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2020年4月24日 (金)

③大河「太平記~風雲児」と、尊氏の早世した兄&討たれた長男竹若丸

マリコ・ポーロ

医療、保険、介護、保育、ゴミの収集関係の方、警察、保安、交通機関、公共機関、生活必需品製造販売、宅配関係などなどの現場にいらっしゃる方々、本当にありがとうございます。


Dsc_1991
~足利尊氏の屋敷跡だった長寿寺の庭は、今頃はシャガ(射干)で覆い尽くされていることでしょう。今年は行けない。~


小田原北条の見聞録なのに見聞に行けないため、以前拝聴してまとめられなかった小田原北条の講演会や、BSで再放送中の大河「太平記」を観ていてフト思い浮かんだことを書いたりしております…

本当は小田原北条の大河で、こういうことをやりたかったんだい!


さて、大河「太平記」3話目は、マリコ・ポーロ待ちに待った後醍醐天皇と尊氏様の出合いが描かれました。何度も同じことを書いて恐縮ですが、醍醐寺のお庭で偶然お見上げした御上。目と目が合ったあの瞬間が尊氏様の恋?の始まり。ドラマでの、これからの二人の関係を象徴しているような気がしました。

御上といい、日野殿といい、佐々木殿といい、京の都は青年時代初期(たぶん)の尊氏にとって刺激強すぎ!


大河「太平記」は今まで何度か観ておりますが、ここにきて、パパ貞氏についてチト違うことと、ドラマに出てこない人達がいることに突然気が付きました。

もちろんドラマですから史実通りでなくても全然かまいませんし、それを言い出したら前回触れた、そもそも尊氏青年は京へ行ったのか?もそうだし、私には分からないアレも、ソレも、コレも、と多々あるのでしょう。


鎌倉炎上前後のことは(も)不勉強・不案内なので良く分からないのですが、以下は気になったことの 三つ鱗(←小田原北条を書く時によく使う…シクシク)です。皆さんはどうにご存知のことと思いますが、数少ない手持ちの本で確認してみました。

合っているかにゃ~?こういう時に図書館へ行けないのがもどかしい。


▲ パパ貞氏はとうに出家していたのでは?

パパは、その偏諱「貞」を賜った、北条高時の父であり数代前の執権「貞時」が没した時に、出家したとされています。


年代を調べてみました。

執権貞時の没年は、応長元年(1311)。尊氏クンの元服は、元応元年(1319)です。ドラマでのパパにはまったく出家者の気配がありませんが、尊氏クンが5-6才の時にすでに出家していたことになりますね。


ただパパの出家はもっと前の執権貞時の生前のことかもしれないという見方もあるようです。尊氏クンが生まれる前のことですが、パパは、物狂所労 (心の病)だったといくつかの記録にあるそうで、出家はそのための可能性が強いそうな。

また、嫡男の次代家督が若くして亡くなった時、尊氏クンはまだ子供でした。一旦は家督を退いていたパパ貞氏が当主に戻ったので、ドラマではバリバリ俗体の設定にしていたのかもしれませんね。


▲ その、嫡男であった尊氏クンの兄はまだ生きていたのでは?

その名は「高義」。母は正室で、金沢殿の娘です。ドラマでは、パパ貞氏が金沢殿のオウチを訪ねた時にチラッと出ました。尊氏や直義のママ上杉清子殿は側室だったのですね。

高義さんが他界したのは 21才の時。病のようです。

高義さんが亡くなった時、尊氏クンは 13才です。元服したのが15才でしたから、ドラマ当初の頃は兄上はまだ存命だったはずです。尊氏少年と直義少年ばかりが出ていましたが、まあ、北条一門の子と側室の子では一緒に過ごすことがない家もありますし、これはドラマである


しっかし、小田原北条と同じですねえ。四代当主の氏政も次男でした。兄上は同じく早世しています。

何度も書いておりますが、もし兄上様が生きていたらその後の小田原北条の運命は違うものになっていたかもしれない。氏政・氏照も、あのような(どのような?)強い絆は結ばれていたでしょうか。


同じように、もし北条一族の婿である高義さんが存命だったら、尊氏・直義ペアはどうなっていたでしょう。鎌倉炎上はあったでしょうか。室町幕府は成立したでしょうか。

すべてはそうなるべくしてそうなったと思うのですが、それでも想像(妄想?)は尽きません。


高義さんは鎌倉の 延(円)福寺 にて弔われたそうです。号は「円福寺殿」。高義さんが母親のために開基したとも、母親が息子のために建てたとも伝わっています。

延福寺は直義が最後に幽閉されていたお寺であり、パパ貞氏や直義の菩提寺「浄妙寺」の裏山にあったそうです。今は廃寺となっています。


▲ 尊氏様にはすでに側室と子息がいた!

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~熱海の伊豆山神社。その子 竹若 は、ここから京へ逃れたともいわれる。~


知りませんでした…。上のふたつ▲を調べていて知りました。幼名は、竹若。母は足利一門の 加古氏の娘とのこと。

尊氏が正室の登子さんとの間に嫡男を授かったのは、25才の時です。それ以前に生まれた子は、父尊氏に認められず後に敵対した 直冬 しか知りませんでした。竹若、皆さんはご存知でした?


ドラマでの尊氏殿は可愛く初心な様子で登子さんとお話しをしていますが、本当はすでに側室も子供もいたのですね。

尊氏さまったら!💛


先のことになりますが、なんと竹若は、北条一門が東勝寺に果てたまさにその年に亡くなっているのですね。父尊氏が鎌倉幕府に叛旗を掲げ六波羅を攻めた時、竹若は京へ逃れる途中、駿河にて北条の追手に討たれたそうです。

生年は不明ですが、直冬や千寿王(義詮)の年齢からするとまだ少年だっと思われます。


なぜ伊豆山神社にいたのだろう…?

竹若の母の父、つまり祖父は基氏といい、足利4代泰氏の子とされています。しかし系図を見ると、泰氏の子に基氏はいません。でも、泰氏の他の息子たち、つまり母親の兄弟たちには、賢宝・覚玄・覚海と出家者の名前があります。竹若の伯父さんの誰かが伊豆山にいたのかな…?


尊氏が家督を継ぐのは27才の時。パパ貞氏が59才で亡くなった後です。遅いですよね。正室を娶るのも遅いです。なにか問題があったのでしょうか。これについては、もっと調べてから書きたいと思うておりまする。書ける知識が増えたらですが…テンテンテン。


✒ 参考にさせていただいている本(順不同)

・我らが「旧・八王子城を守る会」会長だった峰岸純夫先生『足利尊氏と直義』
・下野新聞社編集局『下野国が生んだ足利氏』
・森茂暁氏『足利尊氏』
・日本史史料研究会/平野明夫氏編『室町幕府全将軍・管領列伝』

・細川重男氏『鎌倉幕府の滅亡』
・亀田俊和氏『南朝の真実』
・永井晋氏『北条高時と金沢貞顕』
・田中奈保氏講演とレジュメ「鎌倉公方御所の所在について」


次回は「帝 ご謀反」なり!


「今日(3/21)は、北条氏康の早世した長男の命日です」

「①大河「太平記 父と子」~北条高時のこと」
「②大河「太平記 芽生え」~足利尊氏の鎌倉屋敷はどこにあったのか?」

「新田義貞の鎌倉滅亡の日を歩く」
「講演会「鑁阿寺と足利氏」金沢文庫にて」


萩真尼 こと マリコ・ポーロ

画像は全てマリコ・ポーロが撮影しました。コメント欄をもうけております。公開させていただいてはおりませぬが、ご感想なりいただければ嬉しいです。

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