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2019年7月20日 (土)

「北条の 城郭(支城)ネットワーク は本当にあったのか?」鳥居和郎氏

 マリコ・ポーロ

その前に…

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~会場入口では、この前に立って資正殿とツーショット写真が撮れる。~

横浜歴史博物館で開催中の「"道灌以後"の戦国争乱 横浜・上原家文書にみる中世」を観てきました。大変密度の濃い展示で、全部観るのにかなりの時間がかかりました。

長塚孝氏の「葛西城の攻防と東京湾の戦国」、黒田基樹氏の「太田道灌の子孫たち」の講演も拝聴しました。特に長塚孝氏のお話しのメインは、足利のヨッシー(義氏)と国府台合戦だったので、とても面白かったです。

それにしても、企画展のポスターや ツーショット写真が撮れるのは太田資正殿なのに、展示会場入口の太田系図に資正殿が載っていないのは何故だろう…?兄弟の資頼や女子まで載せているのに…。ふしぎ~。


本題へ。

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~講演「北条氏の城郭ネットワーク」レジュメと史料~


イメージをつくってしまうと、それが本当だと思い込んでしまうから…怖いですよ
(by 鳥居和郎氏)


このところ立て続けにそういう事例に遭遇しているので、他人事ではなく、超素人のたかがブログなれど自らも肝に命じてブログを書きたいと思いました。しかし、マリコ・ポーロ、はじめにイメージ有りきだからにゃ~…。


冒頭は、
北条の支城ネットワークは本当に「ネットワーク」だったのか?

って?いきなり目からミツウロコ
👀





小田原にて開かれた講座「北条氏の城郭ネットワーク」を拝聴してまいりました。

講師は元神奈川県立歴史博物館で現在は小田原市文化財保護委員会委員である、鳥居和郎氏。主催は、「小田原北条の会」です。会は3年前に発足。皆さんお馴染みの北条研究者の方達の講演などを毎月精力的に催しています。


講演の最初は発掘調査研究の現状についてでした。こちらに関しては、私の聞き間違い・勘違いなどがあると申し訳ないので割愛。へ~、そういうものなんだ~! という感じでした。(←気になっちゃいますかね。)

そこで例としてお話しに出たのが、「手づくねかわらけ は威信財なのか?」ということでした。


鳥居氏はこのことを数年前に論文に書かれたそうですね。とても興味をひかれましたゆえ、終了後に城内図書館でコピーし拝読しました。それは次回に。こちらも…👀 ▲▲▲(横向き~)でした。

色々な見方があるのですねえ。


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~本城小田原は、百合が真っ盛り~


講演は、当然に史料中心になりました。

また、鳥居氏は、「なるべく客観的に話すようにするが、自分は文献史学の人間なので、その面からの話になってしまう。だから全てが合っているわけではない」との旨の前置きがありました。上の赤字のフレーズはその時に発せられた言葉です。


支城制の展開
1.伊豆(口伊豆・伊豆奥)2.相模(西・中・東・三浦・奥三保)3.武蔵、それぞれの領とそれを管轄する城についての、詳しい解説。

支城制というのは北条だけではなく、どの戦国大名もやっていたこと。北条は印判状制度でその機能をより発揮した。


城の維持や管理について

1.郷村に対する賦課
銭で払う役銭-段銭・懸銭・棟別銭と城米銭
肉体労働の夫役-大普請・陣夫・廻陣夫

役銭は、氏康の時に3種類(段銭・懸銭・棟別銭)に整理されたが、文書(相模原の田名への朱印状など)によるとその後も城米銭が使われている。これは、「追加」ではなく「名目」か?


ここでビビッ!ときたのが、「竹千代殿の御飯米」
~玉縄の城米銭を小田原へ持ってくるように。これは、「竹千代殿」のご飯米で使う。~

永禄8年9月3日の田名(玉縄領)への朱印状です。永禄8年に小田原にいた竹千代「殿」!? 家康では年齢が合いません。小田原にはたくさんの他家からの預かり人がいましたからねえ。


あ、いかん、いかん。「イメージを作ってしまうと怖い」でした。人質とは限りませんよね。

永禄8年。国府台が終わり、岩付から三楽斎殿を追い、氏康殿が関宿を攻めた頃ですね。この竹千代殿とは、どなたですか…?


2.職人に対する賦課
鍛冶・番匠・船番匠・大鋸引・石工など


3.家臣に対する賦課
役(普請)、人数着(軍役)、出銭(銭)

例えば、岩付の氏房さんが道祖土氏(さいと氏-正確な漢字がPCで出ません)へ、本城へ人足を出すようにとの朱印状があります(天正15.2.6)。


道祖土氏は岩付の有力国人で、現在も岩槻にお住まいの家だそうです。これは、支城主が、本城への人足を自身の領域の有力国人から出させるという指示書です。

(それにしても鳥居氏、終始、「国衆」という言葉はお使いになりませんな。ワテもワテの知人方にもそういう人多いですが。)


例の、六郎さん(佐野の氏忠)が、某城(前欠のためどこの城か不明だがたぶん本城小田原)での番衆についての指示内容にもあるように、何度も何度もどこへも同じ指示がされているということは、つまり、それが徹底されていないからだと。

そうか…。そういうことって、今も普通によくあることですよね。例えば「掃除をしろ」という文言についても、これだけ書かれているのだから、さぞや城は綺麗に掃除されていたのだろうと私は思っていましたが、違うかもしれないんですね。何度言っても(書いても)出来てないから、また言う(書く)ということか。

ってことは、けっこう汚れていたってことでっかね? 掃除しようよってね。


イメージをつくってはいけないね。多方面からみないとね。

そして、城への兵力配置の様子などを、主に朱印状を元に解説してくださいました。面白かった~。


史料からみる本城と支城

まとめです。
以上の私の書き方では伝わりにくくて申し訳ないですが、本日のポイントは、果たして北条の「城郭(支城)ネットワーク」というものは本当にあったのかということを様々な史料から検討したところです。


北条の特徴のひとつであるといわれる「支城ネットワーク」。講演のテーマが「北条の城郭ネットワーク」でしたから、私は、そのネットワークがどういうものだったかの話かとばかり思っていました。「そもそも論」からくるとは考えたこともなかったので、目からミツウロコが落ちたのです。

もちろん、「城郭」も「支城」も「ネットワーク」も当時は無かった言葉です。鳥居氏いわく、「実はネットワークという言葉の検証はされていない」「なんとなく使っている言葉」とのこと。


「ネットワーク」の意味を調べると、それは「相互」に働くものとなっています。しかし、本日参考とした史料からうかがうと、確かにそれは「相互」には働いていないです。

鳥居氏は、
‐ 史料をみる限り、双方向的なものではない
‐ 支城ネットワークというより、本城からの一方的な指示のよう


受講者からの質問「支城間での相互援助のようなものはあったのか?」に、
「たぶん、ない」。


そして、最後の天正18年の頃。
本城は支城の精鋭たちを本城に全部集結させ、仮に「支城ネットワーク」のようなものがあったとしても、それは完全に機能しなくなってしまった、と。

…無念なり  by マリコ・ポーロ


支城ネットワークについて、あらためて考えてみたいと思いました。

というところで、次回のブログ記事は、同じく鳥居和郎氏の論文より、「手づくねかわらけ は権威の象徴だったのか?」を。


玉縄城の会でも、江戸湾の北条水軍についての真鍋淳哉氏の興味深い講演があったのですが、なかなか書けないでいるんです。

それから、
↓ 「小田原北条の会」、次回の案内です。

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マリコ・ポーロ こと 萩真尼


画像は全てマリコ・ポーロが撮影しました。コメント欄をもうけております。公開させていただいてはおりませぬが、ご感想なりいただければ嬉しいです。

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