小田原北条と「八丈島」
マリコ・ポーロ
医療、保険、介護、保育、ごみの収集、警察、保安、交通機関、公共機関、生活必需品製造販売、宅配関連などなどの現場にいらっしゃる方々、本当にありがとうございます。
神は乗り越えられる試練しか与えない…
今、「JIN-仁」の再放送を再見していますが、果たしてそうかなと思ってしまいます。若い方はそうかもしれません。でも我らある程度の年齢以上の者は乗り越えられないまま終わるのではないか、と。
すみません、冒頭からドヨ~ンとしたことを書いてしまいました。
さて、本題は、我らが新九郎さんの時代の八丈島争奪戦でござる。いざ、参る!
~戎光祥ヒストリカルセミナー「北条を倒すのはオレだ!~海と川をめぐる戦国大名の戦い~ 海をめぐる北条・関東上杉・三浦・里見の戦い」 レジュメ~
10年続けてきた小田原北条の見聞録ですが、不用不急の見聞は自粛。散歩圏内には北条ゆかりの場所がないため、以前拝聴してまとめられなかった講演会や北条以外のことばかり書いております…
今となっては、遥か いにしえ のことのように感じる一昨年/2018年の12月。「歴史秘話ヒストリア」で 新九郎さんこと伊勢宗瑞が取り上げられた時、八丈島 の陣屋の話があったのを覚えてらっしゃいますか?
そこでは、「八丈島の覇権争いは北条早雲の戦いの成否を決するもの」だとしていました。
小田原北条を10年以上も追いかけていながら、八丈島のことは初耳でした。聞いた時は、八丈島までぇ~?ホンマかいな?ヒストリアのことだからな~(ゴニョ)なんて思っていました。
しかし、どうやら本当のことのようですね。どうやら本当…と私が申すのも失礼ですが、昨年/2019年 に行われた真鍋淳哉氏の講演(上の写真)で、『八丈実記』(横須賀市史) というものに記録があることを知りました。巻9にいくつか載っています。
それは永正年間の、伊豆諸島をめぐる北条(伊勢)vs 扇谷・三浦の抗争中のこと。永正といえば、6年から始まったのが宗瑞の相模侵攻です。宗瑞は道寸殿の岡崎城を攻略 → 鎌倉侵攻 → 道寸殿が籠った三崎城を攻撃 → そして、三崎の落城が13年。
その頃の八丈島は、山内の家宰長尾氏→扇谷方であった神奈川の有徳人奥山氏(→のちに宗瑞に従属)や、宗瑞方である下田の御簾氏、道寸殿の北村氏などが、それぞれ代官として任命され、島の支配をめぐり様々な権力抗争が続いていたことが『八丈実記』に書かれています。
~若い頃毎月のように行っていた下田多々戸浜 / この海の先の伊豆諸島に向かって安宅船が出陣してゆく…ちゃう、観光船の黒船(写真の写真を撮った)~
例えば永正11年のこと…
奥山宗隣と伊勢宗瑞が合戦となり、奥山忠督が奥山宗隣に加勢するため八丈島から出陣
↓
道寸方が八丈島に渡海してきたため、奥山と道寸が戦いに及び
↓
奥山は敗北し新崎の浜から出帆
↓
しかし!沖合で伊勢宗瑞方の軍船13艘に追われ大島へ逃れる
↓
しかし!宗瑞の代官朝比奈の二百ばかりの軍勢に夜討ちをかけられる
↓
奥山は大島から三浦へ落ち延びる
↓
翌年、八丈島へ帰島
どひゃ~、色んな人の色んな船が島々の間をアッチへコッチへ!
この戦闘についての『八丈実記』の記載はいくつかあります。それらは事の経過が少しづつ違いますが、奥山・宗瑞・道寸らの船が伊豆諸島の海を動き回っている様子が目の前に浮かぶように書かれています。
それにしても当時の船は後の安宅船とは違って、関舟とか小早舟のような小ぶりなものだったとは思いますが。どうなんでしょ。
真鍋氏によると、
「この間、八丈島をはじめとする伊豆諸島においても伊勢氏と三浦氏の抗争が展開」され、「この時期の八丈島は、全体としては伊勢氏の支配下にあったが、島の南部のみ三浦氏の支配下」
にあり、
武蔵・相模・伊豆の混乱に、八丈島をはじめとする伊豆諸島地域も連動し紛争が発生し激化していき、それはつまり「伊豆諸島が、これらの地域と開運を通じて密接な関係を有していたことを示すもの」
なのだそうです。
八丈島の支配権争いが激化したのは、永正12年。本土では、宗瑞が道寸殿を住吉要害から三崎へ追いやり三崎要害を攻撃している頃で、上↑ の、奥山が帰島した後の戦闘では、敵味方3千人もの兵が討死したとあります。
5月には両陣営とも城を築き、宗瑞方の朝比奈が「新崎に陣屋を構えた」そうです。ありましたね、「ヒストリア」で言っていた 陣屋。
そして、永正12年の6月。宗瑞が伊豆諸島の支配を確保し、伊豆半島←→伊豆諸島←→三浦半島←→江戸湾 の海上ルートを掌握。これは、伊勢氏が「紀伊半島から東国に向かう際の重要な海上ルートを確保」することになったとのことです。
~明治の大砲のレプリカ、三浦半島は大昔から現代に至るまでも防衛拠点(砲台郡跡のブログ記事文末添付)~
また「ヒストリア」では、確か、八丈島の特産 黄八丈 のことにも触れていましたよね。
それについても、黄八丈って江戸時代ぐらいからの特産品じゃないの~?と私は思ってしまったのですが、これも、どうも確かなようです。
講演では黄八丈の話がでたかどうか記憶が定かではないのですが、図書館に行けないのでネットで黄八丈の歴史を見てみたところ、室町時代から知られていて、関東上杉氏、小田原北条、上 ↑ の奥山氏、三浦氏などが黄八丈をめぐって争ったようです。
「ヒストリア」で観た時は、なんで八丈島?と思ったのですが、講演で「当時の海上交通において伊豆諸島、特に 八丈島 が重要だった」ということを認識しました~。
講演では、江戸湾(当時はそう呼ばなかったが)が常に脅威にさらされていて、パトロールや挑発行為がもちろん北条によっても行われていたことや、玉縄の北条氏勝の判物が残っている野中氏や、上総の山口氏のように里見・北条両国をまたいで活動する、いわゆる海の半手の商人の話などもあり、とても面白かった(と記憶している)です。
このことは、同氏の著『戦国江戸湾の海賊』(戎光祥出版)でも読めます。
が、壮大過ぎて知識が浅い マリコ・ポーロ にはそれらはまとめきれず、八丈島 の 箇所だけをどうにか書かせていただきました。
…いや、八丈島のことだけでも全部は書ききれなかったので、ご興味を持ってくださった方は時勢が一段落したら図書館で『八丈実記』を是非ご覧くだされませ。
ちなみに、
『八丈実記』の著者は近藤富蔵という文政年間に流された流人で、父上は、エトロフや千島探検で有名な人物だそうな。富蔵は隣人を殺傷した罪で八丈島へ流され、そこで書いたのが『八丈実記』だそうです。
ということは、宗瑞や道寸殿が活躍した時から250年以上も経ってから書かれたものです。もちろん土台とした記録のようなものはあったのでしょうが、随分と時を経ていますね。
そうそう、この富蔵殿の島での奥様は、宇喜多秀家の末裔だそうですよ。八丈島の最初の流人であった秀家殿がここで出てくるとは!
へえ~~
「北条五代の娘たち ⑧ 玉縄水軍の御しんぞう様」
「公方の姫~青岳尼事件 あらたに知ったこと」
「北条氏綱が、三浦道寸ではなく息子義意を祀ったのは何故だろうか?」
「伊勢新九郎 湘南ボーイへの道」
「三浦半島の大要塞!観音崎の砲台群ガイドツアー」
萩真尼 こと マリコ・ポーロ
画像は全てマリコ・ポーロが撮影しました。コメント欄をもうけております。公開させていただいてはおりませぬが、ご感想なりいただければ嬉しいです。
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