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2020年2月20日 (木)

公方の姫~青岳尼事件 あらたに知ったこと

マリコ・ポーロ


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~垂木、詰組、波連子…屋根の内側まで繊細で華やかな国宝「円覚寺正続院の舎利殿」は「太平寺仏殿」だった~


青岳尼 は小弓公方足利義明の姫として坂東戦国時代ファンのヒロインとして有名ですし、姫のことは幾度かブログにも書いておりますが(文末添付)、も一度。


義明が国府台で討死したのち、姫は北条氏康殿の庇護のもと鎌倉「東慶寺」へ入り、その後、鎌倉「太平寺」の住持となりました。東慶寺の住持は、青岳尼の妹の旭山尼です。

のちに、いかなる次第か定かではありませんが、姫は鎌倉を出奔。海を渡り里見義弘の元へゆき、二度と戻りませんでした。太平寺は廃寺となりました。

太平寺は、碑文によると元は比企一族の尼寺で、頼朝が池禅尼の旧恩に報いるためその姪を開山として創建したそうです。

初代鎌倉公方足利基氏の子孫の尼僧を中興の祖として発展し、「鎌倉五山」第一位の格式あるお寺でした。トップ写真の円覚寺正続院の舎利殿は、廃寺となっていた鎌倉太平寺から移されたものです。


前回のブログ記事「玉縄水軍の御しんぞう様」でも少し触れましたが、昨年、玉縄城址まちづくり会議さん主催の真鍋淳哉氏の講座「戦国江戸湾の海賊と玉縄城の水運」を拝聴しました。そこで、青岳尼についてマリコ・ポーロの今までの謎が解けたり、また、あらたな謎?となったことがありました。

講演で新しく知ったことや疑問を以下の4鱗▲に沿って書いて見ます。同じく真鍋氏の著作『戦国江戸湾の海賊』も参考にさせていただきました。

▲青岳尼は連れ去られたのか?共謀だったのか?/ ▲聖観世音菩薩は青岳尼と共に安房へ渡ったのか?/ ▲それは本当に弘治2年なのか?/ ▲公方の姫は東慶寺(か太平寺)にもう一人いた?


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~太平寺から移築された円覚寺正続院の舎利殿。屋根の反りがハンパない~

▲ 青岳尼は連れ去られたのか?共謀だったのか?

里見義弘が鎌倉へ攻め入った時に青岳尼を連れ去った、いや、義弘と事前に示し合わせ安房へ行ったなどなどと様々言われています。

以前のブログ記事は、共謀説を取って書きました。だって、姫にとって北条は父親の仇ですからね。太平寺に「庇護された」というより「剃髪させられ、浮世から離された」みたいなイメージでした。姫は義弘殿のいる安房へ帰りたくて、ふたりでもくろんだと妄想しました。


また、青岳尼が出奔したあとに氏康が東慶寺に出した有名な手紙には、「大平寺殿 むかい地へ御うつり、まことにもってふしぎなる御くわたて…」とあります。

ただの「くわたて」ではなく「御くわたて」と「御」が付いているのも、青岳尼も企てに関与したのだと受け取ったんです。


講演で真鍋氏は、
「父義明を殺されている姫。義明は里見の元にいたから、おそらくふたりは顔見知り。自らの意志で義弘と図って北条の監視下より逃れたのでは…?」
とおっしゃっています。


興味深いのは、安房の館山市立博物館の「たてやまフィールドミュージアム」のサイトに書かれていることです。

…(青岳尼は)義明が討死した際には、義明の遺児頼純とともに安房の里見義堯のもとへ保護されたと考えられている。その後足利氏と縁のある太平寺へ入寺したものであろう。…


すでに、青岳尼は義明と結婚していたことになっていますねえ。息子を安房に置いて鎌倉へ来させられたということですよね。もしそうだったら尚更帰りたいですよね。

真実はどうだったのか。それは、いまだ不明だそうです。


▲ 聖観世音菩薩と青岳尼は一緒に安房へ渡ったのか?

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~東慶寺で購入できる「聖観音」のポストカード~

鎌倉東慶寺宝蔵におわす「木造聖観世音菩薩立像」は、かつて青岳尼が住持していた太平寺の本尊で、円覚寺舎利殿(写真)が太平寺の仏殿だった時はそこに安置されていたと伝わっています。


チト話は逸れまするが…
廃寺にした太平寺の建物の移築のことで氏康が円覚寺に出した手紙(後述)には、「太平寺 客殿」とあります。

玉縄の講演の時に玉林美男氏がおっしゃるには、これは「太平寺 仏殿」ではないかと。「客殿」とは長方形の建物で、円覚寺舎利殿は正方形だから「仏殿」だと思われるそうです。

氏康殿、アバウト?間違えて書いちゃった?それとも移築されたのは舎利殿ではない他の建物?それとも、複数の移築があったのか?


話を戻し…
そもそもこの聖観音はいつ誰によって造られたのでしょうか。


東慶寺の、江戸時代に書かれた聖観音の由来書には、元は源頼朝の守本尊で、佐殿が、鎌倉に在住していた宋の工人陳和卿に依頼したとあるそうです。陳和卿って、実朝は誰それの生まれ変わりだとか言ったり、実朝の命で製造した舟が浮かばずに沈んだりという例の話の人ですよね。美しい仏様を造るんですねえ。

当初は東慶寺に置かれましたが、太平寺が建立された時に移したそうです。


へえ~~ (´▽`)
知らなんだ。


時は流れ…

同じく由来書によると、
里見安房守 が鎌倉に乱入し鎌倉の神社仏閣とともに太平寺も焼き払い → 御本尊と青岳尼を 連れ去り → その後、聖観音は氏綱公が東慶寺蔭涼軒からお願いして返してもらった → 戻った聖観音は 東慶寺に置かれ → 氏綱公は喜び蔭涼軒に感状を出し、その感状は今(江戸時代)も東慶寺にある…

のだそうです。


太平寺の仏殿は円覚寺で今も残っていますから太平寺は焼き払われてはいないと思いますし、里見安房守って誰?ではありますが、そのへんは江戸時代に書かれたものなので気にしないでおくとして、その他は由来書の通りだとすると‥


青岳尼の父足利義明が国府台で討死したのは天文7年。青岳尼はそれから鎌倉へ来ました。青岳尼と聖観音が一緒に安房へ渡り、聖観音の返還に氏綱がかかわることができるのは、氏綱が亡くなる天文10年までの3年の間ということになります。

3年もあれば起こった可能性もあります。太平寺跡の碑文にも、事件が起こったのは「天文中」とありますし。


でもそれでは、氏綱公が聖観音返還の担当で東慶寺に依頼をし、氏康は青岳尼の担当で東慶寺に手紙を出した、ということになります。それはなんだか妙です。

それに、天文7年~10年の間に、里見が鎌倉へ入ってきたという話を私は聞いたことがありません(ある?)。


これはどういうことだろう?
マリコ・ポーロなりに妄想してみました。


(妄想①) 聖観音と青岳尼は別々の時期に安房へ渡った

由来書の通り聖観音は氏綱公の時代に奪われた。それは大永5-6年の里見の鎌倉侵攻の時だと思われる。しかしそれは聖観音ひとり(?)だけで、青岳尼も一緒というのは後世の勘違い。


なぜなら、繰り返すが、青岳尼は天文7年までは鎌倉にはいないはずだし、もし一緒に安房へ行ったとすると天文7年~10年までの間になるが、その間に里見勢は鎌倉に来てない。

ま、コッソリ小舟で来て上陸し、聖観音と青岳尼を密かに連れ去ってしまうということも出来るかもしれないが、となると、後の氏康の手紙と合わなくなるから。


(妄想②) 氏康の時代に青岳尼だけが安房へ渡った

なぜなら、氏康が東慶寺に出した「ふしぎなる御くわたて」の手紙は、聖観音のことには触れていないから。聖観音は ① のように氏綱の時代に持ち去られ、その後東慶寺に戻されたままだったので無事だった。由来書は江戸時代に書かれたものなので氏綱と氏康とを混同した。

しかし、氏綱の感状のことはどうなるのか?感状、まだ残っているなら見たいです。


(妄想③) 氏康の次代に聖観音と青岳尼は一緒に安房へ渡った

上の②と同じく氏綱と氏康との記録違いで、全ては氏康が手紙を書いた頃に起こった。手紙で聖観音のことに触れていないのは、それは別の手紙に書いていて、その手紙はまだ発見されていないから。もしくは、聖観音のことは口頭で伝えた。

感状も、氏綱ではなく氏康の名前になっているとか?やっぱり感状を見たいです。


その感状とは、上でも触れた館山市立博物館「たてやまフィールドミュージアム」のサイトに載っているもの氏綱の、年未詳10月13日の書状でしょうか?ワテ読めないので分かりません。これです→ 「尼僧略奪」


う~む。疑問の解決には青岳尼がいつ安房へ渡ったかを知る必要があるのう。しかし、それが一番の疑問なのである!


▲ それは、本当に弘治2年なのか?

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~青岳尼が当初入った鎌倉東慶寺の梅~


通説では、由来書は「氏綱」と「氏康」を混同していて、青岳尼と聖観音が安房へ渡ったのは弘治2年の 北条vs里見 の戦時だとされていました。


弘治2年の海戦が本当にあったのかどうかについては、以前からマリコ・ポーロの謎でした。前回のブログ記事「玉縄水軍の御しんぞう様」でも書いたように、玉縄城での真鍋氏の講演でその謎は解けました。「弘治2年の海戦」といわれるものは、永禄4年の戦との間違いではないかというのです。

海戦がだったのかどうかは分かりませんが、永禄4年に里見が城ヶ島(三浦)を攻撃し、腰越(鎌倉)に侵攻したことが、氏康が玉縄の綱成の家臣に出した手紙に書かれています。


講演で真鍋氏は(何度もお名前を出して恐縮)、『北条家所領役帳』を示してくれました。なんと、役帳には「泰平寺(大平寺)殿」があるそうです!役帳は永禄2年ですよね!

弘治2年に太平寺から青岳尼がいなくなって廃寺となっていたら、永禄2年の役帳に載っているのはおかしいですね。太平寺は、少なくとも永禄2年は存在していたということです。里見の鎌倉侵攻が永禄4年なら、辻褄は合いますな。


が、しかし!

再三書いている「ふしぎなる御くわたて」の手紙には年が記載されていませんが、氏康が東慶寺住持の旭山尼に出したと言われています(もちろん侍者を通して)。旭山尼は青岳尼の妹です。旭山尼の経歴を見てみました。


あにゃ~~?
旭山尼は、弘治3年に他界しています


事件が起きたのが永禄2年以降でこの手紙もその時に書かれたものなら、手紙を見てほしい相手は旭山尼ではないですねえ。旭山尼の次か、次々代の住持の方でしょうか?調べたところ、次代は、足利政氏の孫で高基の娘(つまり古河公方の姫)。次々代は、義明の孫(つまり元小弓公方の姫)ですな。

それならそれで別によいのですが、そうではなくて、もし相手が旭山尼だったら、氏康の手紙は弘治3年より前の手紙になります。もしくは、永禄4年に氏康が アノ世の旭山尼に出したか(ひえ~~💦)。


手紙の直接の宛先は当然「いふ(衣鉢)侍者」ですし、文面には「その御寺へうらミ申へく候よし御ひろう、かしく、」で、お名前が書いてありません。

宛先は旭山尼と言われてきましたが、どこから旭山尼という話になったのだろう?

…………。


うぎゃ~
ややこしくて何を書いているか分からなくなってしもうた。


太平寺については、くだんの手紙に「大平寺の伽藍を廃絶するしかない(大平寺御事ハ、からんの事たやし申よりほかこれなく候)」とあります。実際に円覚寺に移築したのは永禄12年(これも年未詳だが氏康の円覚寺宛ての書状より)とされています。

太平寺の建物は、廃寺となった後しばらくはそのままだったようですな。


ちょっと思っちゃったのですが、青岳尼が鎌倉を出奔し安房へ戻ったのがもし永禄4年だったとしたら、鎌倉へ来てから 20年以上の月日が過ぎています。

そんなに逢わずに愛情とか執着とかって継続するものなのでしょうか?
え?する?失礼(^^;


そして、ここにもう一人謎の女人が出てくるのです。

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~青岳尼が渡った海~


▲ 公方の姫は東慶寺(か太平寺)にもう一人いた?

それは、先ほどから何度か書いている、氏康殿が東慶寺に宛てたお手紙の後半にあります。


「…(里見方は)また御新造を盗み取るとの噂を聞きつけました(又御しんそうをぬすミ取へきよし)…」

私はこの「御しんそう」は青岳尼の妹である東慶寺旭山尼のことだとずっと思っていました。なんだかどこかにそう書いてあったような記憶があるんだもん。


ところが「御新造」とは出家していない女性に使う言葉だそうですね。知らなかった(恥💦)。講演で真鍋氏は、「御新造」が誰かは不明だが、まだ出家していないが後々出家させようとしていたのか、足利関係の女性が寺にいたのだろうとおっしゃっていました。

そして氏康は、「御新造」を玉縄へお移しする旨を指示し、もし何かあったら東慶寺様へお恨みを申し入れる(若とかくあつてハ、その御寺へうらミ申へく候)とまで書いているのです。


誰だろう…?ということは、小弓公方関係の姫でしょうか?

小弓公方足利義明殿には3人の姫がいることになっています。青岳尼と旭山尼。もう一人は、山内上杉を継いだ上杉憲寛=足利晴直(晴氏の同母弟だそうな、よく知らにゃい)に嫁いだ方です。夫の憲寛殿は義明殿の元にいたそうです。


この方が未亡人になっていて、義明殿亡きあと青岳尼と共に氏康に庇護された可能性があるのでは!と張り切りましたら、御主人はもっともっと長生きしていました(天文20年没)。

なーんだ。


青岳尼が義弘殿の正室だったか側室だったかは定かではありません。青岳尼の子供のこともはっきりとは分かっていないようです。

青岳尼は天正4年に亡くなったと、安房の菩提寺の供養塔に刻まれているそうです。天正4年、里見義弘の正室は、小弓公方と敵対していた古河公方足利晴氏の姫となりました。


萩真尼 こと マリコ・ポーロ


「里見へ走った公方の姫」
「弘治2年の「北条 vs 里見の海戦」は本当にあったのか?」
「鎌倉に訪ねる小田原北条ゆかりのヒロインの寺

・「南総里見ファンタジーツアー 1」
・「南総里見 5 「戦国人たちは消えてゆく~里見忠義」」

画像は全てマリコ・ポーロが撮影しました。コメント欄をもうけております。公開させていただいてはおりませぬが、ご感想なりいただければ嬉しいです。

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