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2019年12月 4日 (水)

講演 「上杉三郎景虎 勝つための戦略」乃至政彦氏(2019.11)

マリコ・ポーロ


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~越後。車窓より~


風が冷たくなると上越に行きたくなる。かつて常宿にしていた直江津のホテルの窓から眺めた早朝の鈍色の空や、能生の古い屋並の向こうに横たわる初冬の日本海を思い出す。冷え切った五臓六腑に沁みわたる、ほど好く温められた糸魚川の銘酒が越後に来たなあという想いを更に強くする。


八王子市民講座 「上杉三郎景虎 勝つための戦略~上杉謙信の死後、景勝と越後を争った北条氏康の七男~」を拝聴しました。講師は、あの 乃至政彦氏。満席でキャンセル待ちも出たそうです。70名定員ではもったいなかったネ!

景虎さんが特に好きだというわけではないですが、景虎さんのことを考えるととても切なくなります。講演の内容を以下に書きますが、書いているうちに切なくなり、力が入り過ぎて長~~くなってしまいました。


乃至氏は参加者の質問に、「八王子の人は景虎が好き」とおっしゃいました。確かに、八王子城では男女問わず景虎さんの話がよくでます。なんででしょうかねえ?上杉は我らが氏照が取次でしたし、最後に援軍に行ったからでしょうか?

それなら氏邦さんの寄居でも、景虎さんは人気があるのかな?


これもよく書いていることで恐縮ですが、皆さまと同じく マリコ・ポーロ も子供の頃から歴史が大好き。その頃からほんの10年ぐらい前までは、何といっても上杉謙信が No.1 でした。それでブログを始めた前後も、たびたびたび!上越に行っていました。(謙信くんは好きですがその後の上杉家にはあまり興味がなかったので米沢は数回しか行ったことがありまへん。)

ブログも初めの頃には上杉謙信のことをよく書いておりました。しかし、八王子城と氏照に出会い小田原北条に興味が出てから、それまで私が知っていた上杉謙信とは違う謙信像が再構築されていきました。


また、北条を追いかけているなかで景虎さんのことも何度か書きましたが、その後、乃至氏や今福匡氏の本を読んで(けっして自ら文献を調べたわけではにゃい💦)、当時ブログに書いたことがけっこう違っているのではないかと思いました。かと言って、過去のブログをこっそり書き換えてしまってはその時のパッションが薄れた文章になってしまうし。そんなわけで、文末に添付した当時のブログ記事は、そういうことをお含みおきの上ご覧くださると助かります。

こたびの乃至氏の講演でも認識が変わること多々ありました。


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~「マル、今日はこの講演会へ行ってきたのだよ」「講演会ばっかりだにゃ~」~


講演は数年前に出版された、乃至政彦・伊東潤共著「関東戦国史と御館の乱 上杉景虎・敗北の歴史的意味とは?」(2011. 歴史新書y) に沿っていましたが、発売当時読んだきりのこともあり、凄く面白かったです!

・メインテーマは、
「景虎は、どういう終着点を目指して挙兵したのだろうか」

・内容は、
上杉景虎の初期行動 / 景虎は北条氏の血を頼みに決起したのではない / 上杉景虎と合戦 / 謙信の急死と遺言 / 北条氏の動向 / 武田勝頼の動向 / 上杉景虎の戦略 / 北条景広の役 / 景虎の敗北 / その後の評価


皆さんはとうにご存知のことかもしれませんが、不肖 マリコ・ポーロ がビビッときたことを講演と本とレジュメの内容を合わせて、簡単な話(簡単か?)から順番に。


▲ 謙信は、厠で脳溢血で倒れたのではないのでは?

このことは、2011年に発売された上記の本で読んで知りました。


甲陽軍艦に「閑所」にて謙信が倒れたとあります。「閑所」とは「私室」という意味もあり、伊達政宗が毎日「閑所」に2時間こもってご飯のメニューを考えましたが、そこが厠のわけはないだろうと。それは前から妙な人だな~、でも政宗は妙な人だからそうなんだろうな~と思っていました。好きですが。

「閑所」を「厠」と訳したのは江戸時代の軍学者だそうで。


また、景勝殿が、謙信は「不慮の虫気」で倒れたとお手紙を書き、これを上杉年譜では「卒中風」としています。

謙信がお酒好きだったと伝わることからも脳溢血を疑ったことがありませんでしたが、「虫気」とは「ちゅうき」ではなく「むしけ」とそのまま素直に読むもので、それは「腹痛」のことだそうです。そういえば、むか~し、子供が「むしけ」を起こしたとかオバアチャンやオジイチャン達が言いましたよね~。

謙信殿はお酒が好きで、梅干しをアテにお酒を飲むことを好んだ…も根拠がないとか。これには、ドびっくり~。なーんだ、真似っこしたのに…という御仁も多いのでは?


脳溢血で倒れたなら遺言を残せるわけがないだろう、直江殿の奥方が枕元で今際の際の謙信から聞いたとウソついたとかつかないとかとか言われていました。しかし、それで景勝殿が「謙信公が脳溢血で急死したので、遺言により実城にはいります」としたら、遺言うんたらは捏造このうえない。

腹痛ならどうにか遺言は伝えられますな。それで景勝殿は、謙信が「虫気(腹痛)で遠行(逝去)したため、遺言により実城にはいります」と書状に書いたのだろうと。

では、謙信殿は後継者をどのように考えていたのか?


▲ 上杉謙信の気持ちの移り変わり

顕景(景勝)体制

景虎さんには「山内上杉」を名誉職として譲る

しかし、山内の家督が家中で必然化してきたため…

顕景(景勝)ではなく、景虎さんと自身の姪との子(景勝にとっては甥)である 道満丸 体制へ


それを充分に練られないでいる時に「虫気」で倒れてしまった

のではないかと乃至氏はおっしゃいます。


当初の景勝体制構想は、名前からも見て取れるそうです。

長尾家の相続者は、政景・晴景など「景」が に付きます。景勝も「顕景」でした。しかし、顕景が長尾家→上杉家となった場合そのままではいかず、「景」を上に「景勝」としたのでは?って。


そして、一番 ドびっくり~ したこと。皆さん、ご存知でしたか?


▲ 景虎さんは北条を頼みに決起したのではない

と乃至氏はおっしゃいます。もちろん実家得意の養子縁組作戦で上杉を乗っ取ろうとしたのでもないということでしょうか。

何故なら、謙信死去の約2ヶ月後の5月17日、景虎さんは数日前に移った御館から、飯山の桃井に春日山城を攻めさせていますが、景虎さんはこの時点でまだ自分の挙兵を氏政さんに伝えていないからだそうです。


しかし桃井は討たれてしまいます。景虎さんはこの初戦で失敗したため、実家に援軍を求めた…ということでおそらく間違いないだろうとのこと。景虎さんは初めは自力で家督を継ごうとしていたのでしょうか。

景虎さんが、「真っ先に北条の支援を取り付けるのは得策ではないと考えていたのだろう」としています。


では、御館の乱はどのような経緯をたどったのでしょうか?


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~伝景虎屋敷跡(二の丸)より頚城平野を眺める。ここが景虎屋敷だったという考古学的な根拠はない。~


▲ 謙信死去後の当初は景勝殿と景虎さんは争っていなかった

大河ドラマなどでは、謙信が厠で倒れた後 → 間髪入れず景勝方が米蔵を押さえ → 景勝が実城に入り → 景虎屋敷に攻撃を加え → 景虎さんは御館に逃れる…という場面が息つく間もなく続くというのが今までのパターンでした。


事実は皆さんご存知のように違いますよね。乃至氏のレジュメにある年表を少しハショッテ写させていただきます。長いので読むのがメンドクチャイ方やご承知の方はすっ飛ばして先をお読みくだされ。


(天正6年)
3月13日、謙信死去

同月24日、遺言により景勝が実城に入る

同月28日、三条城の神余親綱が会津蘆名を警戒し独断で周辺から人質を集め、景勝からとがめられる

(春日山はまだ静か)

5月1日、「三条手切」
蘆名がやはり侵攻してきたことにより、人質の件で景勝から責められた三条の神余は憤慨し、景勝から離反

同月5日、三条方の本庄ら(栃尾)vs 景勝方、大場で戦闘


同月13日、景虎が御館に入り、三条&栃尾と連合する

同月17日、景虎は桃井(信濃飯山城)に春日山に先制攻撃をさせるが失敗

同月28日、北条氏政、武田勝頼に越後派遣を要請

↓(氏政は佐竹と相対していたため動けず)

6月11日、景虎方 vs 景勝軍、荒川館・大場・居多ヶ浜方面で激突するが、景虎方が敗北

同月12日、再び景勝軍勝利し御館周辺を焼き払う

同月29日、武田勝頼軍、木田(春日山と御館双方から一里)に布陣

8月28日、勝頼が帰国を開始


9月、北条氏照が坂戸城に迫る ( `д´)/

10月、雪が近づいてきたので撤退 (ノД`)

同月24日、上野から御館に入っていた北条(きたじょう)景広 vs 景勝軍と戦闘するが敗退

(天正7年)
2月、景広討ち取られる


3月16日、御館、総攻撃はじまる


というように、景虎さんが御館に移ってからは怒涛の展開になります。

でも、景虎さんが御館に移り乱が始まったのは、謙信死去の約2ヶ月後です。それまで表立った「家督争い」のようなことは起きなかったようです。景勝殿も景虎さんに対して特に行動は起こしていません。


▲ では、なぜ景虎さんは決起したのでしょう

乃至氏がおっしゃるには、景虎さんは、「景勝体制のスタートダッシュの危うさを見て、景勝では越後を保っていけないと考えたのではないだろうか」と。

チョットびっくり~。それまでのワテの認識とブログに書いてきたことと全然違います。


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~『関東戦国史と御館の乱 上杉景虎・敗北の歴史的意味とは?』乃至政彦&伊東潤(歴史新書y) 、『上杉景虎 謙信後継を狙った反主流派の盟主』今福匡(宮帯出版社)~


マリコ・ポーロの受け取り方違いや読み間違いや聞き違いがあるかもしれないので、ご興味ある方はこちらを読まれるとよいと存ずる。謙信の後継者構想が、道満丸へとなった理由と思われることも色々と書かれています。

そんなら最初からそっちを読めばよかったって?


そうそう、謙信の軍役帳に景虎さんの名前がない理由の話で、乃至氏は、以前は景虎さんに実践経験がないとしたが、今は実戦経験があると考えられているとおっしゃっていました。

軍役帳には、楡井・蓼沼・大石・楠川らの名前がないことから、元々謙信のそばにずっといる直属の馬廻り衆は書かれていないようですよね。乃至氏は、これは「増員名簿」であり、これによって謙信は全てを直轄化するつもりだったのでは?と。


▲ 北条氏政と武田勝頼

(氏政)
「佐竹に常陸小川台合戦を仕掛けられて、景虎の挙兵に即応できなかった。もし、景虎が御館に入る直前から援軍を要請していたら、また違った戦略を取っていただろう」


(勝頼)
景虎や氏政を軽視していたとよく言われますが、「たぶんそうだろう」と。

また、よく言われる、跡部と長坂が景勝から賄賂を受け取ったというのは「有り得ない」。なぜなら、交渉には「信豊や香坂らが関与しており、ふたりが賄賂を受けて勝頼の判断を曲げることはできないから。」


勝頼が景勝に味方したのは、
「勝頼は、最大の脅威として信長対策を考慮せざるを得なかったのであり、関東に専念する北条氏政とは意識の違いがあった。」

こっちも大変な時に一銭にもならない北条のために戦うなんやってらんない、しかも氏政来ないのに…って。確かに~。同盟を結んでいたらお互い様なことですが、でも分かるぅ(勝頼さま、マリコ・ポーロなんぞに分かってもらわなくったっていいでしょうけど )。


え?ということは、つまり…誰も悪い人がいない。。。

もちろん、明日の命さえ分からない戦国時代。皆、自分や一族や領地を守るためにそれぞれの正義があって、それに即して動いている。それにしても、乃至氏にかかるとみんないい人。講演を拝聴して、私なぞが申すのも失礼ですが、乃至氏もいい方なんだろうな~と思いました。


(景虎さん)
たいがい負けた武将は後に悪く言われるが、景虎にはまったくそういうことはない。景勝も、この挙兵について批判はしていないし、上杉家の記録も景虎をいっさい愚将扱いしていない。きっと景虎は周囲に随分と気を遣って越後で暮らしていたのだろう。

(景勝殿)
軍記などでは強引に実城を制圧して景虎を追い出したように語られるが、これは後に言い伝えられただけではないだろうか。景勝に自己弁護の形跡はない。

(勝頼さま)
北条方の声により、御館の乱で判断を見誤って後の没落に繋がった愚将のように語られてしまった。

(氏政さん)
同時代に氏政を非難する記録は特にない。自身も景虎救出の失敗を悔み、その供養に努めている。


「それぞれの評価は今も揺れ動いている。その時その時最善を尽くしていたわけで、結果から評価をせず当時の状況を見ながら評価をした方が、あとからあてる評価を見るより楽しいと思う」
by 乃至氏。


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御館からは逃亡兵が相次ぎ、館に残るは「雑兵二三百人(景勝公御年譜)」。2月11日、景虎は本庄に「人数千も二千も可相立候」と、千から2千の人数を送って欲しいと切望。(乃至氏レジュメより)

3月16日、御館、落城。
上杉憲政は殺害され、道満丸は華渓院(妻・景勝妹)と共に自害(と伝わる)。景虎は鮫ヶ尾城へ。


3月24日、鮫ヶ尾城は総攻撃をうけ景虎自害。享年26。

やっぱり、切ない…


萩真尼 こと マリコ・ポーロ

🐎 以下は、景虎さんや上杉謙信や上越の旅を書いたブログ記事の一部です。

「北条氏照の悩める存在‘上杉謙信’と、景虎さん」

「琵琶島など「北条氏照の悩める存在 上杉謙信と景虎さん」」

「能生・米沢「北条氏照の悩める存在 上杉謙信と景虎さん」」



画像は全てマリコ・ポーロが撮影しました。コメント欄をもうけております。公開させていただいてはおりませぬが、ご感想なりいただければ嬉しいです。
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