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2020年7月 5日 (日)

7月5日北条氏直は降った~「開城」とは当主が投降した日か?

マリコ・ポーロ

大雨の被害がこれ以上でませんように…。
地震も多いです。皆様、防災と、ウィルスにはくれぐれもご用心くださいませ。


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~今は暗渠となっている渋取川を唯一見られる井細田あたり~


天正18年7月5日、小田原北条五代当主 北条氏直は弟の氏房を伴い渋取口より降る


小田原開城のことはこの10年であまた書いており、そちらをご覧くださいましたらとても嬉しいです(文末添付)。

とはいえ、こたび新たに気が付いたこともあります。

それは、今年3月に出版された『北条氏直』シリーズ中世関東武士の研究第29巻(戎光祥出版)に載っている「北条氏直と高室院文書」(座間美都治氏)を読んでいてのことです。


これまで私は、7月5日 は氏直が投降した日なので、イコール=小田原開城の日であると思っていました。今までのブログにもそう書いていました。


また、氏直が投降した先ですが、
以前ブログに「氏直が降ったのはドラマのように官兵衛の陣ではなくて、滝川雄利の陣だよん」と書きました。

しかし、その後読んだ下山治久氏の『戦国北条氏五代の盛衰』(東京堂出版2014)には、
「氏直は、7月5日に羽柴雄利の陣所に行くと黒田孝高等に降伏した。」
とありました。


あれ?氏直が投降した先は滝川陣の滝川殿ではなく、同陣(たぶん)の官兵衛なのかもしれないのかなと思い、井伊直政の浅野への書状を読み直して(眺め直して)みました。どうやら滝川陣で、滝川と官兵衛が氏直と面会したようなことが書かれていました。

ドキュメンタリードラマを製作するわけではないので、氏直が滝川と対面したのか官兵衛と対面したのか、両人と対面したのかはどうでもいいっちゃあいいのですが、気になるのは座間氏のこの論文の内容です。


そこには…

・「六日早朝岳父徳川家康の今井の陣営に行き、降伏の意を表した。」
・「家康は婚姻関係にあるため、秀吉の嫌疑を避け、付近に布陣していた織田信雄の臣羽柴雄利の許に行かせた。」

そして、
・「翌七日開城し」


と、あるのです。

小田原開城は7日で、氏直が投降したのは5日ではなく6日…?
氏直は、最初に家康の元へ行った…?


井伊直政が浅野殿に出した6日付の書状には、氏直兄弟が「昨日」滝川の陣に走入ったとあります。また、新庄直友が同じく浅野殿に7日に出した書状にも、兄弟は「一昨日」投降したとあります。

どちらも時間までは書かれていませんが、氏直が投降した5日というのは5日の夜半だったかもしれず、6日早朝も同じようなものなのでこれも置いておくとして。


氏直は最初に家康と会ったのでしょうか?滝川の元へ最初に行って、そのあと滝川殿が家康の元へ連れていったのかと思っていました。

氏直の投降先は、直政の書状にも、新庄直友の書状にも、「羽柴下総陣」とあります。滝川雄利の陣のことです。最初に家康の元へ行ったけど、家康が秀吉を気にして滝川の元へ行かせたとは、それって、どこに書かれているのでしょう?知りたいです。


もしかしたら氏直は、夜陰、密かにお義父さんの家康殿の元へ行き(もしくは、投降の旨の書状を出し) → 投降について相談し → あらためて投降という形をとって滝川の陣へ降りた…

なーんてね。妄想。


(『北条氏直』に掲載されている論考は昔のもの 1980-90年代 が多いのです。最新の研究ではないのかな…。)


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~現代小田原城天守下に咲くヤマユリ(数年前に撮った)~


さてタイトルの「開城日」とは何をもってするか?です。


確かに、6日から徳川勢が城にドカドカと(←含むマリコ・ポーロの私情)入り始め、家康が入城し城を受け取ったのは7日です。

だから、5日(6日早朝?)は当主が降伏をした日で、受け取り人に正式に(?)引き渡された日、つまり7日 を本来は「小田原開城の日」と言うのだろうか?


江戸城の「開城日」は、慶喜が城を出た日ではなく、慶喜が降りた数日後の東征軍(大総督府とも言う)が正式に城を受け取った日を言うようですね。会津若松城は…容保公が投降した日と開城日は同じだったかしら?

細かいことにこだわって、あいすまぬ。


氏直が降りてすぐに家康が城に入っていればややこしくなかったのに。何を1日半も、もったいつけていたのだろう?

自分が入城する前に、榊原殿たちに城内のお宝をゲットする時間を少し与えたとか?いや、当主とその弟が城を出たばかりで城内は混乱状態。それを少し鎮めさせるために1日半必要だったのか?


いやいや、家康殿は以後も北条氏直にとても心を砕いてくださいました。だから別にもったいつけていたのではなく、続けて氏政さまが投降してくるのを待っていたのかな…。

氏直は家康の娘婿です。命永らえていれば、徳川の元でもっと出世できたでしょうに。惜しまれます…。


🐱 以下、山盛りになっってしまった7月5日のブログ記事の一部です。恐縮ですが、URLがるものはそちらを、無いものはタイトルをクリックでお願い致しまする。

Photo_20200705150601 

「北条氏直の投降は、走ったのか?」

「天正18年7月5日「小田原開城」 アーカイブ」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2016/07/post-c464.html

「北条氏直、最後の当主の 『最後の朱印状』」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2012/09/post-3b83.html

「小田原北条最後の日~かくて小田原は開城した」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2016/06/post-adb2.html
「北条氏政は、上洛準備を進めていた!」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2016/06/post-5154.html
「天正18年、そして小田原は囲まれた!」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2016/06/post-918d.html

「北条氏直の正室「督姫」の母の墓」
「今日は、428年目の小田原開城の日(2018)」

「北条一族の高野山 3 「小田原坊」」

「戦国フィナーレを望む 石垣山一夜城」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2009/10/the-b831.html
「堀秀政の小田原の墓」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2010/04/post-bf85.html
「「関白づくし」の石垣山一夜城」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2010/05/post-ab53.html

「天正18年の「石垣山一夜城」を歴友と歩く」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2011/12/post-017b.html
「石垣山で歴友たちと天正18年を偲んだ」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2013/07/post-e888.html

「小田原攻め、徳川方の陣場めぐり」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2010/09/post-5964.html


萩真尼 こと マリコ・ポーロ

画像は全てマリコ・ポーロが撮影しました。コメント欄をもうけております。公開させていただいてはおりませぬが、ご感想なりいただければ嬉しいです。

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