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2018年11月 7日 (水)

氏綱の鶴岡八幡宮再建と氏康の「大鳥居跡」

マリコ・ポーロ


その熱気はどれ程のものだっただろう。

鳴り響く木槌や大鋸を挽く音、町中に飛び交う威勢のいい掛け声、牛馬のいななき。海から次々と運ばれてくる資材。七口を通り続々とやってくる人々…。

枯るる樹に
また花の木を 
植ゑそえて
もとの都に
なしてこそみめ

by 北条早雲こと伊勢宗瑞


「枯るる樹」は衰弱した武家政権=鎌倉といわれている。

父宗瑞の決意を受け継ぎ、鶴岡八幡宮の再建を悲願とした二代氏綱。氏綱晩年の約10年は八幡宮再建に費やされる。そして氏綱の悲願は三代氏康に受け継がれた。


Img_20181102_215221_2
~氏康が完成させた大鳥居の跡碑(拡大して読める?ガードレールで正面から撮れぬ。)大鳥居建設の年については、マリコ・ポーロ的に少々疑問あり。~


こうして先代の意志を次代が着実に受け継いでいくというところも、北条五代の魅力のひとつ。


さて、
鶴岡八幡宮再興の大旦那である北条氏綱の命により、真里谷の協力の元、八幡宮の大鳥居となるべく2本の巨木が上総峯上から海を渡ってきました。しかし、その造営費用である相模・伊豆から徴収された棟別銭は、担当した僧侶が着服し 大鳥居造営は頓挫。ドびっくり~。

その後、氏康が父の悲願を受け継ぎようやく大鳥居は完成。その大鳥居の跡が残っているとは知りませんでした。


大鳥居がどのあたりにあるのか分からなかったのですが、当時はそこまで段葛が続いていたようなことも聞いていたので、「下馬」のあたりかと思い、海に向かってトコトコ歩きました。

ありました、ありました!
下馬からちょいと先、徳川さんが造った今の一の鳥居より少し八幡宮寄りにありました!当時はこのあたりまで海だったのですね。


碑と跡(丸く平たい石が重なったようなの)は、八幡宮から海に向かって右側。反対側の跡は、点字ブロッグの下に丸く示されていました。

ここに建っていたのですねえ


Img_20181102_215143
~八幡宮を背に右側。~


大鳥居のための巨大な古木は、太さ約6m。長さは約 20m。

上総峯上から → 川を下り佐貫浦へ → 海を渡り → 三崎に着き → 小坪へ回航 → 由比ヶ浜へ数千人で運びましたそうな。峯上から海まで川を下らせるのも大変な作業ですが、幸か不幸かなんと洪水が起き(不幸だ)、下流まで押し流してくれたそうな。


小坪から由比ヶ浜への曳き上げは八幡宮造営のメインイベントとなり、人々の興奮は絶頂に達したことでしょう。


Img_20181102_215248
~八幡宮を背に左側~


八幡宮の再建は、小田原北条氏が関東の武家の頂点であることを万人、特に関東の敵方に認めさせるための巨大プロジェクトでした。

皆様ご存知のことですが、八幡宮の神主や小別当を遣わし、坂東から伊豆あたりの武家から勧進という名目で寄付を徴収しています。これは、北条につくかどうかのリトマス試験紙でもあったのですよねえ。


対武家だけではありません。我らが氏綱公はしたたかです。鎌倉の住民感情をよく把握しています。今でも鎌倉の方達って地元意識が高く難しいでしょ(ゴメンナチャイ。ゴニョゴニョのニョ。鎌倉大好きよ チュッ)。

氏綱は、寺社はもちろんのこと、町衆巻き込み作戦も展開。伊東一美氏も書いてらっしゃいます。鎌倉は、武家の都市鎌倉ではなく、「寺社と町衆の都市鎌倉」だと。

あ!だから「武家の鎌倉」を訴求した世界遺産認定はダメだったのか。いや、ちゃうちゃう ゴニョゴニョのニョ。


氏綱は現場にしょっちゅう現われ、アチコチに顔を出します。アピールですね。時には、自ら西 門の柱を塗ったりもします(嗚呼、その塗ったところが今でも残っていればね~)。時には、由比ヶ浜で京都奉公の人達を連れて海人の方達と網引きをしたりもします。

本当に精力的ですねえ。なんだか秀吉を思い出しちゃった。あれ?


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~在りし日の大銀杏~


仮殿の上棟式の頃になると、氏綱の鎌倉での地位は絶大となります。

町衆たちも勧進をし、仮殿の礎石が少ないとなった日にゃあ、時宗たちが夜通しで石を集めて敷いてしまったとか。ドびっくり~。


やっぱりにゃ…と思ったのは、氏綱が後室の近衛家を通して呼び寄せた奈良興福寺の番匠たちと鎌倉・伊豆番匠たちとの間で様々なトラブルが起こり、蓄電者まで出たということです。

人の世の常。そりゃあるでしょうが、中央からも人を出させたことに、ドびっくり~。坂東の人々に、北条(伊勢)の八幡宮再興には都も協力していると思わせるだけでも十分な効果がありますよね~。


天文9年。鶴岡八幡宮正遷宮の儀式が華やかに行われます。翌年、大事業を成し遂げ次世代にその後を任せた氏綱は此の世を去ります。


氏綱が亡くなった後も建設はまだまだ続いているのですが、ここまで八幡宮造営について詳細に書き残していた鶴岡の社僧快元の記録『快元僧都記』もそのあたりで途絶えているそうです。

造営の大旦那である氏綱のことを書くのですから少しは話を盛っていることもあると思いますが、それを引いても快元の氏綱へ寄せるリスペクトには深いものがあったのですね。


大鳥居跡に立ち、目を閉じる。
過ぎゆくは海からの風。
再建時のあの喧騒が聞こえてくるようだ。



(以上は、大鳥居跡で当時にタイムトリップし見聞したことを元に書きました。

うそ。『快元僧都記(もちろん口語訳)』、八王子衆の先輩歴友にいただいた山室恭子氏『群雄創世記 1995.3』、先日のブログ記事の玉縄セミナーでの伊東一美氏が書かれたものを参考に書きました。)


萩真尼 こと マリコ・ポーロ


「北条氏綱が鶴岡八幡宮へ奉納した太刀」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2018/10/post-6e31.html
氏綱の鞍 「ススメ!小田原北条氏展」 馬の博物館」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2011/11/at-e4d3.html

「北条早雲が焼いた鎌倉の寺々」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2015/10/post-6e83.html
「北条早雲が開基した大船(鎌倉)のお寺」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2017/04/post-64df.html

「新田義貞の鎌倉滅亡の日を歩く」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2015/05/post-df71.html
「鎌倉に訪ねる後北条ゆかりのヒロインの寺」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2013/03/post-5cd4.html
「里見へ走った公方の姫」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2011/06/post-82f7.html


画像は全てマリコ・ポーロが撮影しました。コメント欄をもうけております。公開させていただいてはおりませぬが、ご感想なりいただければ嬉しいです。

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