのが取り次ぎをしていたこともあり脳内がますます混乱するばかりなり。


しかし、歴史ファンならご存知のように、系図というものは後の江戸時代に創作されたものが多いゆえ、それだけで判断することは出来ないですよね。系図や新出の史料の裏付けを取るには何年もかかります。もちろん私は取れないですが、プロの研究者の先生方が取ってくださるはずです。

なにとぞなにとぞ、よろしくお願いしもす。


素人のわらわが出来ることといったら…やっぱり、カノ地 へ行くことかな~。行きたいにゃ~。


はみ唐さんの「岩付城と岩付太田氏に関する定説を再考するの記事」https://ameblo.jp/hamikara/themeentrylist-10105261121-1.html

以前、岩付を築城したのは誰かということを地形から考察されているということでご紹介した方のブログです。謎の太田永厳についてもたくさん掲げられています。特に、私の現在の隙間を埋めてくれる家具…ならぬ記事、「太田資高は進駐軍だったのではないか」という仮説は、目からミツウロコ▲▲▲。


会計ねこ子さんのブログです。
https://ameblo.jp/zennchou/entry-12363860043.html

同じく、永厳の謎など岩付太田について精力的に調べて、ほぼ毎日書いてらっしゃいます。私は、「巨人東京とおしゃれ神奈川の人間」←by ねこ子さん(笑) なので、どうしても江戸太田だけを考えてしまいます。ねこ子さんのブログにより、岩付太田への注目が深まりました。


以下は、ワテの妄想ブログです。
「北条五代の娘たち ② 太田資高室~浄心院は氏綱の娘か道寸の娘か?」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2017/01/post-3f58.html

「江戸編~浄心院は氏綱の娘か道寸の娘か?」

「安房編①~浄心院は氏綱の娘か道寸の娘か?」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2018/05/post-69b9.html
「安房編②~浄心院は氏綱の娘か道寸の娘か?」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2018/06/post-dcd4.html


萩真尼 こと マリコ・ポーロ

画像は全てマリコ・ポーロが撮影しました。コメント欄をもうけております。公開させていただいてはおりませぬが、ご感想なりいただければ嬉しいです。にほんブログ村 歴史ブログへ

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