消えた「豊島一族」はどこへ?
マリコ・ポーロ
~練馬城付近のかつての石神井川(石神井公園ふるさと文化館展示より)~
文明9年4月。
太田道灌によって練馬城から誘き出された豊島方は、江古田原にて敗退。石神井城も落城し、豊島方は逃亡する。
翌、文明10年1月。
豊島方は「対城 むかいじろ」平塚城を築き道灌に対峙するも、戦わずして北へ逃走したまま歴史上から姿を消した。
それから早(か?)541年が経つ。
酷暑ゆえ講演会のことばかり続きますが、昨日は、石神井城で催された豊島一族についての講座を拝聴して参りました。主催は「江古田の歴史を知り繋げる会」。講師は、坂東戦国史、特に豊島一族の研究ではお馴染みの 葛城明彦氏です。
こたびの講演では、道灌時代より以前の、豊島一族の平安後期~南北動乱期についても詳しく解説がありました。あまり(ほとんど💦)覚えていないあたりだったのでとても興味深かったです。
初めに…
● 豊島?豊嶋?
以前から当ブログでは「豊島氏」と書いておりますが、本来は「豊嶋氏」だそうですね。当時の記録でも「豊嶋氏」とあるそうです。遥かに時代は下って、「豊島区」が出来てから「豊島氏」と使われることが多くなったそうです。
● 豊島泰経の名前
豊島氏は代々、鎌倉北条の「北条泰時」の「泰」を使っていると言われています。坂東戦国時代好きの私達が一番知っているのは「豊島泰経」の名前だと思いますが、実は「泰経」という名は江戸時代に出てきたもので、今の歴史研究者や豊島氏ファンは「泰経」とは言わないそうですね。『道灌状』などの当時の記録には「豊島勘解由左衛門尉」と官途名があるのみで名前は不明だからだそうです。
ほにゃ、にわか仕込み の豊嶋一族の歴史をレジュメを元に(ほとんど書き写し状態)時代順に書きながら、余談を混ぜて一族の興亡を辿ってみたいと思います。余談の面白い話が多過ぎてここに書ききれないのが残念なり。
▲ 豊嶋氏とは
豊嶋姓の初出は、治承4年(1180)『吾妻鏡』。
初期は川や海での交易が中心 → 農業中心となり → 四百年余り続いた一族。
▲ 源氏に従っていた、平安後期~鎌倉初期
(保元の乱)豊嶋俊経、源義朝に従う
(平治の乱)豊嶋清元、滝野川にて首藤家通を討つ
この 清元=法名清光 の代に豊嶋氏は鎌倉幕府の御家人として勢力を拡大。
ここが一族の 最盛期 ヾ(´∀`)ノ
☆ 余談のひとつ「平塚神社の甲冑塚」
豊嶋氏が源義家から賜った鎧を、元永年間に埋め塚を築いたとあるが、この塚は、甲冑を埋めたのではなく古墳(たぶん)。
▲ 鎌倉北条についたと思われる、鎌倉中期
嗚呼、しかし…
(仁治2年/1241)清元の曽孫である豊嶋時光は自身の所領(豊島荘犬喰名=北区尾久か?)をサイコロ博打の質とし、その罪で所領を没収!
ドびっくり~ (@_@)
▲ 新田義貞についた、鎌倉幕府滅亡時
(元弘3年/1333)分倍河原で幕府軍を打ち破る。
☆ 余談のひとつ「石神井の道場寺」
中先代の乱を起こした北条高時遺児・時行の子を、石神井城主豊島景村が養子とし建立と伝わっている。しかし、この頃このあたりはまだ豊嶋氏の所領ではない。
たぶん、豊嶋氏の前にこの辺を支配していた宇多・宮城などの菩提寺を、のちに豊嶋氏が中興したものであろう。
▲ 足利方についた、南北朝時代
(貞和5年/1349)豊嶋宗朝に石神井郷が譲り渡され、豊島一族による石神井の支配がはじまる。
これを一族の発展とみるか衰退とみるか?というと、衰退であろうと。勢力が衰えてきたので、このあたりへ来たのではないか。
また、本拠地を移動させたのはこの頃だと思われるが、(応永2年/1395)に以前没収されていた石神井郷を戻された直後かもしれないとのこと。
☆ 余談のひとつ「豊嶋泰景」
初代の石神井城主は豊嶋泰景で、次代が景村とされているが(『新編武蔵風土記稿』)、泰景・景村が実際にいたかどうかは不明。
▲ 平一揆
(文和2年/1353)武蔵野合戦での尊氏さま方の勝利により、貢献した平一揆の中心となった豊嶋氏も少し盛り返す
ヾ(´∀`)ノ
が、しかし…
↓
尊氏さま子息基氏&執事の上杉憲顕は平一揆の勢力拡大を警戒(たぶん)
↓
(応安元年/1368)基氏死去の翌年、ついに平一揆は上杉憲顕とぶつかる!
↓
上杉方の勝利
↓
豊嶋氏は領地をうばわれ、また衰退
(ノД`)・゜・。
↓
以後は上杉に従う
豊嶋氏は入間川(隅田川)や江戸湾沿いの活動をやめ、石神井川沿いの開拓を始めて付近の土地に根付いた領主となっていったのではないか?そして、
石神井城・練馬城の築城
石神井城と練馬城は、三宝寺池や石神井川の水源をおさえるための城とみるのが一般的だそうですね↓
チト休憩
~石神井城の戦国期の溝の跡(オレンジ)は ↓ のように垣根で示されているそう。知りませんでした。~
~溝で囲まれたエリアはけっこう広さがあります。何に使われたのでしょうか?~
休憩おわり
▲ 滅亡への一歩、享徳の乱
関東は、利根川・渡良瀬川・荒川をはさみ、上杉方と足利公方方に二分する。豊嶋氏は上記のように上杉方。地理的にもまわりはすべて上杉方だったから。
(長禄元年/1457)太田道灌により、足利公方と戦うための最前線基地として江戸城・河越城・岩付城が築城される
&
(同年)江戸と河越を結ぶ軍用道路として、河越街道 を整備する
☆ 余談のひとつ「川越街道」
当時の河越街道は、3㎞ ぐらいもっと北にあった。
江戸時代以降は農道として使われるようになり、急坂もものかはの最短距離で両城を繋いでいた直線道路では通行が大変。緩やかな場所を通ることができるように変わっていったそう。
また、川越街道は当時だけではなく実は現在も軍用道路。街道沿いの施設を考えてみてごらんくだされ。
話を往時に戻し、
↓
そして、江戸や川越街道周辺に領地を広げたい道灌殿にとって豊嶋氏は、だんだんだんだん、だんだんだんだん邪魔な存在に…
(>_<) アチャー
しかし一応味方同士なので攻めるわけにもいかない。では道灌殿はどうしたか?
豊嶋領内へ、どんどんどんどん寺社を建立したのです。つまり、領地を浸食し、道灌自身の領から住民も移住させたそうです。これらになす術がなかった豊嶋氏の力はかなりの衰えですな。
豊嶋氏はどうしたらいいのでしょうか?
▲ 長尾景春の乱
(文明5年/1473)長尾景春の乱勃発!
豊嶋氏は、長尾景春につくのですね~。
講師の葛城氏はこれを、「豊嶋氏勢力回復のための最後のチャンス!」とおっさいます。
↓
(文明9年/1477)豊嶋勘解由左衛門尉(いわゆる泰経)&平右衛門尉(いわゆる泰明)の兄弟は、
石神井城と練馬城を戦闘用にリフォーム
河越街道閉鎖できまっせーん(by 織田裕二)…ちゃうちゃう、閉鎖します!
開戦!!
以下は以前ブログに書いた「江古田原古戦場」の記事(文末添付)とほぼ同じですが、よろぴくご覧くだされ。
▲ 豊嶋軍 vs 太田道灌「江古田原合戦」
(同年3月14日)道灌、相模の兵を呼び寄せようとするも、川の増水にて失敗
(同年4月13日)道灌、少数にて豊嶋弟の練馬城に矢入れし周辺に放火
↓
豊島方、練馬城・石神井城両城から出撃!
「豊嶋方は、道灌が相模からの増員が出来なかったことを知って、勝てる!と思ってしまったのかも…」by 葛城氏
↓
道灌軍、逃げるふり
↓
道灌「馬を返して」🐎 江古田原で迎え撃つ!
伏せておいた兵達とともに三方から攻撃!両軍、総力戦。
江古田あたりは、これまで道灌殿が着々と築いてきた寺社が取り囲むエリア。つまり、道灌軍の基地状態。
↓
豊嶋軍、敗退
☆ 余談のひとつ「平塚城」
道灌殿が最初に攻めたのは平塚城だとする説が通説でしたが、これは『鎌倉大草紙』の作者の誤解だそうです。
▲ 豊嶋軍 vs 道灌「石神井城攻め」
(同年4月14日)道灌、城山(現・早稲田高等学院付近)に布陣
(同年4月18日)豊嶋方、降参/城の取り壊しを命ずる
(同年4月21 or 28日)豊嶋方が実行しないため、道灌、再び攻撃
↓
豊嶋方、夜逃げ
☆ 余談のひとつ「彦五郎」
どうやら豊嶋本家の彦五郎殿という方は、寝返ったようです。文明2年・福徳元年の板碑や上杉の感状などに名前があるそうです。その後も現在に至るまで、地元の有力者として同地に住んでらっしゃるそうです。
まあ、皆さんご存知のように、自家を守るためには当時はこんなこと日常茶飯事。誰もやっていることです。
▲ 豊嶋方の再蜂起
(文明10年/1478 1月)豊嶋方、平塚に「対城」を築く
↓
道灌軍、平塚城へ向かう
↓
豊嶋方、戦わずして北へ逃亡
↓
以後、現在に至るまで豊嶋宗家の行方は不明
☆ 余談のひとつ「小机への逃亡」
豊島方は丸子城(川崎)から小机城に逃亡との従来の通説は誤りだそうです。記されているのは「(道灌は)北へ逃げた豊嶋方を追いきれず、その夜江戸に戻った。翌朝、丸子城の攻撃に向かった」とのみ。
北へ逃げた豊嶋方が、翌朝川崎に現われること、および、道灌が翌朝までに豊嶋方の逃亡先を突き止めることは不可能だからだそうです。
▲ 豊嶋はどこへ向かったのか?
この時、豊島が頼れるのは長尾景春と公方ぐらい。葛城氏いわく、北に向かったということは、古河に向かったのだろうか?そして、その途中で落ち武者狩りにでもあい古い名族は消えてしまったのではないだろうか、と。
ふぅ~。以上でござる。講演の内容はこれで合っているかな。不審な方、もっと知りたい方は、葛城明彦氏の著作「決戦」をお読みくだされ。
講演の後半は、石神井城に伝わる照姫伝説と金の鞍伝説がどのように作られていったかの話でした。
ほにゃ。
「太田道灌 vs 豊島一族の「江古田原古戦場」」
「豊島一族の「練馬城」を歩く」
「講演 太田道灌と豊島一族 2013」
マリコ・ポーロ こと 萩真尼
画像は全てマリコ・ポーロが撮影しました。コメント欄をもうけております。公開させていただいてはおりませぬが、ご感想なりいただければ嬉しいです。
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