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2020年3月 6日 (金)

「北条氏綱像」は後世に改変されたのか?

マリコ・ポーロ


Dsc_0358
~小田原北条二代当主 北条氏綱 花押~


ここ数日、北条氏綱の肖像写真をずーっと眺めています。

知りませんでした…
改変された痕が、いくつかうっすらと透けて見えるそうですね。


昨年より末席に参加させていただいている「小田原北条の会」での鳥居和郎氏(神奈川県立歴史博物館/小田原市文化財保護委員)の講座でチラと小耳にはさんだ、氏の研究ノート『北条氏綱像の改変についてー北条早雲像、氏康像、時長像などとの比較からー』(2016年) を拝読。

改変されたと思われる細かい点と、改変の時期とその理由、改変前は何だったのか…などが検証されていました。昔からバランスの良くない絵だとは言われてはいますが、びっくり&色々納得。


ただ、鳥居氏も書かれていますが、たとえ改変されたからといっても、改変が良くないとか氏綱公へのリスペクトがないということにはならない、ということは最初に書いておきたいと思います。


▲ 北条氏の肖像

当ブログを読んでくださっている皆様はとっくのとうにご承知のことですが、北条一族で現在のところ分かっている像は、宗瑞・氏綱・氏康・氏政・氏直の五代と、幻庵殿の子息である時長、そして、数年前に発見され話題となり「馬の博物館」で展示された謎の少年 の7幅です。


それぞれが描かれた時期は…

(宗瑞)晩年、または没後すぐ
(氏綱)没後わりとすぐ、又は、寛文十年頃に土佐光起により描かれた(小田原開府五百年より)
(氏康)没後わりとすぐ
(時長)没後しばらく経ってから、作風や装束からして氏康没頃か?
(氏政と氏直)寛文年間に玉縄北条の子孫である北条氏平が土佐光起に描かせ、寄進した

とされています。


氏政と氏直像は没後80年位経った江戸時代に描かれたものなのでチト置いておいて、氏康、時長、謎の少年像は作風も装束も似たようなイメージです。氏綱像が明らかにこれら3像と違うのはポーズと装束です。凄く違う。


ポーズは前のめりな感じで、他の戦国武将像でもこのようなポーズは見たことがありません。装束も、ジミ~~~。いくら質素を旨とする北条家でも地味~すぎ。

だいいち、直垂と袴の色が違う。氏綱公のお好み?刀も貧相(刀よく知らない私感)。なんだか阿弥衆みたい。なんで氏康は父上の肖像を描くのにこんな地味~な装束にしたんだろう?ご自分はオシャレな肩身替わりの小袖なんか着ちゃっているくせに。

なにより、口元が妙。これは後世に修復でもして、その時に修復が失敗しちゃったのかな?

などと、ずーっと思っていました。


研究ノートの マリコ・ポーロ がビビットきたところを以下に写させてていただきますが、詳しく、正確に!知りたい方は『神奈川県立歴史博物館研究報告ー人文科学 第43(2016)』を。


Dsc_0363
~氏綱印判「郡」~


さて、今私は肖像画を見ながらこれを書いております。ここに早雲寺さんの許可なく肖像画を載せるわけにはいかないので、皆様も是非お手持ちの肖像をご覧くださりませ。


▲ 改変の可能性のある箇所について

① 坐り方

・中世の武家の坐り方は「胡坐」が正式なのに「正座」である。「正座」が正式となったのは江戸時代から。
・両ひざの間にうっすらと描線が見え、位置から見ると「胡坐」の描線とみられる。
・直垂の絵の具が薄くなっている部分には畳の絵の具が透けて見える箇所がある。


坐り方については、早雲寺さんでも「正座」に書き直していると見ているようです(早雲寺図録)。 武田勝頼とか真田信繁の像は正座ですが、これらは正式な場面ではないからなのかな…。

・また、マリコ・ポーロの疑問の直垂と袴の色が違うことについては、「正座に改変された時に塗り直されたからであろうか」とありました。


② 風折烏帽子

・氏康像に比べてかなり省略されている。
・烏帽子の前部が、前頭部の輪郭線と重なっているのは不自然。

そう言われてみると、氏綱公の烏帽子はかぶって(のって)いなくて、縁部が張り付いているようです。まさかの、絵師がヘタとか…。


③ 肩のライン

・左肩より右肩がかなり上がっている。
・右肩より下がった位置に輪郭線が見え、改変されたことが分かる。元の輪郭線だと左右ほぼ同じ高さ。

うーん。写真では輪郭線は見えぬが、もし改変されたとのだとしたら、左右の肩の高さを違えた理由はなんだろう…?


④ 扇

・宗瑞や氏康や時長や謎の少年像のように握っておらず、人差し指と中指で挟み込んでいるよう。
・同じく4像のように親骨が明瞭に描かれておらず、絵柄も不自然。

そう言われて見ると、親骨が無いです。妙な(チャッチイ)扇ですな。ヒラヒラし感じ。しっかり握っていないし。やっぱり絵師がヘタクソ?
(^^;


⑤ 袖の先
たいがい、左の袖の先端が上の方にハネ上がっている。

・元はハネ上がっていたようで、上畳の彩色の下に元の線がかすかに見える。

そう言われてみると(←また💦)、氏康・時長・謎の少年、みなハネ上がっていますが、江戸時代に描かれた氏政・氏直の袖はハネ上がっていませんね。


⑥ 刀

・氏康も時長も謎の少年も腰刀だが、氏綱は脇差。
・柄&鞘口と鞘尻との曲線がつながらず、曲線が不自然。
・鍔がない。

つまり、もともと脇差は描かれておらず、後から脇差を書き加えた。だから、鍔を描くと親指と重なってしまうから鍔も描かなかった。


ホントだ!他の3像は立派な目貫や笄が描かれているのに、氏綱公のさびしい~。


⑦ 直垂

・胸紐や袖露が無い。
・腰の後方の膨らみの位置が不自然で輪郭線も他より細い。


以上が改変の可能性がある箇所についてですが、じゃあ、改変、改変って元はなんなの?ですよね。

例えば、烏帽子。時代としては烏帽子を被らない風習が徐々に広まってはいるが、当主の肖像としてある程度の格式が求められたであろうから露頂で描かれた可能性は少ないと。


で、烏帽子や脇差があとで描き加えたとするならば…


「もとの像は俗体像ではなく法体像だったのであろう」


▲ 宗瑞像との比較

北条家に限らず、没後何十年も経ち当人を知る人が誰もいなくなってから肖像や銅像を作る時は、故人の親族の面差しを元に作られることが多いですよね。氏綱の親族で法体像といえば、父親の北条早雲こと伊勢宗瑞です。


研究ノートでは、宗瑞像と氏綱像の頭部の大きさをそろえた画像などから二人を比較しています。以下。

・氏綱の瞼の輪郭線はかなり後世の手が入っていて当初の状態は確認できない。
・マリコ・ポーロが気になっていてチト妙だった氏綱の口については、やはりこの部分も描き直されていて当初のままではないことが分かる。

また、
・宗瑞には髭が無く、氏綱にはある。また、宗瑞には皺があるが、氏綱にはない。つまり二人の年齢が描き分けられている。
・二人の顔の各部位の位置がほぼ同じであるため、顔の印象が極めて似ている。


つまり、「氏綱像の制作にあたり早雲像が土台となったことがうかがえる」と。


Img20161226_100047 

▲ ほな、なにゆえそういうことをしたのだろうか?

それは、天正18年、おサル…いや、秀吉殿によって早雲寺が焼かれた時に「氏綱像は失われてしまったとみられる」からとな。

以前、早雲寺の曝涼の時に伺いました。宗瑞の肖像が無事だったのは、お寺の方が持って避難させていたからそうです。箱書きとか書付とかはあったのかともお聞きしたところ、それは無かったけれど、早雲寺初代&二代の住職の頂相と一緒にあったから宗瑞に間違いないとのことでした。


もし鳥居氏のご研究の通りでしたら、氏綱公の肖像は避難させなかった(避難できなかった)のですかねえ。もしくは、避難させてはいたが、戦後のドサクサでどこにいったか分からなくなってしまったとか。

だとしたら、いまに突然どこかから発見される可能性もありますね!お顔も全然違って、宗瑞似ではなく氏康系のお顔だったりして。もしそうだとしたら、ですが。


やっと最後。いつも長くて恐縮です…

▲ 『北条五代記』に書かれた氏綱像のこと

五代記に書かれていることが本当なら、江戸時代になってからのことですが、かつて北条家の家臣だった三浦浄心が早雲寺を訪ね氏綱像を拝したようですね。


そこにはこうあるそうです。
…俗体にして白衣の上に掛羅をかけ、顔相にくていに書り、物すさましく有て、てきめんにむかひかたし、子細有ゆへにや、荒人神のように…


「俗体」ですか。「白衣」の上に「掛羅」をかけているのですか。掛羅(から)とは、お坊さんが両肩から前に垂らしている四角い布ですよね。宗瑞や謙信君が肖像でまとっていますね。俗体で掛羅だと、朝倉義景や信玄パパ信虎の肖像が思い浮かびます。

「にくてい」(憎体)= 不敵な面構え ということで、研究ノートでは、「早雲像の方が相応しいように思える」としています。


「白衣」とはなんだろう?白の直垂?それとも夜着?夜着なら烏帽子も脇差も付けないですよね。病に伏してから、夜着の上に掛羅を付けて肖像を描かせたのでしょうか?そんなことあるかな。武将の肖像としてはチト弱々しいですよねえ。

研究ノートには、この場合の「白衣」は白色の着衣ではなく、着衣に彩色が加えられていなかったので衣を「白」としたのではないかとありました。なるへそ~。


つまり…

浄心が拝んだ「氏綱像」は彩色がされていない白描の肖像で、それは、不敵な面構えからしても「早雲像であったのかもしれない」。

烏帽子や脇差を後で加えた可能性があり、お顔も早雲像とよく似ていることから、「早雲像の模本があり(氏綱像が残っていなかったので)それを氏綱像と見なしていたのかもしれない」。そんな中で氏綱像も必要とされ、「父早雲像の模本(おそらく白描)などを土台として制作されたのではなかろうか」と。

そして、この研究ノートは、外見を中心とした考察であるので、今後、科学的手法による精度の高い検証がされることを期待するとしています。


ただ、マリコ・ポーロ思うに…
もし早雲寺や一族の子孫が改変したとしたなら、このような地味~な仕上げにしただろうか?氏康と並んで遜色がないようにしたのではないだろうかにゃ?

それとも、北条家の質素倹約の見本として地味~にしたのか?不思議なり。

Photo_20200306113801

時代は落ち着き、寛永・寛文の世。早雲寺、小田原藩、狭山北条家、旧玉縄北条家などによって早雲寺が復興されます。氏政と氏直の肖像も描かれ、現在の北条五代の供養墓も造られることになるのです。


最初にも書きましたが、たとえ改変したからといって、改変が悪いとか氏綱公へのリスペクトがなかったということではないと思います。

氏綱公の肖像がない。肖像が欲しい。なんとかして肖像を作りたいという想いからなされたのでしょう。


鳥居氏も最後に書いてらっしゃいます。

「…氏綱像が早雲像を土台として制作されたとしても、肖像が果たす精神的な役割を念頭において制作されたことは言うまでもなく、氏綱像は数百年にわたり二代当主の肖像として尊崇されてきた。この点において今後も氏綱像が果たす役割と重要さは変わるものではない。…」


今年の秋は久々に早雲寺「曝涼」に行き、氏綱公のご尊顔を拝そうか。


「早雲寺 「北条早雲画像」の曝涼 2010」
「今日は北条早雲こと伊勢宗瑞の命日」
「「早雲 足洗いの湯」 箱根湯本」


画像は全てマリコ・ポーロが撮影しました。コメント欄をもうけております。公開させていただいてはおりませぬが、ご感想なりいただければ嬉しいです。

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