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2019年5月30日 (木)

三浦道寸の娘は宅間上杉に嫁いだのか?

マリコ・ポーロ

シリーズ北条五代の息女たち
【二代:北条氏綱の娘たち、太田資高室~浄心院は北条氏綱の娘か?三浦道寸の娘か?】


先のブログに書いた、フリーズしてしまったブログ記事が1ヶ月後の今、突然現れ動き出しましたのでアップします。理由は分かりません。また、今まで書いた記事が、妙に改行されてしまっていたりしてカッコ悪くなってしまっています。でも、600以上の記事数を全部チェックして修正は出来ず、残念です。

さて、今回の内容は…まあ、こんなもんです。期待させてゴメンナチャイ
(^^;


Img_20190408_134022
~宅間上杉屋敷跡…ではないか?と言われる横浜上永谷の丘に、凛然と立つ一本桜。眼下( ↓)に永谷天満宮が見える。~


今までのあらまし

当ブログで足かけ4年にわたり続けているシリーズ「北条五代の娘たち」。関東公方、今川、吉良、葛山など当時の有力武家に嫁いでいるにもかかわらず、特に初代宗瑞と二代氏綱のほとんどの娘達についてはよく分かっていません。そのため調べることや訪ねる所も多くなり、いまだ氏綱の娘たちのを足跡を辿っている途中です。

中でも謎中の謎なのが、太田家に嫁いだ二代氏綱の娘、浄心院日海 です。なぜなら、資史料を読んだり縁の地を巡っているうちに、同じ法名の、同じ没年月日の、同じ菩提寺の、もう一人の「浄心院日海」に出会ってしまったからです。


その女人は、三浦道寸殿の娘でした。

あらたにご興味を持ってくださった方は、浄心院を追って江戸や安房を歩き回った今までのブログ記事をご覧くださるととっても嬉しいです(文末リンク)。


🍷 二人の浄心院

(北条浄心院)
父:北条氏綱
夫:太田資高、太田道灌の孫で江戸城にいた

(三浦浄心院)
父:三浦道寸
夫:太田資康、太田道灌の息子で三浦へ援軍した

私は北条から入ったので、北条の娘=浄心院日海 だとずっと思ってきましたが、三浦氏や太田氏を研究されている方達は、三浦の娘=浄心院日海 と思っている方が多いようです。この違いは面白いですねえ。


図書館へ通い、三浦浄心院のことも色々調べました。しかし、残されている三浦浄心院の記録は、北条側から入った私からすると、実家と夫が違うこと以外は、まるで北条浄心院をコピペしたかの如くでした。どうにも分からんのでござりまする。

私なぞより、本物の浄心院さまの方が戸惑っているでしょうし、もうお一人の浄心院日海だとされた女人の方は、自分の人生が違えて後世に伝わっていることに淋しい思いをしてらっしゃるかもしれません。


🐎 新資料(マリコ・ポーロ的に)

浄心院が氏綱の娘であることについての資史料はこれ以上見つけられなさそうなので、道寸の娘の足跡を辿ってみる方が早いかもしれないと思いました。と、そんなところへ小田原の北条師匠から衝撃の矢文(←オーバー💦)が届いたのです!

「新横須賀市史補遺編(平成23年)」に、道寸の娘が「宅間上杉顕重に嫁いだと推定される…」とあるのをみつけてくださったのです。かたじけのうござりまする!真偽のほどは分からないが、系図が載っており、その解説に書かれているとのことでした。


詳しく知りたかったので他にも書かれたものがないか図書館ホームページで検索しまくったところ、市史の他には、「関東上杉氏一族 (2013)」という、またもや黒田氏のものと、湯山学氏「中世史論集~関東上杉氏の研究 (2009)」しか見つけられませんでした。

▲ 黒田氏「関東上杉氏一族」 p364~ 367 あたり
▲ 湯山氏「関東上杉氏の研究」P271~281 あたり& P298~303(六郷殿について) あたり

まずは市史を読んでみましたが、市史は、黒田氏がこの本 ↑ に書かれている説を採ったものでした。横須賀市もか…。


それらによると…

三浦道寸のお嬢さんが宅間上杉に嫁いだということは、「清音寺本」系図にあるようです。「清音寺本」とは、江戸時代に水戸藩によって編纂された系図集「浅羽本」に掲載された上杉系図の、常陸清音寺に伝来されたと思われるものだそうです。そしてその清音寺本は今は伝来されていないとのこと。

その頃の道寸殿は山内方ですので可能性はありますな(あくまでも可能性のひとつですが)。宅間については、尊氏さまの母上の実家で、後半は北条につき、為さま衆(北条為昌の本光院殿衆)に組み込まれたことぐらいしか知りません。この機会に色々と読んでみたかったのですが、書かれているものは少ないのです。


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~永谷天満宮から宅間屋敷跡(とも言われている)の丘を眺めるの図。~


🐎 「清音寺本」のくだんの部分

ここで、湯山氏と黒田氏の本&市史に載っている「清音寺本」の、肝心なその部分を抜粋してみます。色と数字は、分かり易くするために(自分が)マリコ・ポーロがつけました。←かえって分かり難いぞー!という声も聞こえるが…。


「清音寺本云……其後 楊江院ノ代ニ。宅間ノ家ヲ江戸ノ道灌取立。楊江院ノ左衛門 息早世。其子寧蔵主ト云人還俗シテ六郎殿ト号。宅間ヲ継。六郎無子。而六郎弟ニ喝食アリ。是を束髪シテ号新五郎。三浦ノ婿ニナル家ヲ継ギ。六郎・新五郎。宗雲入国ノ時牢人シテ江戸ニテ死。新五郎ノ 中兄 極楽寺ノ宝塔院ト云律宗ニナル。後ニ岡田取成ニテ。宗雲ニ云ナシ。束髪宅間ノ家ヲ継。其子今宅間也。家名十郎殿。天文十八年比ハ廿七八歳ノ人也。其子太郎ト云々、」


この清音寺本によると、宅間は、太田道灌によって取り立てられ → 何代か続き → 新九郎さんの相模攻略時に江戸へ逃れ → 岡田さんの取り成しで北条の元において家を存続させたのですね。

そして、ありますねえ。⑤の新五郎さんが、三浦の婿になっていると。


🐎 「新五郎」って誰?

この時代の常で、「①楊江院」とか「②左衛門」とか「③名前の記載がない」とか「④寧蔵主・六郎」とか「⑤新五郎」とか「⑥極楽寺宝塔院」とか「⑦十郎」などで書かれており、ヤヤコシーですねえ。


新五郎の妻 について黒田氏は、道灌が取り立てた時代や宗瑞が入国した時代などから、新五郎さんの妻道寸殿の娘 と思われるとしています。また、湯山氏の方は、私が読んだ限りでは、「相模三浦の一族との交渉もうかがえる」としか書かれていないようで、新五郎さんには触れていませんでした。

 

湯山・黒田の両氏は、それらを他の上杉系図や年代などから割り出してくれています。

ところが…
違うんですよぉ。湯山氏と黒田氏の解釈が…。


上杉系図はあまたあれど、ワテが参考にしたのは「続群書類従」です(で、いいのかな?)。(中には、憲能のひいおじいさんの兄弟の方へ続いている系図もありました。)



Img_20190416_140207_1 


🐎 誰が誰?

以下に、お二人の違いを挙げてみました。ややこしいのでメンドクチャイ方は次の、🐎早い話が…まで、すっ飛ばしてくだされ。


湯山氏の系図は「続群書類従」掲載の系図類とほぼ同じで、* はマリコ・ポーロの補足

Photo_6  
~「続群書類従」~


Photo_5  
~黒田氏の本&横須賀市史~


① 揚江院
湯山氏の本(=記載なし/ ②左衛門の父を憲能とする)
黒田氏の本(=憲能/ ②左衛門の父)

② 左衛門
(=憲清/ ①憲能の子)
(=   〃/      〃         )

③ 早世した子息
(=定兼三郎)
(=    〃    )


④ 寧蔵主・六郎
(=六郎・朝重/ ②左衛門の弟)
(=六郎掃部助・定朝/ ②左衛門の孫)
も、定朝を②左衛門の孫としているが、定朝を六郎とはしていない。


*「能香
両氏とも「清音寺本」の系図には当てはめていないが、①憲能の子に 能香 という重要人物がいる。

(能香/ ②左衛門・④六郎・⑥宝塔院とは兄弟の、「六郷五郎(上杉五郎)」と呼ばれた人物としている。)
(能香/ ②左衛門 とは兄弟だが、④六郎・⑥宝塔院とは兄弟ではなく、甥の子供としている。)


また、能香の妻については、
(六浦の武田氏/ 橘樹郡の農家の記録より)
三浦道寸の養父であった三浦高救の女兄弟) 

なんだか、このへんアヤシー。。。


⑤ 新五郎
(記載なし)
(顕重/ ②左衛門の孫であり、定朝(黒④六郎)と ⑥宝塔院 の弟としている) 
*湯は、顕重を ⑦十郎  としている(⑦を参照)。


⑥ 極楽寺宝塔院
(宝塔院恵胤/ ②左衛門の弟)
(乗忠(国)/ ②左衛門の孫)
*湯は、乗忠(国)を ②左衛門 の曾々孫としている。

十郎
(顕重/ ②左衛門の曾孫)
(乗方/ ⑥ 宝塔院の孫)


以上ですが、ここでもう一度、「清音寺本」のくだんの部分を見てみましょ。


「清音寺本云……其後 楊江院ノ代ニ。宅間ノ家ヲ江戸ノ道灌取立。楊江院ノ左衛門 息早世。其子寧蔵主ト云人還俗シテ六郎殿ト号。宅間ヲ継。六郎無子。而六郎弟ニ喝食アリ。是を束髪シテ号新五郎。三浦ノ婿ニナル家ヲ継ギ。六郎・新五郎。宗雲入国ノ時牢人シテ江戸ニテ死。新五郎ノ 中兄 極楽寺ノ宝塔院ト云律宗ニナル。後ニ岡田取成ニテ。宗雲ニ云ナシ。束髪宅間ノ家ヲ継。其子今宅間也。家名十郎殿。天文十八年比ハ廿七八歳ノ人也。其子太郎ト云々、」


🐎 早い話が…

つまり、湯山氏(&続群書類従)と黒田氏(&横須賀市史)は、①憲能(揚江院か?)がいて、その子の②左衛門が憲清。その子が三郎(早世)までは同じ。そこからが違ってくるんです。

うにゃにゃ 😞
こんな書き方じゃ、何がなんだか分かりませんよね~。何が言いたいかと言うと…


▲ ⑤新五郎さんという人は、やはり、湯山氏・浅羽本はじめ上杉系図には出てこなくて、今は伝来していないという「清音寺本」にだけ出てくる。

▲ というか、そもそも ⑤新五郎さんの 兄弟だという ④六郎さんの比定が双方で違う。湯山氏の本では ②左衛門の「兄弟」になっており、黒田氏の本では ②左衛門の 「孫」になっている。

▲ 従って、④六郎 と兄弟だという ⑤新五郎は、黒田氏の本では 「顕重と思われる」とあるが、浅羽本はじめ他の上杉系図では、顕重は ②左衛門の 「曽孫」である。


う~ん。やっぱり何を言っているのか、話は早くなく、ワケが分からないですよねえ。すまんことですたい。


三浦の女人の兄(弟?)である道寸の息子義意の生年は、明応5年(1496年)とされていますから、女人もその頃の生まれとし、新五郎さんちが没落した宗瑞の相模侵攻を 永正の 1509~1516 あたりとして…(こんなことばっかりやってる💦)

あにゃ~、なんとなく、三浦の女人の年齢が合わなさ過ぎるような気がしないこともにゃいねえ。

ま、エエわ。


🐎 疑問

▲ この「清音寺」の宅間氏系図はどうやって出来上がったのでしょう。

▲ 道寸娘=宅間の妻 が本当なら、なんで江戸時代の三浦さんたら、道寸の娘を太田さんちに嫁いだことにしちまったのかいにゃ?系図というものはどこまで本当なのか…ゴニョゴニョ ですが、清本寺本だけ他の系図と違うのも妙ですかね。こりゃまた分からんのう。


🐎 別の説~真鍋淳哉氏

先日、戎光祥ヒストリカルセミナーの真鍋氏の講演の時に『三浦道寸』を購入。読んでみました。

道寸の女(娘)は今のところ一人とされていますが、真鍋氏『三浦道寸』には、娘は二人いて、それぞれ太田さんちと宅間さんちに嫁いでいるとしています。そして、宅間さんちのことは「黒田氏の説より」とあります。真鍋氏もか…。


🐎 別の説~戸塚市郷土史

今のところ、三浦道寸のお嬢さんが宅間上杉に嫁いだということは、江戸時代の水戸家が変遷したこの「浅羽本の清音寺本にある」という書き物だけです。また、これらのどこにも道寸の娘の法名のことには触れられていませんので、

道寸の娘 ≠ 浄心院日海

とすることは出来ません。しかし、清音寺本だけからすると、道寸の娘の夫である新五郎さんは江戸で亡くなっているようですから、妻もそれまで生きていれば江戸で亡くなっている可能性はありますね。


いっときは、北条浄心院=三浦浄心院、同一人物(三浦が滅ぼされた時、道寸の娘は氏綱の養女になり太田資高に嫁いだ)も考えましたが、やはりどうも年代に無理がありそう。分からんのう~~~。分からんが、こういうのを調べていくのは楽しいです。


しかし…
フリーズしてから一ヶ月。その時は夢中で書いたのですが、一ヶ月も経ってあらためて読んでみると、自分でも何書いてるんだか良く分からなくなってしもうた。

ここまで読んでくださった方、本当にありがとうございました。


以下は、まだまだ途中のシリーズ「北条五代の娘たち」のうちの、浄心院日海について書いたものです。

「北条五代の娘たち ② 太田資高室~浄心院は氏綱の娘か道寸の娘か?」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/201/post-3f58.html
「江戸編~浄心院は氏綱の娘か道寸の娘か?」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2017/03/post-aaec.html
「太田道灌の子息「資康」と、孫「資高」の不思議?」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2018/04/post-92ee.html
「安房編①~浄心院は氏綱の娘か道寸の娘か?」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2018/05/post-69b9.html
「安房編②~浄心院は氏綱の娘か道寸の娘か?」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2018/06/post-dcd4.html


マリコ・ポーロ こと 萩真尼

画像は全てマリコ・ポーロが撮影しました。コメント欄をもうけております。公開させていただいてはおりませぬが、ご感想なりいただければ嬉しいです。

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