« 「北条の 城郭(支城)ネットワーク は本当にあったのか?」鳥居和郎氏 | トップページ | 消えた「豊島一族」はどこへ? »

2019年8月 6日 (火)

「手づくねかわらけ は権威の象徴だったのか?」鳥居和郎氏

マリコ・ポーロ


Img_20190806_115554

「手づくねかわらけ は本当に威信財だったのか? その流通や価値観からみたらそうではないのではないか? かわらけ をもらって喜ぶのだろうか?」

前回のブログ記事で書いた、「小田原北条の会」主催の 鳥居和郎氏 による講演 「北条の城郭(支城)ネットワークは本当にあったのか」での、「イメージをつくってしまうと、それが本当だと思い込んでしまうから…怖い」のお話しの中で鳥居氏がおっしゃいました。


ビビッ!ときたので、論文を拝読しました。『戦国大名北条氏と手づくねのかわらけについて』神奈川県立歴史博物館 研究報告 人文科学 第40(2013年)です。

目からミツウロコ
👀


▲ 
アゲイン


カラオケ♪ …ちゃう、かわらけ や 手づくねかわらけ については、マリコ・ポーロなぞより皆様の方が良くご存知のことだと思いますので省くとして。

手づくねかわらけ は ロクロ成形の量産品とは違い格の高いもので、北条に関しては当初は本城主が生産し、儀礼に使われ、何かのおりに支城主に下賜されるものであり、当主の権威を示すものだ、と私は認識してきました。

ところがギッチョン。


● 手づくねかわらけ は威信財だったのか?

p>

しょえ~。そんなこと考えたことも読んだこともなかっただ。


そう言われちゃうと、すぐ、確かに~(-_-) かわらけ は使い捨ての食器。素材も単なる土だしね(土物の陶芸家の方すみもはん)と思っちゃうマリコ・ポーロ。

でも 手づくねは、支城より本城からの方がたくさん出てきているし、博物館の展示では特別扱いだし、白だのピンクだのと分類され、なかには年号が入っていたり金箔を貼ったりしているものもありますよねえ。唐物ではないけれど、なんとなく価値高そ~な雰囲気。


論文には、「「権力の象徴」とみることには慎重になる必要があり」「継続的に使用された背景には、当主の「好み」という要素も考慮する必要があろう」とありました。

また、北条の かわらけ の研究は、「発掘資料という性格上、考古学的な手法で分析がおこなわれ…」、「発掘状況からみると、そのような解釈は可能となるのかもしれぬが、他の視点も交えて見ると別のイメージも浮かび上がってくるのではなかろうか。」ともあります。


それが、上に書いた、その流通や価値観からみるとか、かわらけ をもらって喜ぶのか?ということなんですね。元々の 手づくねかわらけ の価値がどれほど~ だったかですよね。例えば氏綱公が今川とか京から 手づくねかわらけ を頂戴して「威信財」と感じるほど嬉しかったのか?

もしかしたら、単なる氏綱様のお好みとして、「お!ちょっと味があって良いのう」だったかもしれない。支城主に与える時にも、「これをそちに進ぜよう」と三宝に載せて恭しく渡したのではなく、「ワシの好みなんじゃが、ちと良いじゃろ~。あげる。」とおっさっただけかもしれない。


でも、いただいた方の息子や孫や重臣達は、大途がくださったものだから大事にしなきゃと思ったかもしれないし。そして、次の世代になっていくと当主や息子たちが支城で儀式を行う時なんかに持ち込んで使うようになった…

あ、イカンイカン。どんどん脳内でイメージがつくられてしまうだよ。


● 小田原での手づくねかわらけ登場のキッカケ

手づくねかわらけ の北条での使用が始まったのは氏綱の頃ですよね。私は、それは、北条の支配が確立し始め、幕府の儀礼の導入や京の武士達の小田原への流入が盛んになったからだと思っていました。

しかし、もともと伊勢家は儀礼の本家本元であり、ましてや将軍の申次である新九郎さんは武家儀礼については専門家。息子の氏綱も、とっくのとうにそれらのことは承知の介。だから、「北条家に手づくねかわらけが登場した契機を、同家が幕府の儀礼を導入することに伴ってとみることは、やや説得量に欠けるところがあるのではなかろうか」と論文にはありました。

確かに~(←すぐ、また)


Img_20190415_235402
~その頃のことは ↑ ここに。「新九郎、奔る!」ゆうきまさみ 小学館。~


では、キッカケはなんだったのだろう?

氏綱様の仲良しイトコ今川氏親さまのところでの手づくねかわらけ の登場は、氏親さまが京から中御門家の姫(寿桂尼)が嫁いできた頃。そして、北条で手づくねかわらけ が登場したのは、氏綱様が近衛さんから後添いをもらわれた頃。


論文には、「このような両家の状況は偶然の一致とは思えないものがある」「公卿家の女性との婚姻が契機となったと考えることも不自然ではない」と。つまり、武家の下向ではなく、公家の下向がそのキッカケかもしれないということですか。確かに~(あっ、イケネ💦)

でも、「裏付ける史料も存在しないため可能性を指摘するにとどめる」って。


むすび

手づくねのかわらけが、清浄な食器(一回使ったらもう使わない)という本来の機能に加えて、北条氏の権力の象徴という評価が行われることについて、

「この評価には、権力者側(北条氏)だけではなく、支配される側もその価値観を共有する意識がないことには成り立たない。… 検出状況からはそれらを読み取ることができず…」。


そして、登場キッカケ状況が類似する今川家では、手づくねかわらけ は定着しなかったそうです。では、なぜ北条家では定着したのか?ロクロ成形も外見を「手づくね風」になっていったので、それらの理由を考えることも重要であるとされています。

ここまで読んでくると、それはやっぱり、おっさる通り、五代当主の「お好み?」って思ってしまいましたが、論文でも「そこには「権力の象徴」というような意識は存在せず、単なる「嗜好」の領域と考えることができるのではなかろうか」。


以上、私がビビッ!ときたところだけを書きました。万が一、勘違い間違いがあると鳥居氏に申し訳ないので、ご興味がある方は論文を読んでみてくだされ。手づくねかわらけの本城から支城間での移動など、もっと色々なことが書かれています。


「戦国時代の「ウズマキかわらけの謎を解く」展」(2011.2.23)

「北条の「城郭(支城)ネットワーク」は本当にあったのか?」(鳥居氏講演)


マリコ・ポーロ こと 萩真尼

画像は全てマリコ・ポーロが撮影しました。コメント欄をもうけております。公開させていただいてはおりませぬが、ご感想なりいただければ嬉しいです。

にほんブログ村 歴史ブログ 戦国時代へ
にほんブログ村

|

« 「北条の 城郭(支城)ネットワーク は本当にあったのか?」鳥居和郎氏 | トップページ | 消えた「豊島一族」はどこへ? »

2.北条の小田原」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



« 「北条の 城郭(支城)ネットワーク は本当にあったのか?」鳥居和郎氏 | トップページ | 消えた「豊島一族」はどこへ? »