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2020年4月18日 (土)

②大河「太平記~芽生え」と、足利尊氏の鎌倉屋敷はどこにあったのか?

マリコ・ポーロ

医療、保険、介護、保育、ごみ収集関係、警察、保安、交通機関、公共機関、生活必需品の販売関係、宅配関係などなどの現場にいらっしゃる方々、本当にありがとうございます。


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~足利公方邸があったあたりの滑川(恵観山荘庭にて)鷺がいた~


小田原北条の見聞録なのに見聞に行けないため、以前拝聴してまとめられなかった小田原北条の講演会や、BSで再放送中の大河「太平記」を観ていてフト思い浮かんだことを書いたりしております…


今週の「歴史秘話ヒストリア」は楠正成でした。先日の「英雄たちの選択」は新田義貞でしたし、BS3の大河ドラマアンコールで「太平記」の放映が始まったからなのでしょうか。

先週の「太平記」第2回目では、尊氏と、後醍醐天皇の側近である日野俊基殿が出合いましたねえ。日野殿は尊氏に京の都がどれほど素晴らしいか(そうかね?)を語り、強烈な印象を残して去っていきました。


京への憧れがつのる尊氏クン。それからあんなことやこんなことがあり、尊氏クンはブラザー直義が諫めるのにも耳をかさず、ここをチャンス!とばかりに鎌倉を飛び出し京の都へ向かいます。

ドラマでのことですが、このシーンを観ていて、青年時代初期に京を見た尊氏クンと、見ていないブラザー直義との違いが、兄弟の軋轢を生む原因のひとつになったのかもしれないなどと思いました。


あくまでもドラマの話よ。

実際、足利尊氏はこの頃に京都に行ったのですか?手持ちの本を何冊か調べましたが、そのようなことは見つけられませんでした。


さて、
パパ足利貞氏や、鎌倉での尊氏・直義たちの屋敷がどこにあったのか?のこと。


▲ ふたつの候補地

それは 大蔵稲荷下 のあたりだと、我らが「旧・八王子城を守る会」の会長でらした峰岸先生の『足利尊氏と直義』に書かれていました。


私達が鎌倉で見る「足利公方邸跡」という碑が建っている場所は、八幡宮から → 金沢街道をずーっと行って → パパ貞氏やブラザー直義の菩提寺「浄妙寺」も過ぎ → 「泉水橋」というバス停から住宅街に入るあたりです。

(余談ですが、浄妙寺と泉水橋の途中の街道沿いに「青海波」というお蕎麦屋さんがあります。お蕎麦もお酒も天ぷらも美味しい~。今は状況が外出自粛。鎌倉へは行けませんが、マリコ・ポーロ的にオススメのお店です。)


碑には、
「…足利義兼が居を定め約270年にわたり足利氏の鎌倉屋敷があった。足利尊氏、直義の兄弟は当地で生まれ育った。…」
とあります。

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~足利公方邸旧跡の碑~


▲ 大蔵稲荷下

峰岸先生の本を読んだ時、あれ?大蔵稲荷下とでは場所が違うね…と思いました。

でも、代が変わると屋敷も変わることもあります。現に北条執権家でも16代それぞれの屋敷があり全員が全員同じ屋敷には住んでいませんし、足利家も亀ヶ谷(長寿寺)だったり大倉だったりと代によって違うようです。


大蔵稲荷 がある「大倉(大蔵)」自体の範囲は広いです。今でいう二階堂・西御門・雪ノ下・浄明寺・十二所一帯です。碑が建つあたりも大蔵です。

では、大蔵稲荷 はどこでしょうか?


お手持ちの地図をご覧くださると助かります ー と言ってもほとんどの地図には載っていない謎のお稲荷さんです ー 金沢街道の岐れ道の交差点手前から滑川にかかる「大蔵稲荷橋」を渡って山の中に入った所にあるようです。北条得宗家の東勝寺や宝戒寺などに裏山から抜けられそうですが、しかとは分かりません。

屋敷は 大蔵稲荷「下」 とあるので、その麓の、金沢街道から滑川を渡ったあたり一帯ということですかね?頼朝が建てた父義朝の菩提寺「勝長寿院(跡)」も近くですな。


それとも、滑川は渡らないあたり?いや、それなら大蔵稲荷「下」とはしないでしょう。

あ!
滑川を渡らないとすると、そこは頼朝時代の大倉幕府があった場所で、頼朝の持仏堂だった法華堂や、それこそ頼朝殿のお墓もありますね。

足利家は源氏の嫡流ですから、そこに屋敷を構えたということはありえるような?それとも嫡流だからこそ、そこは聖域で、川を挟んで向かい合ったところに屋敷を構え、日々屋敷から川向うの頼朝殿のお墓を仰ぎ拝んでいた…とか。

いずれにしても、大蔵稲荷の方が、碑の建っている浄明寺より八幡宮にはずっと近く、碑とはちょっと離れています。


友の家の近くでもあり滑川に沿った道もよく歩きますが、このあたりは道が途絶えている(ような感じ?)ので行ったことがなかったです。

(またまた余談ですが、このあたりにも「千花庵」というお酒もアテも充実の雰囲気の良いお蕎麦屋さんがあります。もちろんお蕎麦も美味しいです。)


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~峰岸純夫『足利尊氏と直義』(2009.6) 吉川弘文館~


▲ 峰岸先生の本に戻ると…

・足利義氏(尊氏の直系何代か前)の「大倉亭」に、時の将軍(藤原氏)が方違えに行った(吾妻鏡)。

・「大蔵稲荷下」の貞氏邸で書写した(鎌倉市史)。

・尊氏が丹波で討幕蜂起したとき、息子の千寿王は「大蔵谷」を落ちていった(太平記巻10)。

等々とあり、峰岸先生は、「大倉(大蔵)亭が鎌倉時代を通しての足利氏の館と考えてよいだろう」としています。


フ~ム (~_~) ?
本と地図を見ながら考えていて、ふと思い出しました。そういえば、昨年(令和元年)6月に開かれた鎌倉考古研究所が主催した講演会で、田中奈保氏が足利氏の御所の場所についてお話しされていました!


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~田中奈保氏の講演は「鎌倉公方御所の所在について」~


▲ 田中氏の講演

峰岸先生の本に挙げられていた資史料と引用は同じでしたが、パパ貞氏や尊氏・直義の邸が碑のある方なのか、それとも大蔵稲荷下なのかについて、お話しの中で触れてらしたかどうか、忘れてしまいました…。

が、レジュメには、
「…「大倉」という広い範囲の中で御所が複数あったり移転したりした可能性を考慮せねばならないが、『新編鎌倉志』にいう「公方御所」(浄妙寺東隣)の位置と重なる史料上の初見を改めて検討した結果、その妥当性は高いことを指摘した。…」
とありました。


つまり、尊氏・直義の邸は、碑のある方ということですか?ふーむ。ワテにはもちろん分かりまへんが、では、千寿王が鎌倉から逃れた後、大倉亭 はどうなったのでしょうか。これはレジュメもメモもありました。

田中氏の講演によると、「兄弟の時代の 大倉亭 のことが史料に現われない理由は、北条氏によって破却されたからか?と長塚氏」だそうです。

子息の千寿王は後に、二階堂を足利御所としたそうです。尊氏殿は、中先代の乱後に二階堂から若宮小路の将軍家旧跡へ移ったとのこと。


こうやって書いていると、現地はおろか図書館にも行けないのがもどかしいです。でも、外出は自粛!県をまたいでは尚イケマセン。

「おウチで妄想してね」←小池都知事風に。


次回の3回目は「風雲児」。先のブログにも書いたマリコ・ポーロのイチオシ、尊氏様が初めて御上(後醍醐天皇)をお見上げ申し上げる、あのシーンがいよいよ!


「①BS3大河「太平記~父と子」と、北条高時のこと」
「③大河「太平記~風雲児」と、尊氏の早世した兄&討たれた長男竹若丸」

「講演会「鑁阿寺と足利氏」金沢文庫にて」

「新田義貞の鎌倉滅亡の日を歩く」

萩真尼 こと マリコ・ポーロ


画像は全てマリコ・ポーロが撮影しました。コメント欄をもうけております。公開させていただいてはおりませぬが、ご感想なりいただければ嬉しいです。

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