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2019年11月26日 (火)

玉縄城下の探索会へ(2019.11)

マリコ・ポーロ

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~玉縄城下にある「玉の井戸」。氏繁の室、七曲殿がお茶に使ったと伝わっている。~


昔、鎌倉の水は山の方へ行くと鉄分が多く、海の方へ行くと塩分が強いというもので、鎌倉は良質な水に恵まれない土地だったそうな。それで「鎌倉十井」などと言われるように井戸が大切にされたそうな。

この「玉の井戸」は鎌倉十井ではないが、七曲殿 がお茶に使う水を探していたところ重臣の井戸の水が美味しかったため、七曲の館から毎日汲みにこさせていたと言われているそうな。



七曲殿 とは、北条氏康の娘で、玉縄北条の綱成の息子氏繁の室であった 新光院殿 のことである。城内に「七曲」という場所があるが、そのあたりに屋敷があったのでそう呼ばれたとされている。

井戸の水は玉のように美味しい水だったので「玉の井戸」と名付けられたそうな。井戸には特に案内板などはなく、個人宅の所にある。


ということで、玉縄城址まちづくり会議 さんが主催する「玉縄城まつり」の、玉縄北条研究ではお馴染みの大竹正芳氏の案内による玉縄城址探索会に参加しました。城内へは入ったことがありますが城まわりを案内していただくのは初めてで、色々と興味深い発見がありました。

行事は、まずは玉縄北条六代の菩提寺龍宝寺本堂での北条早雲没後五百年の法要が営まれ、次に寺内の古民家にて、同じく玉縄初め逗子や鎌倉など三浦半島の戦国時代研究ではお馴染みの伊藤一美氏が、玉縄北条六代についてしみじみ~と(?)お話しされました。続いて上泉信綱の流れを組む新陰流の、身が引き締まるような演武がありました。



🐎 探索会に出発!

玉縄城・玉縄領の機能や歴史や玉縄衆については皆さんの方が詳しいと存ずるし、どこにでも書いてあるので割愛。玉縄の舟運のことや柏尾川の舟溜まりのことは、追って、いずれ、いつかは、以前の講演で伺ったことを書きたいと思います(思ってばかりで全然書かないけど)。



上にも書きましたが、玉縄は、城内にはガイドツアーで入ったことがあるのですが(文末添付ご参照くだされ)城下は初めてです。玉縄に限らず岩付や葛西のように住宅街になってしまっている城跡は多く、そういうところは教えていただかないとどこがなにやら分かりません。城跡歩きの強者は古地図や絵図面を見ながら住宅街を、なるほど、なるほどと歩かれますが、城郭に不得手で、その上、超ド級の方向音痴のマリコ・ポーロ にはトント無理。


▲ 七曲坂

ご存知、鎌倉側から城内に入る口で、七曲殿(新光院殿)の屋敷があったとされるところでもありますね。

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8年前の写真が ↑ です。建物に遮られておらず、また、階段ではなく土の坂でしたので往時の雰囲気を想像できるい~い感じでした。今は階段や幼稚園やマンションが出来、下から見上げる景観が随分と変わっています。 でも、階段になったおかげで、この日のような雨の日も快適に登り降りができるようにもなりました。

マンションのところに公園を造ってくれていて、そこにマンション建設時の発掘調査のことが詳しく書かれていました。是非読んでくださいと、大竹氏。


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七曲階段(?)は突き当りを右に行くようになっていますが、それは新しい道で、旧道は左へ行って太鼓曲輪へ至るそうです。侵入禁止の柵がありました。


▲ 太鼓曲輪

玉縄城の往時を偲べる、自由に入れる唯一の場所です(あとは学校や個人の敷地裏などなので所有者がいらっしゃいます)。七曲坂からの旧道を行けないので、右側から廻り上がります。

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太鼓曲輪からは、南側の下に硝煙曲輪の平場を見ることができます。探索会では硝煙曲輪に降りることになっていましたが、雨で足場が悪くて行けず残念なり。

太鼓曲輪も個人のお宅の畑だったそうですが、玉縄城を訪れる人達が自由に入れる遺構がないため、地主さんと契約をして入れるようになったそうです。ありがたいです!

七曲坂の旧道は、太鼓曲輪の南側の堀切の堀底を通り、尾根の反対側の曲輪に出るようになっていたそうです。


▲ 城主の館

発掘調査により分かった門の跡や、木が生い茂って見えなくなっている堀の跡や、残った家臣のオウチなどを教えていただきながら、学校の周りの住宅街を坂を登ったり下りたりグルグル歩きました。学校が出来たことを嘆く方もいますが、私はむしろ学校が出来たことでかろうじて残った城内遺構があるのだと思っています。学校がなければ、これら全部宅地開発されてなんも無くなっていますよぉ。



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城主の館があったとされる場所には、こちらもド真ん中にマンションが建っています。発掘調査では、池跡や、なんと並木道跡も出てきているそうですね。

並木道!
綱成ったら、すてき~☆ いや、氏繁かもしれんが。趣味人だし。

たまに氏康殿と轡を並べ、「孫九郎、この並木道はよいのう~(並木道と言ったか?)。小田原にもほしいものじゃ。」「はっ。お褒めに預かり恐悦至極」なーんて、鎌倉街道下道から → 池を眺めながら並木道を通り → 七曲を上り → 城内に入っていったのでしょうねえ(黄色い矢印)。

あ!妄想してたら伺い忘れた。並木道にはなんの木が植えられていたのでしょう?


▲ もっと妄想ですぅ~

(その1)
早世した為さま(為昌)は、その勢力拡大を懸念した兄氏康・綱成ペアによって抹殺されたのではないか…。
これは、歴史師匠や歴友さんたちでもけっこう言う方が多いです。


(その2)
綱成は氏康の腹違いの弟、つまり氏綱の息子だったりして…?
以前にも書きましたが、色々かなり特別扱いされていることが多いので、フト、身分の低い女人とかの所生だったのではないのかにゃ~と思った次第。なんの根拠もありまへん。

ほな。

萩真尼 こと マリコ・ポーロ


🐎 以下、玉縄城についてのブログ記事の一部なり

「玉縄城-1 現代の難攻不落の城へ」
「玉縄城-2 現代の難攻不落の城」
「玉縄城-3 現代の難攻不落の城」

「玉縄主催セミナー 「まだナゾだらけ戦国時代の鎌倉」」

「玉縄城の歴代城主の法要が営まれました」
「為さま(北条為昌)の菩提寺探しに、お助け本が!」
「玉縄城主・北条為昌の菩提寺で、ビビッきた氏綱ご正室の出自」

「前編~玉縄の北条為昌&氏綱ご正室・養珠院の謎」
「後編~玉縄の北条為昌&氏綱ご正室・養珠院の、謎」
「玉縄城主・北条為昌の菩提寺で、ビビッときた氏綱ご正室の出自」
「香林寺の開基は、氏綱公ご正室?為昌殿ご正室?」


 画像は全てマリコ・ポーロが撮影しました。コメント欄をもうけております。公開させていただいてはおりませぬが、ご感想なりいただければ嬉しいです。
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