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2020年5月13日 (水)

④ 大河「太平記~帝ご謀反」と、北条家はなぜ将軍にならなかったのか?

マリコ・ポーロ

医療、保険、介護、保育、ごみの収集、警察、保安、交通機関、公共機関、生活必需品製造販売、宅配関連などなどの現場にいらっしゃる方々、本当にありがとうございます。


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~『執権』2019.10 細川重男著(講談社学術文庫)カバーデザイン 蟹江征治氏~


小田原北条の見聞録なのに見聞に行けないため、以前拝聴してまとめられなかった小田原北条の講演会や、BSで再放送中の大河「太平記」を観ていてフト思い浮かんだことを書いたりしております…


第④話&⑤話を続けて観ました。謀反とは下の者が上の者にたいして起こすことを言いますが、上の者(帝)が下の者(執権家)に対して起こしたことは何という?

タイトルの「帝 ご謀反」とは、それをとらまえてワザと付けたのかな?


京の都から我が家に帰る時の尊氏様。頭から京で起きた様々なことが離れず、どうしたらいい?右馬介…と見事な乗馬姿(馬の背に寝転ぶ)で悶々としています。分かりますよね~、これ。

どこかへ旅行に行って帰る時の気持ち。あぁ、この高速に乗ったら、あぁ、この電車に乗ったら、あとは現実へまっしぐら。最寄りの駅に着く間際に流れる新幹線のアナウンス。

「We will soon arraive at 東京、品川、新横浜、上野、大宮、etc.」(←だっけ?)
が、
「We will soon arraive at 現実

に聞こえるもの。ドラマでのあの時の尊氏クンの気持ちとは比べものにならないでしょうが…


太平記の時代はただ今勉強中で、まだまだまだまだドラマや小説からの知識を超えるには時間がかかりそうですが、道誉殿は以前より鎌倉に居住していたのですね。

森茂暁氏の『足利尊氏』2017.3(角川選書)で、
足利尊氏はこうしたいわば後醍醐シンパたちといっしょに都市鎌倉に居住していたのであるから、折にふれての後醍醐関係の情報は彼らの間で共有・蓄積されたに違いない。…
と読んだ時、あれ?と思ったのです。


ドラマでは、尊氏が京の都で初めて道誉に会ったように設定されていましたが、本来は、尊氏と道誉は鎌倉にてかなり付き合いがあったということなのですかねえ。道誉が鎌倉の御相伴衆だということも忘れてしまっていました。


さて、本題でござる。

ドラマの④・⑤ を観ていて、以前より気になっていたことを思い出しました。これほどの権力を持ちながら、そも、前北条家はなにゆえ将軍にならなかったのだろうか?

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~北条得宗・執権の屋敷跡だった宝戒寺参道の碑。「北條九代屋敷 頼経公」とある~


まずは、↑ の謎の碑のこと。

この「頼経」とは誰ですか?
前にも書きましたが、ここが屋敷だったのは今のところ得宗・執権・連署の7人(7人は連続していない)と伝えられています。また、北条の9代目は、大河「太平記」の足利のパパ貞氏殿が「貞」の偏諱をもらった 貞時殿です。

それに、もし鎌倉北条家の人だったら源氏の「頼」を使いますかねえ?


「頼経」と聞いて思い浮かぶのは、源氏三代が果てたあと執権義時が京の公家から迎えた四代将軍「藤原(九条)頼経」、昔のドラマや小説などで「三寅」と呼ばれた幼児です。この子は、頼朝の妹の曽孫でした。

鎌倉の混乱をおさえるために頼朝の血筋を将軍として据えたとも以前はいわれることもありました。でも、当初は親王さんを迎えたくお願いしていたようなので、そうではないかな?

この幼児は8歳で元服し征夷大将軍となりますが、30才にならぬ前に時の執権により追い出され京に帰ります。


頼経以降の鎌倉将軍て、最後の守邦親王さん以外は皆追放されていますよね。守邦さんだってなんだか無視されていたような感じですし、「鎌倉炎上」時はどうしていたかも知りません(私だけ?)。いったい鎌倉幕府って、なんなんでしょうねえ?

な~んて、執権より将軍の方に気持ちが流れてしまいそう。


碑のことですが、ほな、「頼経」とは誰のことでしょう?北条得宗や執権に「頼経」という別名を持つ人がいたのでしょうか?調べても見つけられません。

碑は「北條九代屋敷」と「頼経公」とに少し間が開いていますね。ここは北條九代(誰?)の屋敷跡でもあり将軍頼経の屋敷跡でもある、と並列表記したのでしょうか?

ワテには分からん…。


6/6 加筆
細川重男氏の『鎌倉幕府の滅亡』を再読していて、「北條九代」の意味だけは分かりました。皆さんはご存知だったと思いますが、

北條九代=北條得宗家

を言うそうですね!時政・義時・泰時・時氏・経時・時頼・時宗・貞時・高時 の9人で九代ですか。

少しスッキリしましたが…頼経さんはいにゃい。


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~佐殿の前に突如現われたる名馬「池月」。まさに「池に映る月影」のようだった。伝承である(大田区洗足池)~


そこで話は戻り、前北条家はなぜ征夷大将軍にならなかったのかについてです。が、しかし、そんな難しいことが マリコ・ポーロ に分かるはずもないゆえ、細川重男氏『執権』を読んでみたのです。


それは「源氏ではないから」だと、以前はなんの疑問も持ちませんでした。そして、「ならなかった」のではなく「なれなかった」、つまり、「前北条家は将軍になりたかったけれど、源氏ではないのでなれなかった」と思っていました。

しかしある時、フト、あにゃ?源氏でなくても、親王さんやお公家さんも将軍になっているよね?ということに気が付きました。
今更ながらで…(^^;

坂東の戦国時代を調べるだけでも目いっぱい。イカン、イカン、これ以上興味の幅を広げては…とそれ以上は追及していなかったのですが、再来年(順調にいけば)の大河が義時殿と聞いて、がっくり気落ちしながらもチト気になったのです。


本では鎌倉北条のことを、「何の正当性もない極悪の政権・悪の一族がこれほどの長期間支配を存続することが可能なのであろうか…」と細川先生らしい書きようでしたが(どひゃ~💦)、「だとすれば、北条氏にも、その支配の正当性を支える論理が存在したのではないか…」と続きました。

じゃあ、それって何なのだろう?その論理で、あの長~~い年月、権力を維持していたのだろうか?


本は、二人の執権(得宗)、そして、私感ながら一人の将軍を中心に、「北条氏はなぜ将軍にならなかったのか」の答えに向かって進みます。

その二人とは、小四郎こと北条義時&時宗。一人の将軍とは、源氏賜姓をうけた7代惟康親王。北条時宗の時代の将軍です。


「この本は北条氏という「一族の物語」ではなく、「一族の物語」の底を流れる「基調低音」を書くことが目的」だそうです。

うーん、難ちい…。
浅い知識と働きの悪い脳の マリコ・ポーロ には、悲しいかな底を流れる基調低音はくみ取ることが出来ませんでした。

しかし、とても面白かったです。あっという間に読んでしまいました~ ♪(←じっくり読まないから基調低音が聞こえないんだ!)


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~能登国では佐殿の愛馬「池月」は能登町宇向田牧山の産とする。能登町鳥屋酒造さんの銘酒「池月」。器は福島相馬焼。自粛中、マリコ・ポーロは飲んでばかりいるんだろうって?チビットしか飲んでおりませぬ。免疫力が落ちるゆえ。~


話を戻し、それでは…

▲ 鎌倉将軍として必要だったものは

「清和源氏であることは、まったく意味をなさない。」(やっぱりそうだったのね。)

「必要だったのは、清和源氏であることではなく、頼朝の後継者であることではなかったろうか。」

「神格化した頼朝の後継者であることが、武家政権の首長たる将軍にとって必要な資格であったのではないか」


つまりは、鎌倉将軍には神格化されたものが必要で、頼朝の血筋の者なら後継者になりうるけれど、頼朝の血も引かないそのへんの武家(前北条)では将軍としての資格がないということですか?


それを「具現化した者こそ」、上に書いた、時宗の時代に源氏賜姓された七代将軍惟康なのだそうです。


しかし、頼朝の血を引かない前北条側からしたら…

▲ 北条氏がそのような将軍にならなかったのは

「…神聖化した将軍の下で得宗が将軍権力を代行するという政治体制(「得宗専制政治」)は、鎌倉幕府の歴史と伝統に基づく正当性、すなわち権威を持っていたのであり、……将軍を時宗が推戴し続けた理由も、この論理にあったのである。」


北条氏得宗は鎌倉将軍の「御後見」なのであり、自ら将軍になる必要もなく、また、なりたくもなかったのである。


ふう~、難しいことを書くことに挑戦してしまった~。
まとまりのない感想文をここまで読んでくださってありがとうござりまする。

マリコ・ポーロ が書いたことでは細川氏のおっしゃる「基調低音」が伝わらないと存じます。『執権』をお読みになってくださいませ。


毎週何かしら思い付いたことを書くぞ!と張り切ったのですが初めて調べることが多く、一週間「太平記漬け」になってしまう。時々、にしようと思います。
(^^;
次は「楠木登場」ですね!


✒ 参考にさせていただいている本など(順不同)

・我らが「旧・八王子城を守る会」会長だった峰岸純夫先生『足利尊氏と直義』
・下野新聞社編集局『下野国が生んだ足利氏』
・森茂暁氏『足利尊氏』
・日本史史料研究会/平野明夫氏編『室町幕府全将軍・管領列伝』
・田中奈保氏講演とレジュメ「鎌倉公方御所の所在について」
・細川重男氏『鎌倉幕府の滅亡』『執権』
・亀田俊和氏『南朝の真実』
・永井晋氏『北条高時と金沢貞顕』


▲今までの関連ブログ記事の一部です。暇で暇でどうしようもない時にでもご覧いただければいと嬉し。

「①大河「太平記 父と子」と、北条高時のこと」
「②大河「太平記 芽生え」と、足利尊氏の鎌倉屋敷はどこにあったのか?」
「③大河「太平記~風雲児」と、尊氏の早世した兄&討たれた長男竹若丸」

「新田義貞の鎌倉滅亡の日を歩く」
「講演会「鑁阿寺と足利氏」金沢文庫にて」

「氏綱の鶴岡八幡宮再建と氏康の「大鳥居跡」」

「早雲・秀吉の兵火に耐えた五体の運慶仏」
「前北条と後北条の 「伊豆 修禅寺」」


萩真尼 こと マリコ・ポーロ

画像は全てマリコ・ポーロが撮影しました。コメント欄をもうけております。公開させていただいてはおりませぬが、ご感想なりいただければ嬉しいです。

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