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2019年12月16日 (月)

北条家臣 桜井武兵衛さん、はしりめくる!

マリコ・ポーロ


超々 オススメ!
22(日)までです。急ぎお走りくだされい!

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~コレクション展は無料でござる~


神奈川県立歴史博物館で開催中の「桜井家文書ー戦国武士がみた戦争と平和ー」は、戦国時代から江戸時代への転換期に生きた一人の武士の「奮闘記」を見るようでした。


奮闘記の主人公の桜井武兵衛さんは、父上が北条氏康・氏政に、自身は氏直に仕え → 小田原の役後は結城秀康に仕え → 越前の松平家の家臣となり、ここではけっこう御出世されたようです。

北条家臣時代は小石川に所領を持つ江戸衆で → その後は新田に所領が移り上野方面で活動したそうです。小田原籠城時は最後まで城内におり、氏直が高野山に旅立つ2日前に感謝のお手紙をもらっています(7年前に書いたブログ記事を文末に添付しました)。


実はコレクション展の前の「博物館入門講座」で、このコレクション展担当学芸員さんのレクチャーもあり、予算ゼロのコレクション展を開催し図録まで作成する奮闘を拝聴していました。それはまさに「学芸員はしりめくる之覚」でした。たぶん、どこの学芸員さん方も戦国武士の武兵衛さんのようにいつも「はしりめくって」らっしゃるのだろうな~と認識がちょっと変わりました。

企画展を観て、もっとこうすればいいのに、ああすればいいのに…なんて、もう言えにゃい。。。
(^^;


展示の解説もぜひ伺いたかったので、昨日の展示解説に参加してきました。集まったのは34-5人で展示室いっぱい。時間も30分のところ1時間にもなり、もはや講演会状態。面白かったです!

「桜井家文書」は「ウブな状態」で現存していたそうで、紙質や折り筋や封の仕方や墨引きがしっかり残っています。特に北条時代のものは、それが良く分かるように展示台の敷布を黒色にしたそうです。こたび修復が成ったので、お披露目となったそうです。


▲ 笑った後に、な~るへそ~の虎朱印

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~我が家の猫朱印。反対向きにゃ。~


朱印のスタンプが捺せるコーナーで「どうしても掠れてしまって上手く捺せない」と言っていた小学生が北条の朱印状を見て「なーんだ、北条も上手く捺せてないじゃん」だったそうです(笑)。

確かに~。掠れて半分位しか良く見えない虎朱印と、バッチリ捺せている虎朱印がありますよね。


他の研究者の方達と考えたところ、どうやらそれは、捺すスピードにあるのではないかとのこと。

個人個人に発給したものは、時間もあるのでゆっくり捺せた。戦の招集など多数の人に同じ文章で発給したものは、一枚一枚丁寧に捺していては手間がかかる。バシバシ捺していったので綺麗に捺せてないのではないか?って。もしそうなら、今の私達と同じですね。


虎も、北条初期のものは尻尾もお耳もハッキリ見えるけど、後期になると尻尾もお耳も無くなっています。たぶん、朱印は限界まで使って、もうこれは使えないとなった時に、それを写して新しく作ったからそうなったのではないか?って。

物持ちのよい北条家らしく、な~るへそね~です。


▲ 北条ファンは涙なくしては見られない、氏直最後の朱印状

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7年前の期間限定の常設展で観た時は、紙質までは気がまわりませんでした。こたびは紙質も良く見えました。学芸員さんもおっしゃていましたが、「懐紙」のようなものでした。

高野山へ旅立つ2日前。今までのような良い料紙はもう使えなかったのでしょう…。


朱印も掠れていますな。綺麗に捺せていません。最後まで付き従ってくれた家臣たちに、♪ ありがとうって伝えたくて~ このような朱印状をたくさん皆に出したのでしょうか…。

そして、次に書きますが、これは家臣たちの再就職の時の武功の証にもなります。氏直さは、当主としての最後のつとめを果たしたのでしょうか。

しかし、もう北条当主ではないので虎朱印は使わず、自身の印を使っているのだよ。


▲ はしりめくり

展示の「桜井家文書」は全部で30点。武兵衛さんの父上に宛てられたものが数点。あとは武兵衛さん宛と武兵衛さん自身が書いたもの(1点)です。北条時代が11点。秀吉・徳川の時代でした。北条や結城や松平忠直が武兵衛さんに出した感状や朱印状、知行宛行状やお手紙です。

この記事のタイトルの「はしりめくる」は武兵衛さん自身が書いた「我等はしりめくり之覚」のこと。最初に見た一瞬、「はしりまくり」をどこで切るのか分からなかったそうです。「我等は、尻めくり」か??って。展示のトリを飾っていました。


当時の「我等」は「我」の一人称だそうですね。

これは、戦国武将が就職活動をする時の履歴書(職務経歴書)だそうです。自分で自分の戦功を書き綴るんですね。しかし、当時は今と違い話を盛ったりは出来ないそうです。全ての戦功には証明する人の名前や、その人の現在の居所(連絡先)を明記するそうです。


そこから分かることのひとつとして、つまり居所を書くということは…
それは、小田原北条が滅びたあとも、北条OBのネットワークは残っていた!ということだそうです。

そうですよね!でなければ居所は知らないですものね。そして北条OB達は、けっこう徳川御三家に仕えている人が多いということも分かるそうです。


読むと、細かいですよ~。時系列が合ってないので、武兵衛さん、思い出しながら、思い出しながら、思い出したことから書いていったんですねえ。戦国武将の手紙や指示書って、いつも細かいな~と思いますが、履歴書も細かいんですねえ。私は就職の時の職務経歴書にこんなに細かく書きませんでしたよ(書くほどの功績がないということもある💦)。

武兵衛さんの、氏直時代から結城・松平時代へ「はしりめくった」数々を読んでいくと、武兵衛さん頑張ったな~、でも、それは武兵衛さんだけではなく当時の戦国武将たち誰もがそうだったんだろうな~と、感慨深いものがありました。


自身の41年に渡る戦功を書き連ねた最後の最後の項に、
我等むすこ十大夫、あしがるかしら松崎弥五介打死仕候
とありました。ご嫡男、討死されたんですね…。元和になっての、越前でのお家騒動でした。


▲ 新出の秀吉朱印状(常設トピック展示「展関東足利氏―新収蔵史料の紹介―」 )

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~写真の一番奥。桜井家文書ではないので、常設展で期間限定(27金まで)。~


県博が今年(2019)入手した、秀吉が小弓足利頼淳(頼純)に出した朱印状です。頼淳は国府台で戦死した義明の息子で、青岳尼は女兄弟。息子(国朝)のお嫁さんが、古河公方の娘氏姫です。

この朱印状の存在は知られていたものの所在が不明でしたが、某古美術商が持っていたそうです。


宛名が「鎌倉左兵衛督殿」になっています。当時の頼淳は里見のところにいました。鎌倉に住んだことも、もちろん公方でもありませんでした。

この宛名のことから某新聞社がこれは秀吉の「徳川シフト」だとの旨を書いているが、そうは言ってなく、秀吉の意図はチト違うんじゃないか?とのこと。


朱印状の日付は、くしくも、上記の氏直が武兵衛さんに感状を出した日と同じです。

こちらも必見!ぜひ!


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~充実の図録 A5判(700円)。新出の秀吉の朱印状のことも載っています!~



🐎 別件

先日、小田原でのシンポジウム「伊勢宗瑞の時代」で家永遵嗣先生の講演を拝聴しました。

恥ずかしながら私には難しく、まったくついていけませんでした(ホント)。まさに「伊勢宗瑞の時代」の京都・北陸・周防・甲斐・信濃などなど広域にわたる話で、今まで調べたことのない登場人物も多くとてもブログに書けないでいます。

しかし、その中の初めて聞いたある人物に興味が湧きました。もう少し調べてから書いてみたいと思っています。


「北条氏直、最後の当主の 「最後の朱印状」」
「「こもんじょざんまい」 神奈川県立歴史博物館」


萩真尼 こと マリコ・ポーロ

画像は全てマリコ・ポーロが撮影しました。コメント欄をもうけております。公開させていただいてはおりませぬが、ご感想なりいただければ嬉しいです。
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