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2019年3月21日 (木)

宗瑞が使ったかもしれない「小野神社の銅鐘」

マリコ・ポーロ

 

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~小野路「小野神社」~


🎵 鐘にぃ 恨みは 数ぅ数ぅ ござ~る~

と、鐘に身を隠した安珍を追い山路をひた走る清姫の如く、小野路「小野神社」の釣鐘をめざし現代の鎌倉街道をひた走る(バスで)マリコ・ポーロ。

いや、鐘に恨みはさらさら✋あらねど、小野路の小野神社に応永年間奉納の、刀傷がある古い銅鍾があるそうな。鐘は600年の間に回りまわって、今は重要文化財として逗子の海宝院にあるそうな。


以下、超ややこしい警報&超長文警告。


⛵ 小野路

街道や宿には皆さんの方がお詳しいと存ずるのでチョビットだけ。

小野路は町田市の北方に位置する。鎌倉と武蔵国の府中を繋ぐ古代からの交通の要所にある町で、江戸時代には宿が置かれていた。


戦国期は我らが北条氏照の八王子領であり、幕末には、名主だった小島家により天然理心流の道場が設けられ、近藤さんや我らが土方さんが出稽古に通ったりしていた。

土方さんの日野から小野路までは、現代の車なら30分位(混んでなければ)、徒歩(かち)なら2時間半ほどになる。京に上る前の土方さんは、欝々とした日々の中で何かデッカイことを成したいと(←想像💦)この道を通ったのだろうか。小島家は資料館にもなっていて、家に伝わる新選組ゆかりの資史料を展示している。(開館日が決まっています。)


⛵ 小野神社(旧小野大明神)

小田急線鶴川駅からバスに乗ること約10分。小野神社はちょうど街道が交差する三叉路の宿の入口に鎮座ましましていた。石段を登ると…

あった!
鐘は、本殿の回廊の右端に吊り下げられていた。

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おのれ、安珍!!

って、ちゃうちゃう✋


神社の入口にあった説明書には次のようにあった。
(鐘のところだけ抜粋)

…応永十年(1403)には、小野路村の僧正珍が寄進を募り、交通の安全を祈願して宮鐘を奉納した、朝夕に別当寺の清浄院(現在廃寺)の僧が宮鐘を撞いて旅人に時を知らせたという。戦国時代の文明年間に、両上杉の合戦で、この宮鐘は山内上杉の兵によって、陣鐘として持ち去られた。現在は、神奈川県逗子市沼間の海宝院に保管されている。宮鐘は昭和五十九年に…


本殿は高台なので3方の街道を見下ろすことができる。当時の鐘がどこに吊り下げられていたのかは分からないが、朝夕にこの鐘は宿に鳴り渡り、街道をゆく人達を見守って(見張って?)いたのだろう。


略奪は当時の戦では当たり前。文明年間の戦とはどの戦だろう?  刀傷はその時に付けられたのだろうか。

鐘の下へまわってみる。鐘の由緒が書かれたものが掲げられていた。


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神社の由緒書とほぼ同じだが、こちらには、

文明年間の両上杉の戦いの時に、
山内上杉の兵が陣鐘として使用し鎌倉に凱旋しのち若干年を経て海宝院に…

「鎌倉に凱旋し」という文言が増えていた。ふーむ。鐘はいったん鎌倉にも持っていかれたのか。その後、長谷川氏が手に入れるまでは百年はあると思うが、「若干年」とあるね。


説明書にあるように、鐘は今、逗子の海宝院の本堂内に保管されている。小野神社に今置かれている鐘は複製である。海宝院の本物は普段は見られないそうなので、複製でもよいから見てみたく、小野路へひた走って来たのだ、バスで。

鐘のことを知ったのは、逗子「海宝院」の伝承を読んだからである。


⛵  旧三浦郡の「海宝院」寺伝

往古武蔵国八王寺小野大明神の鐘にして 徳川幕府のころ 当郡高山城 則 北条氏の築かれし城へ軍用の為取り寄せ置き 其の後 当郡奉行職長長谷川氏へ軍功に仍て軍器と共に右鐘拝領相成 当院建立の際納められし鐘也
(逗子市HPより)


海宝院の説明書きや逗子市のHPによると、「当院建立」は、長谷川さんが代官として三浦郡に派遣された徳川入府の頃らしい。細かく言うと、最初の建立は横須賀村で、逗子に移ったのは慶長期だそうな。後から調べた『相模風土記』には、海宝院は天正19年に御朱印を賜ったとある。

鐘の移転について少し考えてみる。考えてみるのがメンドクチャイ方は文末近くまですっ飛ばし、しばし「小野路里山交流館」でまったり~☕してくだされ。


話はチト逸れるが…
なぜ、たかが鐘のことをこれだけ調べるのかと申すと、いつも書いていることだが、アクセス数も少ないこんな弱小ブログでも、ありがたくも読んでくださる方達がいる。マリコ・ポーロの書いたものなのでよもや全面信じたりはされないとは思うが、もしかしたら記憶のどこかに残ってしまうこともあるかもしれない。素人歴史ファンのブログとはいえ発信する以上は責任がないとは言えない。

過去のブログ記事も、何か気が付いたら追記なり訂正なりを出来る限りしてはいるが、どうしても追いきれない。だから、何かを見たり読んだりしても鵜呑みにせず、なるべく調べて調べて書きたいと思っているからである。

ちょっと、おこがましい?


神社の御縁起や御由緒には微妙なものがあるのは皆様ご承知のことだが、寺社は歴史の研究者ではないし、寺伝なども、歴史が今のように微に入り細に入りまくって研究され進化する前に書かれたものも多いので、それは仕方のないことだと思う。

海宝院の伝承についても、いつ作成されたものかは分からないが、鐘の最後の持ち主の長谷川さんが御自身開基の海宝院に寄進した時に鐘のことを何と言って書かせたかもかなり影響していることだろう。しかし、今のところそれしかないので、主にそこから鐘の移転歴を整理してみたのが以下。

あ、新九郎さんの出番はもうしばしお待ちあれ。←引っ張る引っ張る


話を戻し…

⛵ 鐘の移転歴

① 応永10年、八王子領の小野路「小野大明神(現小野神社)」の僧正珍が奉納
(鐘に刻まれた銘文/小野神社/海宝院などの説明書/町田市史・逗子市HPなどより)


② 文明年間の両上杉の戦時に山ノ内の兵が持ち去り、鎌倉に凱旋する
(小野神社の由緒より) 


③ 徳川幕府の頃、「当郡」の高山城(すなわち北条の築いた城)に取り寄せ置く
(海宝院寺伝より/「三崎志」←後述))


④ 「当郡」奉行の長谷川長綱が拝領
(海宝院寺伝より)


⑥-1 長谷川長綱が三浦郡の海宝院建立時に寄進
(海宝院寺伝/逗子市HPより)

⑥-2 文禄の頃、長谷川長綱が、菊名にあった三浦道寸の鐘を海宝院に移す
(「三崎志」←後述))


ざっと、こんなところで合っちょる?


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~逗子「海宝院」の四脚門。当時のままだそうで、朱塗(この写真で分かる?)に茅葺の屋根が素晴らしい。一見の価値あり。大船や逗子湘南藤沢あたりには茅葺の門をもつお寺がいくつかある。~


移転歴からは様々な疑問が出てくる。主な疑問の、三つ鱗ならぬ四つ鱗。

▲-1 まず、伝承の時系列が妙。

▲-2 当郡へ誰が、なんの軍用のために取り寄せたのか?

▲-3 山ノ内が略奪してから、当郡へ取り寄せられ長谷川長綱が拝領するまで、鐘はどこにあったのか?

▲-4 「当郡高山城 則(すなわち)北条の築かれし城」はどこなのか?←これが、新九郎さんに関係があるかもしれないこと。


そこで、もっと考えてみたい。

うぎゃ~😠もうどーでもエエ!という方は、文末近くの「小野路里山交流館」まで素っ飛ばしてくんなまし。


▲-1 時系列が妙?

鐘を取り寄せ置いたのが徳川幕府の頃で、③。長谷川さんが鐘を拝領し海宝院建立の際に寄進したのが文禄・慶長の頃で、⑤&⑥。

あにゃ~?海宝院建立の年代は確定できないが、慶長期だというのはお寺の説明書からもそこはかとなく読み取れるから、これは、③の「徳川幕府のころ」は、「徳川入府のころ」なのではないのかにゃ…。


▲-2 当郡へ誰が、なんの軍用のために取り寄せたのか?

まず、海宝院寺伝の「当郡」とは三浦郡のことである。この伝承は、三浦郡にあるお寺「海宝院」の伝承だから、当郡=三浦郡 と読み取れる。実際そのあとに続く文章に、同じく「当郡奉行職長谷川氏へ」とある。長谷川さんは当時三浦郡の代官であったから「当郡奉行=三浦郡の奉行」ということになる。

念のため、専門の諸先生方や、三浦市さんと逗子市さんにも確認したところ同様の解釈だった。

前半の「当郡」と後半の「当郡」が違う郡ということはないか?と伺ったところ、同じ文章内で「当郡」の意味が違うということはまずナイとのことだった。


誰が取り寄せたのかについては主語がないので絶対とは言えないが、もし長谷川さんだったとし、上にも書いたように、これを「徳川幕府のころ」ではなく「徳川入府のころ」とすると、時はまだまだ超々々不安定。長谷川さんの陣屋は浦賀だったそうだから、海防 のためということも考えられる?

う~ん。分からん!


▲-3 山ノ内が略奪してから当郡に取り寄せられ長谷川長綱が拝領するまで(小野神社の鐘の由来には「若干年」とあったが…)鐘はどこにあったのか?

その間約百年あるが、移転歴の③&⑥-2の引用として挙げた「三崎志」には、こう書かれている。

「陣ヶ台菊名にあり。道寸陣鐘此処にありしと。文禄中長谷川七左ェ門沼間海宝院に移せしなり」


「三崎志」は江戸時代(たぶん宝暦年間)に書かれた地誌であり、その正確性については私は分からないが、これによると…

新井城(三崎要害)の「外の引橋」があるあたり「菊名」に三浦道寸の陣鐘があったのを 文禄の頃に長谷川さんが海宝院に移した、ということになる。


ふ~む。

当郡(三浦郡)へ取り寄せ置いた…
というのは海宝院の寺伝にしかみられず、他の資料はみな、「山ノ内の誰かが略奪→文禄のころ長谷川さんの手に入る」と間の百年をハショッテいる。


ということは、山ノ内の誰かが鎌倉のあと三浦へ持ってゆき、菊名へ陣鐘として設置したのだろうか。そして、鐘はそのままそこへ(またはどこか他の所へ)、戦国時代の百年間置かれたままになっていたのだろうか。お寺の伝承からは、それしか読み取れない。

長谷川さんはそれをいただけるように申請して拝領とし、または、勝手にいただいちゃったのを「拝領」とし自身の寺へ納めたのだろうか?

分からんのう。


▲-4 徳川のころ、鐘を取り寄せ置いた「当郡高山城」とはどこなのか?

いよいよ新九郎さんこと伊勢宗瑞の出番…かもしれない。

なんだとー!ここまで引っ張ってきて、「かもしれない…」だとー!💢


コホッ。さてっと。


☆ 寺伝は記事のトップの方に挙げたので、再度ここに書くのでご参照くだされ。

往古武蔵国八王寺小野大明神の鐘にして
徳川幕府のころ
当郡
高山城
則 北条氏の築かれし城へ
軍用の為取り寄せ置き
其の後
当郡奉行職長長谷川氏へ
軍功に仍て軍器と共に右鐘拝領相成
当院建立の際納められし鐘也



☆ 繰り返すが、これは当時の三浦郡「海宝院」の寺伝であるので「当郡高山城」=「三浦郡高山城」とすると…

三浦郡に北条が築いた「高山」という砦だか陣だかがあって 約百年後(徳川入府のころ)、そこに鐘を取り寄せ置いたと読み取れる。(これも諸先生方に確認済み)。

これは、もしかして新九郎さん こと 伊勢宗瑞が新井城攻めの時に築いた陣ではないか?三浦に「高山」というところがないかどうか、三浦半島の地図を開いたところ、「引橋」や「陣場」あたりに「高山」というところがあることはある。もし、ここが寺伝の「高山」だとしたら、それは、宗瑞の新井城(三崎要害)攻めの時の陣場のことを指しているのかもしれない。


かもしれない というのは、以下より。

☆ 「逗子市文化財調査報告書 第二集』逗子市教育委員会」(昭和46年)こう書かれている。

~これら(小野神社・海宝院寺伝・三崎志・新編相模風土記など)を総合すると、北条早雲が三浦道寸の新井城を攻略の際、陣鐘として使用していたものが戦後その陣営地におかれていたものを、三浦郡代官長谷川七左ェ門が海宝院建立のとき寄付したものということになる。 ~


報告書には、早雲が使用して以来そこに置かれていたままになっていたのを、長谷川さんが海宝院に寄付したとあるが、そもそも、小野神社の由緒にも、海宝院の寺伝にも宗瑞のことは書かれていない。

『三崎志』には、菊名に道寸の陣鐘があったとあるが、

『相模風土記』に、菊名は早雲の陣営したところとあるので、

この鐘は道寸のものではなく宗瑞が使ったものだったとなり、

報告書の「早雲が新井城攻略の際使用した」

になったのだろうか?50年近く前の報告書なのでもう分かりましぇん。


そして、最後にもうひとつ。

うぎゃぎゃ~、ほんまこつ、もう、よかバッテン。マリコ・ポーロひとりで悩んでいろいっ!👊 って?というか、もうここまで読んでくださっている方はおらんと思うばってんとってんが、一人ぐらいはいらっしゃるかもしれぬゆえ。


あと少しなので、冒頭の小野神社のすぐ麓の「小野路里山交流館」でチビット一服☕してくだされ。


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~江戸時代の旅籠角屋を改装した「小野路里山交流館」。街道や小島邸を眺めながらコーヒーやうどんがいただける。お土産に里山コロッケや地の農産物なども購入できる。~


海宝院の、寺伝と鐘の由来書の差異

海宝院には、寺伝のほかに、鐘の由緒書がある。以下、由緒書の全文を4つに分け、↓ を付ける。


① 「鐘高一〇〇・六糎 鐘身七八・〇糎 口径五二・〇糎鐘の銘文によると、応永十年(1403)足利四代将軍義持の頃造られた、武蔵国八王子、小野大明神の宮鐘であることがわかる、文明年間(1469-1486)、扇ヶ谷、山ノ内両上杉氏の戦いの折、山ノ内上杉の兵によって持ち去られ」

② 「やがて永正十三年(1516)、北条早雲が三浦新井城に義同義意の父子を攻めたとき、これを陣鐘として使用したと伝えられている。」

③「徳川家康は、この鐘を八王子横山の高山城に軍用のため取り寄せた。」

④ 「のち長谷川七左衛門長綱が拝領し、海宝院創建のとき寺へ寄進したものだといわれている。 昭和五十年十二月 長谷山海宝院」


同じお寺のものなのに、由来書②&③の内容は、「往古…」の寺伝にはまったく書かれていない。寺伝の方が由来書よりは古いとは思うので、②は、逗子市さんの報告書を元にしたのかとも想像できるが、③は、どこにも書かれていにゃい。

当時のお寺さんは、どこから「家康」や「八王子」を引っ張ってきたのだろう。


もしかしたら、八王子の謎の「高山城」と「拝領」から推定して「徳川家康はこの鐘を八王子横山の高山城に…」としているのかとも思われるのだが、八王子の「高山城」は、八王子衆はご存知だと思うが、かつて発掘調査も行われたものの当時の文書などにはまったく現われず、その時代も機能も正確な場所も良く分かっていない。

また、八王子城は落城直後は上杉が在番しており、その後は大久保殿が代官として派遣されている。家康は落城の一年後に八王子を検分に訪れているが、大久保さんがいるのに三浦代官の長谷川さんがこの地に関係できるとは思えないのだが…。

北条研究の先生や学芸員さん方にこの件を尋ねたが、同様とはいわないが、そんなようなのことだった(もちろん、お寺の寺伝はあくまでもお寺に伝わる話なので…ゴニョ 、と皆さん異口同音の前提の上で)。


それとも、私がまだ見つけられない、家康や八王子が表れている史料が他にも何かあってこの由来書が書かれたのだろうか。

うーん、分からん。何か新しいことが分かったらまた書くことにしよう。まあねえ、戦乱が激しい時代、同じような運命を辿った鐘や仏像はたくさんあっただろうし、溶かされて鉄砲玉にされなくて良かったね。


そして、調べるにつれどんどん興味が深くなっていったこと、もしかしたら新九郎さん こと 伊勢宗瑞が陣場としたかもしれない「高山」を見つけたい。諸先生方にアドバイスいただいたことを参考に、三浦郡(現三浦市)を近々チョイトとうろついて、追ってブログに書きたいと思う。最も私がうろついてみたところで何も分からないとは思うけど💦。


☀ 最後に…
色々教えてくださった北条研究の某先生、鎌倉研究の某先生、逗子市さん、三浦市さん、歴史師匠の先輩方、お忙しいのに素人歴史ファンの問い合わせを調べてくださり、また、お返事もくださり本当にありがとうございます。お寺さんのことなので少しオブラートに包んだところもありますが参考になりました。心より感謝申し上げます。


「北条早雲が開基した大船(鎌倉)のお寺」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2017/04/post-64df.html
「北条早雲が焼いた鎌倉の寺々」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2015/10/post-6e83.html

ほにゃ。


マリコ・ポーロ こと 萩真尼

画像は全てマリコ・ポーロが撮影しました。コメント欄をもうけております。公開させていただいてはおりませぬが、ご感想なりいただければ嬉しいです。

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